第8話


 涼は、夕暮れの中一人で帰路についていた。

 昼食を一緒にとった桜と弘一は、夕方からアルバイトがあるという。

 昼過ぎに別れた後、涼は一人でなんとなく街を彷徨っていた。用事があったわけじゃないが、まっすぐ帰る気にならなかったからだ。

 もうすぐ一日が終わろうとしている。

 結局普段と変わらない、何もない一日だった。それで良かったじゃないかと自分を納得させて、ゆっくりと家への道を歩く。

 夕日に照らされた路地には、珍しく誰もいない。

 住宅街なので、いつもは子供連れの母親や、家路につく学生たち、それから会社員と思しき男性たちともすれ違うのだが、随分と静かだ。

 ふと、人の気配を感じて視線を動かす。

「……昼間の」

 幻だと思っていた。

 昼間雑踏の中に見た、白い髪をした、美しい少女が目の前に立っていた。

 涼は、心臓がどきりと震えるのを感じる。

 あまり、感情が動かない方だという自覚がある。こんなことは初めてだ。

「君は誰?」

 少女と話したい。

 誰かに興味を持つことも、涼にとってはとても珍しく、そう思う自分に少しだけ驚く。

 彼女も此方に用事があるのだろう、何か言おうとして、困り果てている様子だ。

 涼が尋ねると、彼女は唇を開く。

「……私は、琥珀。覡、琥珀。あなたは、漆間涼?」

「そうだよ。俺に何か用?」

 新雪のような、柔らかく透き通った声で呼ばれると、涼は自分の名前が何か特別なものになったような気がした。

「私を、覡を、助けて欲しい」

 不安気に小さく、けれどどこか凛とした声音で、彼女は言う。

 助ける。

 助けるとは、どういうことだろうか。

「覡の、呪を知っている?」

 意を決したように、琥珀という名前の少女は耳慣れない言葉を口にした。

 涼は眉をひそめ首をかしげる。

「……漆間は、千年前……大百足の封印をした。私の一族を生贄として」

「ごめん、よくわからない」

 困り果てた表情を浮かべる涼を気にせず、琥珀は続ける。

 考えながらゆっくり、必死に話す彼女には、悲壮感のようなものが漂っていた。

「私は、十八年間屋敷に閉じ込められていた。封印の巫として、滝壺に投げ込まれる為に。……やっぱり、何も知らないのか」

「わからない」

 わからないけれど、何か確信のようなものが涼の中にはあった。

「でも、俺はずっと琥珀を待っていたような、気がする」

 初対面の少女に言うような言葉ではないだろう。

 しかし、涼は、琥珀に会う必要があったのだと、強く思う。

 それは彼女がいうように、彼女を助けるためなのかもしれない。

 涼の言葉に、琥珀は驚いたように目を見開く。

 涼の首飾りと同じ色をした紅い瞳が、困惑に揺れている。

 そして、自分を守るように、両腕で自分の体を抱きしめた。

「ぃや、嫌、やめて、私は……、私はあなたじゃない……!」

 それは涼に向けられた言葉ではなかった。

 琥珀は自身に言い聞かせるように、うわごとのようにそれを繰り返す。

 何が起こっているのか分からないが、ともかく苦しんでいることはわかった。

 涼が彼女に手を伸ばそうとした時だった。

「双樹様」

 小さな声で、彼女が誰かの名前を口にした。

 再び顔を上げて、涼をまっすぐに見据えた琥珀が、涼には何故か先程とは別の人間のように思えた。

「ごめんなさい、双樹様。けれど、私の罪を、あなたの罪を、終わりにしなくては」

 ひどく悲しそうに、彼女は言う。

 そして、一雫の涙を零した。

「なんの罪もない那智様を、救わなくてはならないのです。私もすぐに、冥府に還りましょう。それが償いに、なるわけではないけれど」

 ごめんなさい、と彼女はもう一度言った。

 何のことなのかさっぱり分からずに、立ち尽くしている涼に、すっと細くしなやかな指先を向ける。

「殺せ」

 琥珀の手には、何が紙のようなものが握られていた。

 涼やかな声が信じられない言葉を紡ぐと同時に、その紙がふわりと浮き上がり、薄く光る。

 一瞬のことだった。

 涼の目の前に、輝く銀のたてがみを持つ巨大な狼が浮かんでいた。

「なに……」

 信じられない光景に、夢でもみているのかと思う。

 そもそも、琥珀という少女に会ったこと自体が、夢の中の出来事ではないのかと。

 狼は空中でひらりと体を動かすと、真っ直ぐに涼に飛びかかる。

 地面に叩きつけられた。

 夢だと思いたかった。

 けれど、のしかかる狼の圧倒的な質量と、背中から広がる体の痛みが、否が応でもそれが現実だと涼に教えてくれる。

 これが、『悪い事』なのか。

 今日、自分は死ぬのか。

 そう、どこか他人事のように涼は思う。

 不思議なほど、焦りや恐怖はない。

 まるでこうなることを、望んでいたように、涼の頭は冷静に、今の状況を受け入れている。

 琥珀が助かると良いけれど。

 それだけを、最後に考える。

 狼の牙が、有無を言わせず涼の喉元に突き刺さりそうになったときだった。

 唐突に、目が眩むような光が涼を中心に膨らんで、夕暮れの通りを真昼のように明るく照らした。

 眩しさに目を伏せる。

 予想していた痛みの気配がなく、のしかかる狼も嘘のように気配が失せた。

 伏せていた目を開いた時、少女はアスファルトの上に倒れ、狼ははじめから存在していなかったように、その姿を消していた。

 ひらりと舞い落ちてくる紙のようなものが、ひとりでに青く燃え上がり、消えていく。

「何なんだ……」

 どう考えても異常だ。

 夕日が落ちて、宵闇が辺りに漂い始めている。

 琥珀はぴくりとも動かない。

 彼女の無事を確かめなければいけないと、涼は痛む体をなんとか起こす。

 顔をしかめながら立ち上がると、道の奥から背の高い男が現れた。

「あー……、漆間の術は廃れたと思ってたのにな」

 油断した。

 男は、そう残念そうにため息をついた。

 涼は息を飲む。

「良い護苻だな。狗神が、消されるとはな」

「……いぬがみ?」

 尽は悠々と歩き、琥珀の側で立ち止まる。

 そして、当然のように彼女を抱き上げた。

「陽炎」

 囁くような言葉とともに、彼の足元から七色の美しい羽を持った小さな虫のようなものが、ひらひらと舞い上がる。

「またな、漆間涼」

 口角を釣り上げて、旧知の相手に言うような、気安い挨拶を男はする。

 しかし、涼に向けられているのは、冷たい敵意だ。

「待て、琥珀は」

「お前が心配することじゃない」

 冷めた声音は、苛立ちを含んでいる。

 男の言葉に呼応するように、一陣の風が吹いた。


 二人の姿がその場から消えて、あとに残されたのは痛む体と、まるでいつもの日常だとでも言いたげな、すました薄暗い路地だけだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る