夜明け前

 長い夜だった。というのも、布団を彼女に貸し出してしまったからだ。僕は僕で横になりたかったのだけど、一応、いつ彼女が落ちてくるかもわからないからベッドにはいられなくて、部屋の隅でじっとしていた。おかげであんまり寝心地は良くなくて、今日は長めに寝たいなと思ってたのに、夜明けが来るよりも先に彼女に顔を叩かれて起こされた。

「うぇ、なに?」

「起きろ、私の荷物の場所まで案内しろ」

 声の大きさのわりに確固たる意志を感じさせる囁きが聞こえた。声のほうを見ると、相変わらず彼女はふわふわ飛んでいて、僕を見下ろしていた。

「いいけど、まだ夜明けまでだいぶ時間があるよ。もう少し寝させてくれないかな……」

 あくび交じりにゆっくりと、立つこともせずに返事をした。人に見られたくないったって、もうちょっと余裕があるはずだ。

「私にとってはここでの時間感覚を掴む訓練になる。人が活動してないならその分作戦会議ができる。早くしろ」

 昨日開けた穴のことを気にしてるのか、ずっと囁き声のままだ。そして僕が出かけるのはどうやら決定事項のようだった。仕方がないので顔を両手で叩いて、力を入れてぎゅっと目をつぶった。それから見開くと、だいぶ目が覚めた。

「ん、わかった。肩掴んで、ついてきて」

 彼女の心情に合わせて、心持ち小さめな声で返事した。立ち上がって外のほうに向かう。彼女はだいぶ慣れてきたみたいで、飛んだまま、何も言わずに僕の肩をつかんできた。

 そして鍵を解こうとしたところで、重要なことに気が付いて立ち止まる。

「名前」

「ん?」

「君の名前、まだ聞いてなかった気がする。外に長居して、もしはぐれたときなんて呼べばいいかわかんないんだけど」

 彼女の顔を見上げると、一瞬意外そうな顔をしていた、ような気がする。夜明け前は一番暗くて、僕でもあんまり表情が読み取れない。彼女は少しの間を置いて、

「フェーニャでいい」

と答えた。

「でって何?」

「全部は長いんだ」

 全部ってどういうことだろう。出身地の名前がすごく長いとかかな。想像がつかなくて困惑していたら、空気感で悟ってくれたらしい彼女が口を開いた。

「フェドーシヤ・エメリヤーノヴナ・アレクサンドロヴァ」

「なんて?」

 聞き逃した。

「ね、長いでしょ? たぶんここの土地には、父称とか苗字の文化は薄そうかなと思って」

 目を白黒させてたら、彼女は笑いを含んだ声でフォローしてきた。あ、この人も笑うんだ。

「ふしょうとかみょうじってなに?」

「その辺知りたかったからさっさと案内してくれ。持ってきたものがちゃんと使えるかも確認したいんだよ」

 僕としては、あんまり使える状態であってほしくないのだけど。ともかくこのまま急かされるとどういう目に遭うかわからないので、素直に家を出ることにした。


 昨日の夜、彼女はすごく動揺していた。なんだか僕にはわからないことでもの凄いショックを受けていたようで、うみって何って二度問いかけたら凄く感情的な視線を向けられた。怒りとも失望とも悲しみとも取れないような、そんな顔をしていた。

 追い打ちをかけたんだろうなと思ったので、それ以上は黙ることにした。ただ、寝る前になって静かな声で「神様の天罰の話を教えて」と言われたので、それだけを語ってから、眠りについた。僕が昔家族にしてもらったみたいに、自分がそんなことをするようになるなんて思ってなかったから、新鮮な気持ちだった。

 彼女は一通り聞き終えると「ありがとう」と言ってそれから眠ったらしかった。ちゃんとお礼が言える人だったのが少し意外だった。

 僕の家はわりあい山の麓に近いところにある。道伝いに端まで辿り着けば、そこは切り立った崖になっていて、数回くらい上に跳べば、遠くに火山が見える地面に着地する。彼女を背負ってるようなものなのに、ふわふわ飛んでるせいか全然重みを感じなかった。おかげでいつも一人で向かってるのと同じくらいのテンポで辿り着けそうだ。

 フェーニャは地面に着くと僕の腕にしがみつき直して、地に立ったていを整えた。地面があるのが安心するらしく、緊張が少し緩んだのが腕から伝わってきた。崖を振り返って、僕たちが今までいたカリャードの階層をぼんやり眺めている。

