第7話


 琥珀は尽に手を引っ張られながら、大通りから出て、静かな路地裏の店に入った。

 ほどんど客のいない薄暗い店の個室の席はソファシートになっている。ベロア調の生地の肌触りが心地よく、身を預けると少しばかり体の緊張が解れた気がする。

 尽が適当に注文してくれたらしく、琥珀の前にはクリームがたっぷりかかったシフォンケーキと、紅茶が運ばれてきた。

「……籠の鳥のお嬢さんにしては、文句も言わずによく頑張ってるな。足も痛いんだろ?」

「……私は、大丈夫」

 そうか、と彼は笑って、琥珀に手を伸ばす。

 するりと頬を撫でると、テーブルの上に置いていた手を優しく掴む。

「ほら、震えてる。何があった?」

 これは、特別な相手にすることなのではないのかと、琥珀は思う。

 けれどその温もりに縋りたかった。

 怖かった。

 甘えたことを、情けないことを言うべきじゃないとは分かっているが、どうしようもなかった。

「……漆間涼を知っている気がした。知らない筈なのに。……私は、神楽なのかもしれない」

「お前は琥珀だろ? 考えすぎだ」

「……尽。神楽は、彼に謝りたいと思っているようだった。勿論恨んだり、怒ったりもしている。でも、どうしてか、それだけじゃなくて」

「それはずっと昔に死んだ女の話だ。お前とは関係ない」

 尽は小さく舌打ちをつく。

 彼がそうして苛立っている姿を見るのははじめてで、琥珀はびくりと身を竦ませた。

 繋がれている手に、力が籠るのを感じる。

「……お前は琥珀だ。十八年、あの窮屈な牢屋で生きてきたのに、気が触れたりもしなかった、強いお嬢さんだよ。大丈夫だ、俺がそれを知ってる」

 優しくそう言われると、堪えきれずに涙がはらはらと零れてくる。

 情けなさと不甲斐なさに掌でごしごしと目を擦った。

「違う、私は、大丈夫……、教えて欲しい。私は、何をしたらいい?」

「もう少し泣いても良い。お前はまだ子供だろう、大人に助けを求めるのは悪いことじゃない」

 あぁ、そうか。

 彼は私を子供だと思っていて、だから優しいのか。

 すっと頭が冷えた。なんだか泣いてしまったことが余計に恥ずかしく、琥珀は首を振る。

 掴まれていた手をやんわりと離すと、もう一度きちんと濡れた顔を拭った。

「……尽、私は何をしたらいい? どうしたら、覡は救われる?」

 尽は一度視線をそらすと、それから何かを諦めたように深く息をつく。

 そして、一枚の不思議な文字が書かれた小さな紙を琥珀の前に置いた。

「少しだけ、俺の話をしよう。お前が落ち着くまでの世間話だと思って聞いてくれて構わない」

 琥珀が黙っているのを了承だと受け取ったらしく、彼は続ける。

「どこからら、話せば良いのか……千年前、大百足が封じられたことで、世界の均衡が崩れたと思ってくれ。国のそれぞれの場所を住家にして、力あるものが牽制しあっていた一角が崩れて、息を潜めていた他の妖がここぞとばかりに暴れはじめた」

「他の妖?」

「あぁ。蛟や、大蛇、土蜘蛛に鬼等。今は忘れられてしまったが、異形はあらゆる所に存在した。皆、人々に崇められ、畏れられていた。それらは那智のように、触らなければ無害というわけではない。取り分け土蜘蛛は暴虐だった」

「蜘蛛……」

「そう、蜘蛛だ。蜘蛛と言っても、半分は虎だけどな。土蜘蛛は、大百足と相性が悪い。妖にも格があり、力の差がある。土蜘蛛が暴れ、村の術者では抑えがきかなくなると、術者たちは那智に助けを求めるのが古くからの決まり事だった」

