第10話


 神楽は家族や双樹に黙って、那智に会いに行くことを続けた。

 その度に那智は来てはいけないと繰り返し、すぐに家に帰らされたので、ほんの短い逢瀬だったのだがそれでも構わなかった。

 夜に抜け出し森を彷徨っていると、気づけば那智の岩屋に辿り着いているのは、彼が神楽を本気で拒絶していない証拠だろうと楽観的に考える。

 彼に会い、その声をきくことができるだけで、今までの日常とはまるで世界が違って見えた。

 昼間双樹に会うと、彼は何か言いたげに神楽を見ることがあった。

 おそらく双樹ならば、神楽の嘘にすぐ気づき、その行動などお見通しなのだろうと思う。

 けれど神楽はそういう視線を向けられても、素知らぬ顔で気づかないふりをした。いつもならば、「どうしました、双樹様」と彼の言葉を促していたのに、そうする気になれなかったからだ。

 彼は結局何も言わないままだったので、きっと呆れられているのだと思う。

 それに双樹との結婚は両家の間で決められたというだけの事だ。双樹も神楽にそこまで深い気持ちはないのだろうし、何とでもなるだろうと考えていた。

 妹の、華のこともある。

 二つ年が下の妹は、昔から双樹の事が好きだった。

 本人は隠しているようだったが、神楽には分かる。何せ生まれた時から可愛がり、いつも一緒に遊んでいた妹の事だ。

 神楽が嫁ごうが、華が嫁ごうが、漆間と覡の繋がりには変わりない。

 そう思っていた。


 ある夜、いつものように那智の元へと訪れると、彼は珍しく岩屋ではなく、深い滝壺の周りに連なっているごつごつとした岩の上に座っていた。

 空には冴え冴えとした細い月が輝き、冬の気配を感じさせるひやりとした空気の中で、星々が自己主張をしている。その下でぼんやりと空を見ている那智は、なによりも美しかった。

 神々しさすら感じる景色に足を止めて、神楽は暫くその姿に見入る。

 彼は神楽の気配にとっくに気づいていたのだろう、顔を此方にむけると立ち上がり、岩場から神楽の傍へと舞うように軽々と降りた。

「那智様は、人にしかみえませんし、そんなに美しいのに、どうしてずっとここに一人でいるのですか?」

「……妖と人は、違うのだよ、神楽。中には人を襲い、食らう妖もいる。人にとっては、獣と同じだ」

「那智様は違います。違うから、知りたいのです。人を支配する力もお持ちでしょう? 他の里ではそうして生きている妖もいると聞きました」

 那智は少し考える様に目を伏せると、口を開く。

「私は、自分が何故こうしているのか分からない。人のように、家族というものがあるわけでもなく、気づけばここに存在していた。人は私を恐れ、他の妖は私に敵意を抱き警戒する。ここから動けば、他の妖の居場所を侵し、争う羽目になるだろう。だから、こうしている」

「そう、なのですね」

「気づけば、人が増え、里が出来た。お前の村の人間たちが、私を恐れ敬うようになった。私としてはどうでも良かった。けれど、恐れている限りは傍に寄らないだろう。丁度良かった」

「那智様は、本当にずっと一人だったのですね」

「あぁ、そうだな。かつて私はお前を愚かだといったが、こうして岩屋に閉じこもっているしかない私の方が、余程愚かだろうな」

 そう言って自嘲する那智の中に、深い孤独を感じる。

 神楽は思わず駆け寄って、その広い背に腕を回した。

 神楽は彼を抱きしめているつもりだったが、縋りついているようにしか見えない。背丈のない自分が恨めしかった。

「那智様、私があなたの傍にいます。ずっと、これからも」

「神楽、私は……、お前が私を想ってくれている事に甘えていた。口では帰れと言いながら、お前の訪れを待っていた。けれど、もう終わりだ。お前が森に入っても、もうここには通さない。私は妖だ、人のようには生きることが出来ない」