 彼女にとっては地面に立つことは落ち着くことなんだろう。でも僕たちエルピスにとっては全然気の休まることじゃなかった。

「早く行こう、ここに立ってるのはあんまりいいことじゃないんだ」

「なんで」

 名残惜しそうにしながらも彼女は前を向いて、それから小さな声で質問してきた。

「なんでわざわざあんな深い谷間に生息してるの?」

「なんでってそりゃ、危険だからだよ」

「危険?」

「周りを見なよ」

 彼女は素直に周囲を見渡した。目が悪いのでよくわからないかもしれない。いや、はっきりとはわからないほうがいいのかも。ここのことを知らないなら、この光景は少し刺激が強すぎる。

「何か落ちてる……?」

「死体だよ」

 一言で縮み上がって縋りついてきた。地に足をつけるのが怖くなったらしく彼女が飛んだ感覚が伝わってくる。

「別にここで死んだんじゃないよ。死んだらここに置かれるのが僕らのならわしなんだ」

「先に言ってくれ先に!」

 とは言え僕らにとって平地が危険な場所であることには変わりなかった。

「あのね、僕らはあんまり飛ぶことが得意じゃないから、上から小竜とか大竜とか鳥の大群とかが降ってきたら即死なの」

「ああ、そういうね……」

 フェーニャは周囲を、特に上のほうを見渡した。この世界のことをよく知らないと言ってたわりに理解が早い。何かを思い出してるような口ぶりだったから、彼女の世界にも似たような生き物が居るのかもしれない。

「君の世界にも竜と似たような生き物が居るの?」

「居ないよ。居るのは人間だけ」

 じゃあどういうことなんだろう。ハルピュイアみたく飛ぶことが得意な種族でも居るのかな。

 なんだかんだ喋ってたら、洞窟の入り口に着いた。人が死んだとき、家族と聖職者とが一堂に会して弔いをするための簡素な洞窟だ。本当はずかずか入って良いような場所じゃないけど、緊急事態だったので心の中で神様に少し謝りながら入らせてもらう。それから、洞窟の隅の岩陰を指さした。

「見える? あそこの裏に隠したんだけど」

「ちょっと確認する」

 フェーニャは僕の腕から離れて、ひとっ飛びに飛んで行った。それから岩を動かして、無事に大きめの鞄を手に取った。

 目が悪いらしいのに速やかな動きだ。鞄の中身の確認も一通り手に取ったらだいたい状態がわかったらしく、「ありがとう、作戦会議の場所はここでいいの?」と訊いてきた。

「ここはね~、本当は神聖な場所だから、バレるとちょっと都合が悪いかな」

「じゃあ移ろう。適切な場所を案内してくれ」

 適切な場所と言われても、ここ以上に適切な場所は思い当たりそうになかった。ここ以外だと……僕がいつも星見に使ってる場所くらいか。あの場所もたいがい人気がない。立ってると目立って危ないけど、横になって静かに話せば他の生き物にも街の人にも気づかれにくいはずだ。

 また天井のない場所を往くことになるので、左腕を差し出した。フェーニャは素直に掴んでくれたので、そのまま洞窟を出る。去り際「ここも世界の支配者は人間じゃないんだな」と呟いたのが印象的だった。

 道中少しの沈黙があった。僕はそれでも構わなかったのだけど、せっかちな彼女はすぐに質問を投げてきた。

「さっき竜が降りてきたら即死と言ってたけど……竜っていったいどういう形をした生き物なの?」

「えっどういう形って……大きくて……」

「どのくらい?」

「……人二人分以上?」

 幅がありすぎるし、居るのが当たり前すぎて人に説明するのが難しい。

「基本的にはこう……飛ぶのが速い鳥を大きくした感じかなあ。それで相対的に背羽が小さくて……」

「背羽?」

「背中からにょきって生えてる羽。竜族のは動かない。飛ぶのにバランスをとるためにあるって聞いた」

「ああ~……背羽、背びれかな……イルカか!」

「なんて?」

 僕には聞き取れない言葉をぶつぶつ言ってから、すっきりとした表情になった。何かに思い当たったらしい。セリフを遮られたけど、説明には納得したようだった。

「あと特に小竜はちょっと攻撃的な性格があるっていうか……悪戯で僕らを嬲り殺すことがあるんだよ」

「なるほどな、よくわかった」

 よくわかられてしまって僕のほうが困惑した。彼女はこの世界のことをよく知らないと言っていたのにどういうことなんだろう。

 星見に使っている場所に到着した。墓地からは少し逸れているけど、ここも山麓には変わりない。山がある側の地面は神様に近い場所だと言われていて、根本的にあんまり人が寄り付かないから、静かに話せばたぶん大丈夫だろうと思った。

