第29話 2020年5月26日 ギャップアップ①

出社制限が続く中、俺は二週間ぶりに会社に出社していた。

俺個人としては会社に来る用事もなければ、その意思もなかったのだが、人事から面談を設定されたため仕方なくここにいた。

人事から呼び出されて喜ぶサラリーマンなどそういないだろう。

管理職への抜擢ばってきや海外赴任ふにんの打診なら喜べるかもしれないが、自分の直属の上司から全く一言も無く、いきなり人事がそんなことを言う可能性は低そうだ。


一応、同期の石橋 順子にも聞いてみたのだが、順子の元には人事からの呼び出しもなければ、人事が社員を対象に面談をしているという情報もないらしい。

以上のことから、季節外れのこの呼び出しは俺個人を対象にしていてあまり良いことではない、それくらいの予想はついた。


人事との面談は10時からだったが、始業時間の兼ね合いから会社には8時半過ぎには到着していた。

他のメンバーはテレワークか、あるいは出社が必要であっても時差出勤をするのだろう。

久々のオフィスはだだっ広いフロアに俺一人しかいない、三ヶ月前なら考えられなかった非現実的な空間が広がっていた。


俺は自宅から持参したノートパソコンを開き、上司に業務開始の連絡をした。

だが、真っ先にやることは自分のスマホでの株価チェックだ。

今までは自宅での作業だったので人の目を気にせずいくらでもできた。

今日は出社なので少しひかえないといけないなと思っていたのだが、結局のところ、この空間には俺一人しかおらず、家にいる時と何の変わりもなかった。


まずCFDの値段をチェックする。

!!

驚いたことに値段は既に前日の高値を超えている。

20,900円を超えているのだ。

ギャップアップ、買いの勢いが強くて前日の高値を超える値段から当日の取引が始まる状態、になりそうだった。


これはまずい。

このまま先物や現物の取引が始まっても値段が下がらなければ、俺の含み損は1,000万円を超える。

今の値段そのままなら1,140万円の損失だ。

しかも、この上潮あげしおムードの中で始値はじめねを天井として下落する、というのはあまりにも自分にとって都合が良すぎる予想だった。


8時45分が過ぎ先物の取引が始まった。

次いで9時からは現物株。

全ての株価指数が俺に現実を突きつけていた。

1,000万円以上の含み損。

何故なぜ、こんなことになってしまったのか?

俺は家族や俺自身にちょっと贅沢ぜいたくな暮らしをさせてやりたいだけだった。

なのに実際はどうだ。

1,000万円あったらできたこと、やりたかったこと、妻のこと、子供のこと、これからの人生。

いろいろなものがないまぜになり気分が悪くなってきた。

全身の毛穴から自分の意思ではコントロールできない液体がき出す。


俺はよろよろと誰もいない職場の座席から立ち上がった。

そして、そのまま職場のトイレに直行しき始めた。

洋式の便器におおいかぶさり嗚咽おえつらしながら吐く。

昨晩も今朝もろくに食事を取っていなかった為、黄色っぽい液体しか出なかったがそれでも俺は吐き続けた。

俺の身体の中の悪いものを全部出してしまいたかった。

涙とよだれと胃液とでぐちゃぐちゃになりながら、その行為自体が贖罪しょくざいであるかのように、時にはのどに指を突っ込んで吐き続けた。


30分程経った頃だろうか、もう何も吐くものがない状態になった俺はふらふらながらも立ち上がり、洗面台で口をすすいだ。

そして顔を何度か洗い鏡を見上げた。

ひどい顔だ。

髪の毛はぐちゃぐちゃ、顔色は悪く目の下には濃いくまが見える。

ひげは所々にり残しがあり、シャツは洗濯したてのものを着てきたのだが吐瀉物としゃぶつや顔を洗った時の飛沫しぶきがかかって水浸みずびたしだ。

とても面談を受けるような格好じゃないな。

俺は鏡の中の自分に向かって力なく笑って見せた。

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