降着円盤の中の深淵

八川克也

降着円盤の中の深淵

 容疑者を前に、取調官が声を張り上げる。

「それで? 殴って殺したのか!」

 テーブルを挟んで座る容疑者は無言でうつむいている。どうやら、黙秘しているわけではなく、自分自身が混乱していてうまく受け答えができないようだ。

 そんな様子を見ながら、私は取調室の隅で待機している。

 私の役目はアメだ。出番はもう少し後になりそうだ――そんなことを思いながら窓に目をやる。

 そこにはオレンジ色に輝くドーナツ状のガス雲――降着円盤が見えた。


 地球から一五〇光年ほど離れたこの場所で、人類圏最大のエネルギープラントが建設されていた。

 プラントの中心は、偶然発見された小型のブラックホール。人工的な降着円盤がゆっくりと回り、黒体放射とホーキング放射を発生させている。プラントはそこからエネルギーを取り出し、完成の暁には人類圏の総エネルギー消費の約三〇%を賄う。

 その建設中のプラントで、ブラックホールが絡んだ厄介な事件が起きたのは昨日だった。

 一人の建設要員が行方不明になった。突発的な犯行だったのだろう、血痕や設備の操作記録、簡単な捜査ですぐに容疑者は割り出された。

 大まかな状況は分かっている。緊急脱出カプセルが手動で操作された記録があり、被害者はそのカプセルの中で間違いない。

 単純に見える。だが念のため、思想や背景がないことを確認しておきたかった。


 私の出番が回ってきた。ムチ役の取調官を押しとどめ、私は味方だ、という風にやさしく声をかける。

「ここじゃトラブルも日常茶飯事だし、事情がわかれば酌量だって取ってもらえるとも……」

 何度目かの同情的な言葉に、男の肩が小刻みに震える。落ちたようだ。

「……奴は……俺の故郷を……」

 私はイスを引き、男の話をじっくりと聞いてやることにする。どうもささいなプライドの争いだったようだ。家族や故郷の誇り――私は顔に出さないよう、心の中でため息と、安堵の息を吐く。

「それで、オレはあいつを殴ったんだ。そうしたら倒れて動かなくなって……」

 被害者は容疑者を夜時間、施設外活動待機室に呼び出した。作業の手順でトラブルがあり、揉めているうちに個人的なことをののしられた容疑者は、カッとなって殴った。被害者は打ち所が悪く意識を失い、動転した容疑者は被害者を隣の緊急避難室まで引きずり、脱出用カプセルに押し込んだ。

 そして、ブラックホール側に向けて射出した。すべてが吸い込まれ、証拠が消せるだろうと思って。

 どうやら本当に単純な犯行のようだ。仕込んだ音声解析AIの判定は肯定的ポジティブ。嘘は吐いてない。深い考えも政治的意図も、そして宗教的思想もない。

「俺、殺人を……」

 男はまだ続けているが、聞くべきことはすべて聞いた。私が無言で立ち上がると、取調官が再び割って入る。

「調書を取らせてもらおうか。殺人未遂、のな」

「……?」

 男がふと怪訝な顔をする。気がついていないのだ、問題の重大さとややこしさに。

「通信部は、数時間前、緊急救難信号を受信した」

 取調官が手元の端末を操作しながら答える。

「お前さんが押し出した、あのカプセルからの信号だ」

「じゃあ、奴はまだ生きて……」

「緊急脱出用カプセルは頑丈すぎたんだ」今度は大きくため息を吐く。「強力な重力にも放射線にも負けず、ブラックホールに向かったカプセルは、生きた彼を乗せ、螺旋を描くように事象の地平面に向かった」

「奴は……」

「催眠学習で習っただろう、ブラックホールに近づく物体の空間と時間がどうなるかを」

「……あ」男が何かに気づいて声を出した。

「本人にとってはほんの一瞬だ。救難信号を出してすぐカプセルは圧壊し、彼自身も死を迎える。だがこちらの観測では、時間は引き延ばされ、やがて静止する。そして頑丈なカプセルは、観測可能な範囲において破壊されることはなかった。――光学観測班は、静止した脱出カプセルを視認した」

 私はその先を聞かず、取調室を出た。

 二度とこちらに戻ることはない、しかし被害者はまだ生きている。宇宙の終わりまで決して成立しない殺人を、検察官と保安局、弁護委員会はどのように裁定を下すのだろうか。それはそれで興味深い。

 だが、私にとって問題なのは、法律ではなかった。

 ――超空間通信の申請が必要だ。

 私は宗教部の一責任者、神父なのだ。

 これはか、それともか? 彼にとっては一瞬の死だ。しかしわれわれから見れば永遠とも言える時間を生き続ける。不可抗力とはいえ、人間の領分を越えた生を手に入れてしまったのだ。神はそれをお赦しになるだろうか? それともわれわれの死生観が修正されるべき時なのだろうか?

 あるいは――宇宙の終焉を見届ける彼は神になったと――そう解釈することさえ。

 不遜な考えだった。私は身震いしてその考えを振り払う。

 廊下の窓も降着円盤の映像を映し出していた。肉眼では見えない、だがそこに、静止した一人の男がいるのだ。永遠の生か、残酷な死か――。

 。私は一瞬立ち止まり、小さく十字を切った。

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降着円盤の中の深淵 八川克也 @yatukawa

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