 尽は懐かしそうに目を細める。

「那智は、人を助けていた?」

「そうだ。かつて神楽を愛したように、奴は人に近しい感情の持ち主だった。要は、お人好しだ。助けを請われたら、手を差し伸べずにはいられなかった」

 神楽と出会う前は、孤独ながらも穏やかに暮らしていたのだろうか。

 人を愛してしまったことで、那智も漆間と同じように、道を踏み外してしまったのか。

 結局誰も幸せにならなかった。

「その那智が封じられてしまった。あっという間に村は滅んだよ」

「土蜘蛛が、皆を殺した」

「そうだ。殺して食った。術者は戦ったが、無駄だった。蜘蛛は結局旅の武者に殺されたという話だが、これは多分、人に変化していた他の妖の事なんだろうな」

 一度、尽は息をつく。

「俺は、蜘蛛に殺された術者の一族の生き残りだよ」

 さらりとそう言った彼の言葉には、なんの感情も込められていなかった。

 琥珀は、それが真実なのか確かめる術を持たない。

 しかし、彼は長い間隠されてきた覡の巫の存在を知り、自分を篭から出してくれた。それに、普通の人間とは違うように思う。

 琥珀には、彼を疑う理由がない。

 その優しさも、差し伸べられた手の力強さも、偽りだとは考えたくない。

「八津房は、現代に残る数少ない術者でな。那智の封印には、少なからず遺恨もある。そんな訳で以前から、覡の贄については調べていたんだ。悪しき習慣は、断ち切らなきゃいけないってのが、術者としての努めな訳だ。だが、手が出せなかった」

「どうして?」

「巫を逃がせば、封印が解ける。那智が今どんな状態なのかは分からないが、人々の障りになるのは確かだろう。残念だが、八津房には、那智を葬る程の力がない」

「じゃあ、何故私を助けてくれた?」

「術を解く方法が分かったからだ。ようやく、漆間が見つかった」

 小さな声で、尽が言う。

「贄を捧げなければ那智は自由になるだろう。けれど奴を岩屋に封じ込める呪縛は中途半端な状態のままだ。苦痛から解放されるため、暴れるのは目に見えている。解呪を行えば、元々理知的な相手だからな。そう酷いことにはならない筈だ」

「……会話ができるのなら、話してみたい」

「お勧めはしないな。お前は自由になれる。そんなものとは関わらない方が良い」

 そうだろうか。

 神楽がいない今、自分が神楽の代わりに彼の傍に居るべきなのではいか。

 もしかしたら、那智は私を、必要としてくれるのではないだろうか。

 琥珀は自由になった自分の事について考える。

 琥珀の存在意義は、今までは神の嫁となることだけだった。それがなくなってしまえば、自分には何もなくなってしまう。空っぽなのは、目的がないのは、理由がないのは、怖い。

「話を戻すぞ。お前たちにかけられた呪、人の命を贄にして行う術を、禁呪という。命を冥府に捧げることで、冥府の神の力を借りる術だ。冥府っていうのは……、そうだな、黄泉平坂の話は知っているか?」

「本で読んだことがある。妻を助けるために、死者の国に行った男の話だったと思う」

「そう。黄泉の国、死者の国とも言われている。そこには古の昔、母であるイザナミよって幽閉されたカグツチという神がいる。こいつが、人の命を弄ぶのが好きな神でな。禁呪に力を貸してくれる――とは言われているが、俺も実際使ったことはないから定かじゃない」

「私の読んだ本は、おとぎ話、だと思っていた」

 信じなくても構わない、と尽は笑う。

「……で、だ。禁呪の厄介なところは、最上位の存在である神の力が施されているせいで、その禁呪を使った術者にしか解けない、ってところだ」

「漆間涼には、それができる?」

「まぁ、できるな。できるだろうが、やり方は知らないだろう。俺も知らない」

 琥珀はまじまじと尽をみつめる。

 彼は肩をすくめた。

「何となく、尽は何でもできるのかと思っていた」

「それは買い被り過ぎってもんだ。そこでお前がとるべき方法は、二つある」

 尽は、テーブルの上に置きっぱなしになっている紙に指を置いた。

「一つ目は、漆間に呪を解いてほしいと頼むこと。もしかしたら、漆間家には何かしらの言い伝えなんてのが、残ってるかもしれない。頼めばあっさり呪が解けるかもしれない」

「……うん、そうだと良い」

「全くその通りだ。で、二つ目。これは簡単で最も確実な方法なんだが、漆間涼を殺せば良い」

 まるで今日の天気の話をしているかのように、とてもあっさりと尽は言った。

 琥珀は唖然としながら、今の言葉の意味を繰り返す。

 漆間涼を、殺す?