「横になって。そうすればあんまり目立たないから」

「いやそう言われても……たぶん浮いてしまうと思うんだけど……」

 不満を言いながらも彼女は手を離して、横になった。膝をついて様子を見ていたら、じんわりとフェーニャの体が浮き始めたのがわかった。

「やっぱ勝手に飛んじゃうんだ」

「そうみたいね」

 フェーニャは上のほうをぼんやり眺めながら返答した。

 どうしたらいいかな。やっぱり僕が重しにならないと駄目かな。

「こう、僕が下に入って、お腹あたりをぎゅってしとこうか?」

「距離感が気色悪いからいい」

 酷い理由だ。でもまあ僕としても彼女の服装は体のラインがはっきりとしていて、あんまり近寄るのには少し緊張するから、このままでよかったかもしれない。

 いやほんとに服、だよな……? 服じゃないのかもしれない。正直見たことない服装だし何もわからない。首から下が全身、皮膚のような黒い材質のもので覆われている。それがかえって彼女の顔や髪の毛の色の薄さを強調していたようで、なんて儚げなんだとかいう評価を聞いていた。実際目覚めたら僕は殺されかけたわけで儚げとは程遠い感じだったけど。

「それより横になって上の様子を見ててくれ。何か危なげだったらすぐ離脱するから。ついでに地面の振動も気を遣ってくれるとありがたい。音は地面のほうが速く伝わるのはここでも同じなはずだ」

 警戒役を僕に任せるのは意外だなと思ったけど、彼女にそれができないのだから仕方ないのか。黙って近くに横になって、空を見上げた。

「それじゃ、作戦でも練る?」

「そうだな、まず目標のことを知りたい。エルフの生態を教えてくれ」

 生態って言い方をされるのはなんだか新鮮な気持ちだ。とりあえず僕の知ってることを話そう。

「エルフは、僕らの住むこのカリャードの階層の、一番下に住んでいる」

「そうか」

 淡泊な反応だけど、たぶん内心困ってるだろう。彼女の体質は降下に向いてなさすぎる。今も浮いてきた体を落とすために、腕を空に向かって勢いよく仰いだのが伝わってきた。それでフェーニャの体は地面に触れたようだけど、すぐ離れてしまうだろう。

「正直僕も詳しいことは知らないんだ。ただエルピスで何か大きなできごと……冠婚葬祭だね、そういうことがあると出張ってくる。自分たちのことに関しては秘密主義な割に僕らのできごとにはやたら関わってくるんだ」

「なかなか面倒な関係だね」

「族長が言うにはエルピスとエルフは“仲が良い”らしいよ」

 つい手癖でエアクオーツをしてしまったけど、ひょっとして見えなかっただろうか。彼女のほうを見たら意外にじっくりと僕の顔を見ていてびっくりした。

「えっ何」

「それ、ここでもやるんだな」

「えっ? あっこれ?」

 もう一度指先を二度曲げてみせた。別のせかいってところでも使うらしい。僕のほうを見てるのか、ジェスチャーを見てるのかわからないけど凄く真っ直ぐにこちらを見つめてくるから、顔を見るのが恥ずかしくなって空のほうに向き直した。

「なんかあんまりじっくり見つめられ続けると恥ずかしいんだけど」

「君の距離感でそう言われると納得いかないな……」

 セリフに違わず不満げな顔をしたのが、視界の端のほうで感じられた。フェーニャが言いたいのは、僕のほうから腕を差し出すことについてなんだろうけど、別に普段からそういう振る舞いをしてるわけじゃないから、この反応は僕のほうが納得いかない。彼女がどっかに行っちゃわないために必要だからなるべく触れてるわけで、別に普段からそうべたべたと女性の体に触ってるわけじゃないし。

「さっきの話に戻るけど、もし婚儀に彼らが出張ってきた場合、どの程度話せそうなんだ?」

 彼女はまた自分の体を地面に近づけ直しながら、質問してきた。マメに動かないといけないから大変そうだ。

「んー、君次第かな。さっきも言ったけど彼らは秘密主義だから、あんまり込み入ったことを聞くと煙たがられるかもしれない。けど彼ら頭の良い人は好きだから、上手くやれば仲良くなれると思うよ」