 全てを諦めたようにそういう彼に、神楽は首を振る。

「妖だから、何だというのです。私は那智様の側に居たいのです」

「お前は、私の本来の姿を知らない。私は醜悪な百足だ。見ればお前も怯えるだろう」

「怯えません。あなたが何だろうが、私にとっては愛しい那智様に変わりはありません」

 神楽はきっぱりとそう言って、那智の顔を見上げた。頑なな彼女の様子に那智は深く溜息をつく。

 神楽の腕の中で、那智の輪郭が次第にぼやけていく。質量が増え、形が変わり、もう抱きしめている事はできなかった。

 立ち竦む神楽の目の前に、美しい青年のかわりにそこにいたのは、巨大な恐ろしい百足だった。

 凶悪な顎に、光る金色の目。節のある体はどこまで続いているのか、うねうねと捻じれ、全てを視界に収めることは困難だ。

 その巨体は沢山の太い足に支えられ、体は黒く艶やかに光っている。ガサガサと数百にも思える足が、動く度に音が響く。

 神楽は躊躇わず平然と百足に近づいていくと、自分の背丈以上ある太い足の一本を抱きしめる。

「どんな姿だろうと、あなたは優しくて淋しい那智様です。私の気持ちは変わりません」

 大百足は首をもたげると、神楽を見下ろす。

「これを見ても、お前は私の元に来るというのか」

「はい。私は那智様と共に居ます」

「神楽……、来ればもう、村には戻れない。お前は人ではなくなるのだぞ」

「構いません。もう心は決まっています」

 ここで彼に初めて会った時から、神楽は彼に心を奪われていたのだ。

 今更悩むことなど何もない。

 神楽は目をふせる。幸せだった。

 那智の傍に居られる。

 家族の事や、友人たちの事、双樹の事、全ての事がどうで良いとさえ思う。

 百足の固い感触が、人のそれに変わった。優しく力強い腕が神楽を包んでいる。

 人の姿になった那智は、優しさ故に誰とも関わることのできなかった、繊細なただの青年のように思えた。

「神楽、いいのか」

「私を信じてください」

 那智を見上げて神楽は微笑む。

 とはいえ、今すぐにというわけにもいかない。

 本当はそうしたいのだが、そんなことをすれば、妖を信用していない様子の双樹は、神楽が那智に攫われたとでも思うだろう。

 それこそ、争いになりかねない。

「きちんと身の回りを整理して、新月の夜参ります。だから、待っていてください」

 神楽はそう言うと、那智の胸に顔を埋めた。


 そう。

 そうだ。

 思い出した。

 彼は一人だった。

 いつからはじまりいつ終わるとも分からない、永劫の生をずっと一人で享受していた。

 神と敬われ、妖だと恐れられながら、ずっと。

 優しく、可哀相な那智。

 傍に居たい。ずっと、傍に。例え人で無くなったとしても、彼の傍に居られるのなら。

 私の幸せは、そこにしかなかった。

 それなのに。


 村に戻り、那智の傍に行くことを話すと、覡の当主である父は喜んだ。

「神楽が神に見初められた」とその門出を祝おうとした。代々覡家に生まれた女は、幼いころに那智に会わせるという決まりになっていた。そこで神である彼に見初められ、請われ傍に侍ることができれば、村は繁栄すると信じられていたからだ。

 だから、神楽の事は覡にとっては慶事だった。

 双樹が口を挟むまでは。


「……神楽は、妖に惑わされているのでしょう。所詮妖は、妖。人を食らう獣だ」


 どうして双樹がそんなことを言うのか、神楽には分からなかった。

 違うと言っても、信じて欲しいと言っても、だれも神楽の言葉を聞いてはくれなかった。

 神楽は、双樹の屋敷に閉じ込められた。


 ――両手が、痛む。

 何度も叩き、掻きむしったせいで傷だらけだ。

 それでも、扉は開かなかった。

「ここから、出して。出して、双樹様……!」

 悲鳴に似た叫び声も、誰にも届かない。

 私は、約束を守れないのか。

 どれ程あの人は傷つくだろう。

 それを思うと、涙が溢れた。

「那智様、那智様……」

 神楽は無力感に打ちひしがれながら、自分の行動を振り返る。

 恋に溺れ、何も見えていなかった。自分の行動がどういった結果になるのかなど、考えてもいなかった。

「姉さま。酷い人。……双樹様は、昔から姉さまの事を大切にしていたというのに」

 扉の向こう側から声がする。

「華? お願い、ここから出して」

 妹の声だとはすぐに分かった。

 けれど、いつも姉さま姉さまといって慕ってくれた彼女のものとは思えない、突き放すような言葉だった。

「駄目。……姉さまは、双樹様を裏切った。私は姉さまと双樹様が幸せになってくれたら、それで良かったのに」

「華は双樹様が好きなのでしょう? 私がいない方があなたの為になる」

「そう。だから、私は双樹様の役に立つ」

「華、何をしようとしているの。危ないことはやめて、華」

「馬鹿な姉さま。それでも、私は姉さまが、大好きだった」

 華の口ぶりに、嫌な予感がする。

 それが神楽が妹の華と話した、最後の言葉だった。



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