「……人の命を奪うのは、いけない」

「お前は命を奪われようとしている。不公平だろ?」

 ぽつりと言った琥珀に、言い聞かせるように尽は言葉を返す。

「私は、もう、死ぬものだと思っていたから、構わない」

 喉が渇いた。

 大丈夫かと気遣ってくれて、世話を焼いてくれて、助けてくれた尽が、まるで別の人間に見えた。

 それが当然の権利のように、人の命を奪えという。

 そんなこと、できるわけがないのに。

「妹は、瑠璃はどうする? お前はその為に、ここまで来たんだろう」

 尽に指摘されて、琥珀は俯いた。

 握り締めた拳に、爪が食い込んでいる。

「私は……」

「考えてもみろ。漆間は、覡だけを犠牲にしたんだ。自分は逃げて、今じゃ普通に暮らしてる。酷い話だろ」

「でも」

「俺が変わりに殺してやりたいぐらいだ。無理だけどな」

 術者は人を殺してはならない。そういう制約があるんだ、と、彼は言う。

「それに、呪を施された者が術者を手にかけなければならない、ということになっている。そういう決まりだ、仕方ない」

「……まだ、そうしなければいけないと決まったわけじゃない」

 挫けそうになる己を叱咤して、琥珀は口を開く。

「漆間涼と、話してみる。……私の事、覡の事をしらなくても、手伝ってくれるように、お願いしてみる」

「上手くいくと良いな。たぶん、厳しいだろうが。……そこで、一つお前に贈り物がある」

 尽は指を置いていたテーブルの上の紙を、琥珀の方へとすっと弾いた。

 琥珀の目の前にひらりと落ちたそれは、手のひら程度の長細い大きさで、何かの文字がずらりと書かれている。

「それは、八津房の呪符だ。望めば、人ならざる者がお前に力を貸す。お嬢さんには、男を殺すことなんて無理だろう。それは、人を殺せる力を持っている。ひととき、お前に権利を譲る。八津房の力だが、俺が手を下したことにはならないから、安心して使って良い」

 いらないと言って返したかった。

 けれど、持っていろと言う彼は、有無を言わせない恐ろしさがあり、琥珀は恐々と呪符を手にすると、二つに折りたたんで洋服のポケットにしまった。

 ただの紙である筈なのに、ずしりと重たいような気がした。

 これを使わなくて済む可能性もあるのだと自分に言い聞かせるが、心のどこかでそれは無理だろうことも分かっていて、絶望的な気分になる。

 自分たちが救われるために、他者を犠牲にしていいのだろうか。

 果たしてそんなことが許されるのか。

 許されるわけがない。

 それに、琥珀は自分が漆間涼と再び会った時に、冷静でいられる自信がなかった。

 心の中に巣食っている神楽の存在に、浸食されてしまうような気がしていた。

 尽が傍に居てくれたら大丈夫だと、つい先ほどまでは思っていたけれど、もう今は、何を信じていいのか分からなかった。

 ともかく。

 漆間涼に会わなければ。

 そのあと、どうするかまではまだ決めることができていないが、ともかくまずは会いに行かなければと、琥珀は思う。

 先送りにすればするほど、動けなくなってしまうだろう。

 琥珀は強くない。

 他者の言葉だけで心が揺らぎ、何もできなくなってしまう自分を嫌というほど理解した。

 だからこそ、考えるよりも動かなければいけない。

「漆間涼のところに行く」

「あぁ、分かった。ちょっとした呪いでな。居場所を辿ることが出来るようになっている。連れて行ってやるよ」

 満足げに尽は頷いた。



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