第九抄 然事起

 長屋での初めての夜を越し、朝を迎えた。


 起床時間は決まっているため、瑠璃も同室の女たちと共に身支度を整える。


 ふと隣にいた矢那が布団を押し入れに片付け終えるとため息を零した。


「どうしたの?」と瑠璃が尋ねると矢那は瑠璃を一瞥する。


「あーあ、あんた悪い時期に来ちまったね」


 なんのことだか瑠璃には分からない。


「ここは定期的にお偉いさん方が来るんだよ。問題が無いかってさ、ほっとけってんだ」


 ぶつぶつくちをとがらせ不平をもらす。瑠璃はやはりよく分からないが、矢那にとって不都合なことが起きていることは伝わってきた。


「おえらいさん?」


「そ。アタシらよりうーんと頭が良くて、そんで金もち」


「雑な説明だねぇ」


 一人だけ部屋にいなかった満月が苦笑交じりに、襖をすとん、と開け部屋に入ってきた。


「満月姐さん!おはようございます!」


 矢那をはじめとする部屋の女たちが満月に挨拶をし、満月もおはよう、とそれぞれ女たちに反応する。


「瑠璃」


 そしてふいに満月が瑠璃へ声をかける。


「よく寝られたかい?」


「は、はい。たくさん!」


 そりゃ良かった、と満月は瑠璃ににこりと笑ってみせた。


「最初は寒かったんですけど、周りに人がいるって暖かいんだなって思いました」


「へぇ、そんな風に考えたのかい」


「満月さんは思わない?」


「慣れちまってるからね。でもいいな」


 瑠璃は首をかしげる。


「いい、ですか?」


「アンタの考え方」


「わぁっ」


 満月は瑠璃の髪をそのすらりと細くたおやかな指で柔らかくほぐした。


「アンタのおかげであのまともに風呂も入れない女たちの部屋が極楽に思えるよ」


 少なくとも冬の間はね、と加えつつ伸ばしていた腕を引いた。


「あんたばっかりずるい」


 ふと聞こえた声の方を向くと、矢那が仏頂面をして二人を見ていた。


「あたしですら満月姐さんに頭なんか撫でてもらったことないってのに!」


「あっはは!矢那あんた羨ましいのかい」


 はっとした顔を見せた直後顔面を火照らせる矢那。


「だ、だって、満月姐さんはあたしの憧れで!!」


 何の抗議か分からない言葉で弁明する矢那。そんな矢那を見ながらふと瑠璃は考えた。


(矢那さんは何歳くらいなんだろう)


 同じくらいの歳のような気はするが見た目では若いと言うこと意外判断がつかない。


「あの、矢那さんはいくつなんですか」


「はぁ?急に何だってのよ」


「何歳くらいなのかなぁって思って」


「あんたってほんと!常識が無いんだから!」


 矢那が茹だったように怒る。


「まぁまぁ矢那、アンタは別に聞かれて不快に思うような歳でもないだろう」


 満月は瑠璃に目配せし、片目を閉じた。


(あっ、人に尋ねるなら自分から……)


「私、私はいくつなんだろう」


 矢那に続き満月も怪訝な様子になる。


「どういうことだい?」


「んんと、私昔のことあまりおぼえていなくて。歳は、たしか、十五は越えているんだけど……」


「ふうん?二十歳近いくらいかと思っていたがねぇ」


「あっあんた!都合が悪いからってサバ読んでんじゃないだろうね!」


 矢那が抗議するのを満月がよしな、と諌める。


「まぁ十五は越してたって記憶が少しでもあるならその前後だろうね。若いってのはいいねぇ」


 ほら、満月が矢那に言葉を促す。


「瑠璃はちゃんと言っただろう、アンタも教えてやんな」


「……あたしは十八」


 よくできましたと満月が矢那の頭を瑠璃にしたように撫でる。矢那は複雑そうな顔をしていた。


「満月さんは」


「訊くのはいいが瑠璃、今晩の寝床はなくなるんだと承知のうえかい?」


 なぜ!?と瑠璃は思ったし言いかけた。しかし満月の気温よりも冷ややかな目つきと威圧感を感じ「ごめんなさい」とだけ返した。矢那は「命知らずなやつ……」と瑠璃のことを呆れていた。


「まぁそれはおいといて、矢那が言ったように今日はお偉いさんとやらの見回りがあるのは確かだからね、ヘマすんじゃないよ」


「ヘマをしたらどうなるんですか?」


「良くて流罪、悪くて死罪」


 ルザイ?シザイ?と瑠璃は二人に尋ねる。


「……流罪も死罪も罪人への罰。流罪はこの葉朧圏から追い出されて、死罪はそのまま殺されるってわけ」


 矢那はもう瑠璃の無知具合に観念したようだった。重ねて、


「追い出されるってのは二度とこの地の土を踏めないってことで、殺されるのは死んであんたの人生終わっちゃうってことだから、いい?」


 瑠璃はうん!と頷いたが矢那は怪訝な様子だった。


「本当に分かってんの」


「矢那が言ってくれたことは分かった。でも死ぬのがどういうことかはあまり分からないな」


「分かってたら怖いってば」


「まぁとにかく気をつけな……」


―――――ドガン!!!!


