コンと狐と明日の少女(コンと狐とSeason1)

千曲 春生

第1話 記憶喪失の少女にまつわる話

 山陰地方、鳥取県の若櫻町は、面積の大半が山に覆われ、残りは棚田が広がっている、いわゆる田舎で、第三セクターの私鉄の駅の周りだけ、わずかににぎわっていた。

 そんな町に、その店はあった。


『和食処 若桜』


 簡素な看板が出た、良くいえば味がある、悪くいえばボロの木造建築は、入り口は施錠され慢性的に『準備中』の札が出ており、窓から明かりも漏れてこず、一見すると空き家のようだった。

 しかし、あくまでも商いをしていないというだけであり、中にはヒトがいた。

 ゴウゴウとダルマストーブが燃える店内。サナは半ば指定席と化したカウンター席に座って、足をぶらぶらと動かす。

 手元には、鉛筆や消しゴム、そして、漫画の原稿用紙があった。まだまだ、完成までには時間がかかりそうだ。

「コン、なにかつくるのか?」

 サナは大きな声でいった。視線の先には、金属製のかまどを持つ厨房があった。かまどの横に割烹着を着た少女が立っている。彼女の名前はコン。サナより三つ年上、十三歳の女の子だ。

 コンは、軟らかい笑顔を浮かべた。その左の頬には、大きな火傷の跡があった。火傷は左目にまで達していて、眼球は白く濁っていた。

「うん。ココア入れよう思って。サナちゃんも飲む?」

 コンは冷蔵庫をのぞきながら尋ねる。毎日、こうして飲み物やちょっとしたお菓子をよくつくる。ただし、なにが出てくるかはその日のコンの気分次第だ。

「うん。飲む。冷たいのがいい」

「寒くないん?」

 コンは窓の外に目をむけたのに合わせて、サナも窓を見る。豪雪地帯であるこの町には、例年通り雪が降り積もっている。

「猫舌だから」

 サナはペロリと舌を出した。サナが、猫舌、というのは一つのジョークなのだが、それが伝わったのかはよくわからなない。とにかく、コンは笑みを浮かべると「わかった」といった。

 二つマグカップを取り出すと、それぞれに少量の牛乳を注ぎ、電子レンジで温める。そして、そこにココアパウダーを入れて、かき混ぜて溶かすと、カップいっぱいになるまで冷たい牛乳を注ぐ。

「はい、どうぞ」

 コンは片方のマグカップをコンに差し出した。

「ありがと」

 サナは受け取り、ココアを一口飲む。味、ということでは市販の牛乳にこれまた市販のココアパウダーを溶かしただけなんだけど、コンが入れてくれるとおいしく感じる。

 サナの様子を見たコンは満足げに微笑むと、一つのマグカップに口をつけようとした。

 そのとき。


 カラン。


 ドアに付けたベルが音をたてた。

 サナとコン、二人同時に店の入り口に目をむける。

 そこには、サナと同い年くらい、すなわち小学校四年生か五年生くらい女の子が立っていた。

「……子供」

 コンは寂しげに呟いた。

「コン。そういうこともあるよ」

 サナだって、子供がこの店に来たことが悲しくないわけではない。でも、子供だろうとおじいちゃんだろうと、お役目は果たさなければいけないのだ。そのために、抑え込まなければならない私情もある。

「あの……ここは」

 女の子は周囲を見回す。その表情には、不安が濃く現れていた。

「いらっしゃい。とりあえず、座って」

 サナは自分の横の席を指差した。

「……はい」

 女の子は戸惑いながら、その席に座った。

「ここ、どこなんですか?」

 サナとコンはお互いに顔を見合わせた。どっちがその答えを口にすべきか。数秒ののちコンが口を開いた。

「ここは、死んだヒトが来るお店。この店に入れたいうことは、たぶんあなたも幽霊やな」

 コンや、サナにとっては今まで何度もいってきた定型文。しかし、それを聞いた女の子は驚いた表情で自分の手を見つめた。

「私、死んだの?」

 それは、サナやコンに回答を求めているというよりは、独り言のようだった。その様子を見て、コンが続ける。

「この店、死なはったヒトがみんな来るわけちゃうねん。生きてた時の、なんか強い『想い』を引きずったまま、あの世へ逝きそうな人だけがこの店に来はる。ここで、その想いを整理するために。ここは、そういう場所なんや」

