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 瞳はお散歩がとても楽しそうだった。だけど僕は嫌な感じがした。なにか心の奥底から湧き上がってくる不気味な感情の塊のようなものを感じていた。それは上の階にいたときも感じていた不気味さや不安といった感情に似たなにかだったのだけど、一階にやってくると、それは上の階にいたときよりもはるかに強烈な力を伴うようになっていた。

 びゅー、という冷たい冬の風が吹いた。僕はその冷たさに身を震わせた。そして僕は『死というもの』をまた思い出した。

 僕の体がまたぶるっと震えた。今度は風は吹いてはいなかった。

 ……これ以上はいけない。これ以上先に進んではいけないんだ。

 僕は心の中でそう叫んだ。でも、それは実際の声にはならなかった。実際の僕はただ、瞳のコートの中で、小さな体を震わせているだけだった。

 瞳が歩くたびに、ぎい……、ぎい……、という音がした。

 それはまるで、目に見えない死神が、僕たちを死の国に連れて行くために、近づいてくる足音のようにすら僕には思えた。


 びゅー、という風の音が聞こえた。

 ぎい……、ぎい……、という瞳の足音が聞こえた。

 壁伝いに移動する瞳は少しでも明かりを求めて窓のそばを歩いていた。見上げると、空に舞う白い雪の色が見えた。

 びゅー、という風の音が聞こえた。

 ……この風はいったい、どこから吹いてくるのだろう? という疑問を僕は思った。どこか病院の窓が開けっ放しになってるのだろうか? 雪が降っているのに、誰もそのことに気がついていないのだろうか? それともこの風は、もっと『別の場所』から吹いてくる風なのだろうか?

 ぎい……、ぎい……という瞳の歩く足音が聞こえた。

 僕はだんだんと気持ちが悪くなっていった。今にもこの場所から逃げ出したいと思った。でも、逃げる場所なんてどこにもなかった。

 ……びゅー、という風の音が聞こえた。

 その音はやはりどこか遠い世界から聞こえてくる音のような気がした。それはまるで悪魔の吹く笛の音のようだった。その音を聞いていると、なんだか次第に、僕の頭の中は混乱をし始めた。

 ……そして、『それ』は、その認識のすぐあとに、なんの前触れもなく、『突然』、やってきた。

 それは、本当に唐突な出来事だった。


 瞳の顔がいきなり、……『ぐにゃ』と溶け出した。世界が歪んで見えた。

 意識が朦朧とした。

 ……なにか、……たくさんの、……残像のような、いろんな無秩序で断片的なイメージが、僕の頭の中に飛来した。

 その無秩序で断片的なイメージの洪水に流されるようにして、……僕はそのまま、頭をくらくらとさせながら、まるで眠るようにして、瞳のコートの中で気を失った。

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