 突如部屋の外から轟音が響く。


「な、なに!?」


 矢那と瑠璃、それに室内にいた女たちによる悲鳴やどよめきが漏れる。


 満月は外から聞こえた音と室内の様子に一寸動揺しながらもすぐに切り替えし、女たちに向けて声を放つ。


「きっと奴だね。アンタら、今日はとくに大人しくしていた方が良さそうだよ」


 そして瑠璃に向き直り、こう言った。


「災難続きになっちまうけど、一日乗り切ってもらうからね、瑠璃。頼んだよ」


 満月の言葉に呆然としていた状態からハッと意識を戻す。背中に汗が伝うのも気づけないでいる。


(外で何が起きたんだろう?)




ーーーーー




「だから貴様は無能だと言っとるんだ!!!」


 先ほど、女部屋でも聞こえた轟音の出所である、行灯舎の玄関口で年配の男のものと聞こえる怒号が響いていた。その怒号を向けられているのは、かの少年ハムシであった。


「申し訳ございません、銭峯ゼンホウ様」


 ハムシに銭峯と呼ばれたその男こそ、然る人物。行灯舎の管理を直々に任されている葉朧圏でも指折りの権力者である。


 ハムシは銭峯に蹴られた様子で、銭峯より数尺先でしゃがみこみ腹を庇いながら相手へ頭を垂れた姿でいる。


「フン、無論貴様ごときに期待などしていないがな。クソッ、気分が悪い。さっさと巡視なんぞ終わらせて帰るぞ!」


 息巻きながらその不均等な図体をズンズンと闊歩させ、付き人や部下と共に行灯舎の長屋の見回りを始めた。


 ハムシは未だ鈍く疼く腹を気にしながらも、その後列につき共に参じていった。




ーーーーー


(またハムシに八つ当たりか、あの豚主人)


 満月は銭峯をよく思っていない。よく思うものなどこの行灯舎のどこを探してもいない。


「あの、満月さん」


 瑠璃に声をかけられ、いけない、と満月は力んだこめかみをほぐす。


「今の音は……ここは大丈夫かな」


 安心させようと微笑む満月。


「大したことないよ、心配しなさんな。ほら、もうすぐこっちへやってくるんだから淑やかな箱入り娘でも演じて待ってな」


 それに対し、一人の女があたしらが箱入り娘ねぇと揚げ足をとり、周りの女たちもくすくすと笑い出す。先ほどまでの緊張感が少しほぐれた空気が漂う。


「満月姐さん、さすが」


 矢那が満月を尊敬の眼差しを向けながら感嘆の息を漏らす。その様子を傍らにいた瑠璃は見ていた。


「矢那は満月さんが好きなんだね」


「好きの簡単な一言でまとめるんじゃないの!あたしにとって憧れで、尊敬していて、目標で……あたしの世界そのものなんだから!」


「せかい……」


 瑠璃はその言葉を聞いてどことなく懐かしいような気分になった。


(なんだろう、何か大切なものを思い出したような感覚がする)


 記憶が戻った気はしない。


(分からない、分からないけれど。……)


 溢れた感情の置き場がなく、瑠璃は矢那に飛びついた。


「矢那もすごいよ」


 急に抱きつかれた矢那は慌てふためいていた。


「あんたっ、急に何よ!離れなって暑苦しい!!」


 瑠璃は素直に矢那を開放したが、高揚感は収まらない。


「矢那が見ている世界、私も見てみたいな」


 面食らったままの矢那はどう対応したらいいのか、いよいよ分からなくなっていた。


「あたしもあんたの頭ん中見てみたいっての」


 そうして銭峯らのものと思われるドタドタとした複数の足音が近づいてくる。


 満月はその無遠慮に鳴らされた音を聞きながら目を伏せ、覚悟を決めたようにまたまぶたを持ち上げた。忌々しく思う方向を襖越しに見ているようだった。

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