 コンに続いて、サナがいう。

「私たちが、お手伝いする。だから話してよ、あなたの『想い』を」

「おもい……」と女の子がつぶやくと、サナとコンはうなずく。

「そう。未練とか、やり残したこととか、そういうの」

 サナがいうと、女の子はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「おもい……思い出せないです。なんにも。気がついたらここにいて、ついさっきのことが最初の記憶で、それより前のことがなんにも」

 サナは気がついた。女の子の足はわずかに震えている。

「じゃあ、自分の名前もわかんないの?」

 サナはうつむく女の子の顔をのぞき込むように尋ねた。こんなお客さんははじめだ。だから、どうしていいのかわからないけど、とりあえず訊けることを訊こう。

「名前……私の名前は、えっと……、えと、そう、思い出しました。イクです、イク。育てるって字、一文字でイクです」

 女の子――イクは嬉しそうに顔を上げた。

 あれ? こんな感じでいろいろ尋ねていけば、案外簡単にいろいろ思いだせるかも。サナは少し安心感を覚えた。それは、コンも同じだったようで、

「じゃあ、お父さんかお母さんの名前、わかる?」

 そう尋ねた。

「えっと、父の名前が江坂ナオヒロ。母が八重垣ヒトミです」

「ウソやろっ!」

 悲鳴のような声をあげたのは、コンだった。

 いつも穏やかで、ニコニコと笑顔を浮かべているコン。こんな声を聞いたのは、サナははじめてのことだった。

「ごめん、なんでもない。それより、おばさん呼んできて」

 コンはそっと頬の火傷の跡に手をあてた。

 なんでもない、それが嘘だというのは、はっきりとわかった。だけど、サナそこに深く突っ込むことをためらった。

 コンが嘘をつくということは、触れてほしくないのかもしれない。

「わかった。すぐいってくる」

 サナは店を飛び出した。


 徒歩で五分ほどの道のりを、サナは二分ほどで駆け抜けた。

 築八十年ほどの木造二階建ての古民家。ここがサナの家だ。

 ガラガラと引戸を開けて、玄関からサナは叫んだ。

「お母さん、ちょっと来て。お店に来たヒトがなんか変なんだ」


 お母さんを連れて店に戻った。

「おまたせー。お母さん連れて来たー」

「こんにちは」

 それからお母さんは、イクつかの質問をイクにした。しかし、イクの名前と、その両親の名前以上の情報が出てくることはなかった。

「私もはじめてね。ここまでどこのだれかわかんないっていうのは。ちょっとウカ様に連絡とってみるわ」

 お母さんはそういって、店を出ていった。

「ごめんなさい。ご迷惑かけて」

 サナはイクの背中をバンバンと叩く。

「大丈夫、大丈夫。なんとかなる」

 そういって笑ってみせたものの、本当になんとかなるのか不安だった。しかし同時に、記憶喪失ってだけで、悪いヒトではないようにサナは感じていた。


 結局その日、閉店時間までイクについては進展がなく、イクはコンと一緒に店に泊まることになった。

 サナは一人で家に帰った。

 お風呂に入った後、家族みんな――両親、姉、兄、弟と夕食を食べた。サナ以外は白米に一汁三菜の整った献立だが、サナの前にだけ、違うものが置かれていた。

 ごく少量の白米と、同じく少量の肉っ気の全くないサラダ。今日だけが特別なわけではない。サナの食事はいつもそんな感じだった。

 その少量の食事を、ゆっくりと、時間をかけて食べた。

 食事の後、サナは微かな吐き気を覚えたが、それを飲み込んだ。


 自室は元々和室だったが、カーペットを敷いて洋室風にしてある。

 サナは夕食の後、歯を磨いてベットに潜り込んだ。

 いつも、眠るときは部屋の灯りは完全に消している。

 掛け布団と毛布をかぶり、体温で布団があったまるのを待ちながら、見飽きた天井のシミを見つめる。

 今まで、色々なヒトと出会ってきた。だけど、自分と両親の名前しか覚えていないヒトははじめてだ。

 そして、コンのあの反応だ。コンは『八重垣ヒトミ』という名前に反応した。コンの苗字と同じ、八重垣。

 ひょっとしたら、一つの予想が頭をよぎる。

 だけど、もしその予想が当たっていたとしたら、コンがあまりにもかわいそうだ。そして、それに対してサナはどうしたらいいのか、なにができるのか、まるでわからない。

「コンは、これからどうするつもりなんだ?」

 返事が来るはずもなく、いつしかサナは眠りに落ちていった。

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