「秘密主義者なのに賢い人間が好きなのか? おかしくない?」

「どういうこと?」

 エルフがそういう存在なのは普通のことだから、おかしいとか考えたこともなかった。

「普通、秘密がある人間は賢い人間を嫌うものだよ、近くに置いたら秘密がバレかねないだろう」

「でも僕らは彼らの住処に行くこと基本的にないしなあ……エルフと結婚した人は基本的に戻ってこないし」

「……なにそれ」

 息をのんだ音がした気がした。彼女のほうをちらりと見てみると、何かを考えてるような顔をしていた。

「そんなに考え込むようなこと?」

「普通じゃない」

 低い声だった。最初に僕に突っかかってきたときみたいな緊張感だ。

「まず聞くけど、エルフとエルピスは結婚できるものなの?」

「見た目は変わらないよ。ただエルフの肌はすごく硬い。身体能力も僕らとは比べ物にならない」

「でも結婚はするのか?」

「するし子供も産めるみたいだよ」

 少しの間黙り込んだ。何かを考えてるみたいだ。だいぶ身体が浮いてきたのが視界の端でわかったけど、それよりも考えることが大事そうだった。

「私がエルフに取り入って結婚することはできると思う?」

「それやったら僕は協力しないからね」

 反射でフェーニャの顔を見たけど、冗談とかじゃなくて真剣に考えてるようだった。僕が最初に偽装結婚を申し出たときに若干困惑してたのがおかしいと思えるくらいだ。

「それにいつエルフに会えるかどうかわかんないよ。次の祭りはだいぶ先だし。大物が獲れたら祭りになるかもしれないけど、いつ獲れるかわかんないからね」

 視線を空に向け直しながら少し早口で追加する。ほんとは岩が落ちてきたことについての調査で近々来るだろうことは予測ついてるけど、それは黙っとく。もっとも、彼女にも想像できてるかもしれないけど。あと知り合いがプロポーズに向けて大物狩りするって張り切ってたから、ひょっとしたら直近で来るかもしれないけど、それも黙っとく。

「わかった。記憶喪失の女のていで行く。性格は臆病気味で、でも生きるためにここのことは知りたいって状況で。常に側にいてフォローして」

 頭の中がまとまったみたいで、フェーニャはまた地面に近づき直した。その拍子に僕との距離が変わって腕が当たったけど、何も言われなかった。

「うん。結婚とかその辺の話題はいつ出すの?」

「それは……」

 また黙ってしまった。少し時間が長かったので横を見てみると、彼女は考え込むというか、困っているような、迷っているような気もする。空が少し明るくなってきた。

「もう戻ったほうがいいか……」

「君が早くに目覚めて落ち着かなさげにしてたって、気晴らしに一緒に散歩してたって言うよ」

 だからもう少しは大丈夫だと、暗に言い聞かせた。そしたら彼女は息を吸ってからゆっくりと、

「私には、薬が、あとひと月分しかない」

自分に言い聞かすように、小さな声で語った。

「三日に一度にしても三か月保つかくらいしか、持ってない」

「薬? 薬って? あの“薬”?」

 エルピスが“薬”と言ったら、毎日一錠食べるやつが真っ先に思い浮かぶ。

「あなたたちも薬を飲むの?」

「ていうか、薬を食べるのは僕らだけだけど……」

 彼女の視線が揺らいだのが見えた。彼女はある程度高く浮くことを諦めたようで、浮くごとに姿勢を変えて、僕のほうを見つめていた。

「薬って、どんな薬? どんな形?」

「錠剤だけど。食事のときテキトーなタイミングで一緒に食べるの」

 妙に食いつきがよかった。エルピスなら薬を食べるのは当たり前だと思うんだけど。他のエルピスのことを知らないのかな。

「昨日はどうしてたの?」

「あーなんか忙しくなりそうだったから、朝食のときに食べたよ」

「それって、余りとかある?」

「余りも何も、君もエルピスなんだから君の分も用意されるはずだよ。月に一度、族長がエルフから受け取るんだ」

「エルフが造ってるの……?」

 一気に不安げな顔になった。彼女にとっての攻略対象だからとは言え、エルフに信頼がなさすぎる。

「そんな顔しないでよ。薬ってのは僕らにとって必要なものなんだよ。なんか普段の生活で足りない栄養を補ってくれるんだって」

「それも嘘じゃないんでしょうけど、それだけじゃないでしょう」

 何か確信があるようだった。けど、僕としては何も言えない。栄養剤としか思えないんだけど、反論するほど思い入れのあるものでもないし。

「まあいいわ。今日はこのくらいにする。しばらくは大人しくするから、フォローよろしくね」

 それからフェーニャは姿勢を直して、上を向いた。

「ここは、暖かいのね……」

「そう? まあ確かに寒いって思うことはないかな」

 無言があった。何か気に障ることでも言っちゃったかな。

「……寒くないことは、良いことだよ」

 それきりしばらく、フェーニャは黙って空を眺めていた。


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