第3話 王女キリク

「帰ったわよ! リィト! おやつはいいわ。すぐに食事の準備を! リィト! 返事は!? 呼んだら十秒以内に答えるように言ったはずよね!」


 遠乗りから帰って早々、執事であるリィトを呼びつける王女キリク。

 おやつの準備を求めておきながら、当たり前のようになかったことにしていた。

 周囲にいた者たちもその光景に特段違和感は覚えない。なんせリィトは不思議なことに十秒以内に姿を現すからだ。そしていつもの彼ならすでに食事の準備を済ませているはずだ。

 たとえどこにいても、姫様の呼びかけには十秒で答える。どんな無茶振りを受けても、リィトは必ず成し遂げる。

 信頼に似た感情を、どこか持ち合わせてしまっている。だがそれを真っ向から認めることは、彼らのプライドが許さずにいた。そんな複雑な関係だった。

 キリクの呼びかけから数秒。いつもなら遅くともこのあたりで出てくるはずだ。

「お待たせしました」などといいながら。

 だがその日は違った。


「リィト? リィト! 私が呼んでいるのに何をしているのかしら! 使えない男ね!」

「まったくもってそうだ」

「姫様が直々にお呼びになっているというのに嘆かわしい……」


 キリクが遠乗りに連れて行っていた貴族たちが口々に同意を示す。

 その流れを受けて、次の人間も口をひらいた。


「やはり不相応に孤児が執事になど……」


 だがその選択が大いに間違っていたことを直後、底冷えするほど冷たく伝えられたキリクの声で思い知る。


「お黙り」

「ひっ……」


 最後の一人は逆鱗に触れていた。

 周囲の者がリィトを悪し様に扱うのには理由があった。

 姫様の機嫌を損ねたとき、その矛先が自分に向く可能性が高いからだ。


 リィトが標的のうちはいい。

 リィト自身、信じられないスペックを発揮して王女キリクの要求に応えきっていたから。だがそんなこと、リィト以外にはできるはずがないのだ。

 コロコロと変わる気分次第の命令を、一切のタイムラグなく叶えていくことなど、それこそ超能力でもない限り不可能だ。だからこそ、とにかく自分の保身のためにリィトを犠牲にすることが周囲の共通見解になっていた。


 だが同時に守らねばならないこともあった。

 姫様はリィトに無理難題を押し付けわがままの限りを尽くす一方で、リィトを高く評価していることも周囲はよくわかっていた。だからこそ、孤児であったリィトのことを生まれだけで悪く言うことは姫の逆鱗に触れるのだ。


「貴方は確か……ああ、初めて見る顔ね。どこかの男爵あたりかしら?」

「は……恐れ多くも子爵の地位を授かり……」

「じゃあ明日から男爵でいいわね」

「は⁉」

「文句があるのかしら?」

「いえ……とんでもございません……」


 元子爵、一瞬にして男爵に切り替えさせられた男がぼたぼたと冷や汗を流しながら答える。


 そもそもこれだけの傍若無人の姫のもとで何年も従者をやり、専属執事にまでなったリィトのほうが異常なのだ。

 常に機嫌をよみ、言っていることも言われていないこともその裏の裏の裏まで読んで一つ一つミスなくこなす。

 そこに求められる能力も半端なものではない。なかには本来騎士団が総力をあげてあたらねばならない問題まであったのに、その全てを一人で、姫の気が変わらないうちの短期間に仕上げていたのだ。

 洞察力、知識量、戦闘力、交渉術……。あらゆる力を身に着けていたリィトだからこそ成し遂げた問題処理能力は周囲の人間も一目を置いていた。


 化け物。それがリィトに対する周囲の評価だった。

 だからリィトを馬鹿にすることは自らの保身であり、妬みであり、そしてそうしていてもリィトにはなんら影響しないだろうというある種の信頼だったのだ。

 だがこの日、リィトはいつまでも現れなかった。


「全く……何をしているのかしら……戻ってきたらただじゃおかないわ」


 王女キリクはこの先もう王宮でリィトを見ることはないとはまだ夢にも思っていない表情で、他の従者を呼びつけていた。

 指名された従者が次の日から仕事ができないほどに衰弱したことが、リィトの重要性をそのまま指し示していた。

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