第246話 生命の水を

 作業に向けて、慎重に打ち合わせをするファリド。フェレとはごく短く、そして手伝いを申し出たオアシスの男たちとは、これでもかというほど長く。


「いいか、合図したら三つ数える間に水を井戸にぶちまけるんだ。それ以上遅れるようなら投入をやめて構わん。そして放り込んだらすぐ逃げろ」


「なんで逃げないといかんのだ?」「結果を目で確かめる必要があるのでは?」


 砂漠の民はわからず屋ではないのだが、納得しないと動かないところがあるらしい。三十分ほどああでもないこうでもないと言葉を交わし、ようやっと皆が首を縦に振った時には、すでに太陽が高く昇っていた。


「よし、始めるぞ。フェレ、準備はいいか?」


「……いつでも」


「水の準備はどうだ?」


「いける!」「大丈夫だ!」「任せてくれ!」


 長い長い打ち合わせの効果なのか、もはや砂漠の男たちは、あたかも以前からファリドの部下だったようにも見える。


「よし、じゃあフェレ、頼むぞ」


「……ん、ふぅっ!」


 最初は、何も起こっていないように見えた。だが野次馬たちが凝視する井戸から、やがてもやもやとした何かが、立ち昇り始めた。


「何だあれは?」「悪霊が現れたとか……」「そんなわけはねえ、あれは陽炎だ!」


 そう、景色を揺らめかせるそれは、砂漠の民には見慣れた、陽炎だ。陽光に焼かれた地面や、熾火からそれが立ち昇るのは、よくあること。


 ということは……たった今見えている陽炎が示すのは、井戸の中がものすごい高温になっているということ。


「フェレ、もう少し、我慢できるか?」


「……このくらいなら楽勝」


「よし、そのまま続けて……」


 そして、さらに二分後。ファリドが命じた。


「さあ、水を一気にぶち込め!!」


「おおうっ!」「任せとけ!」「うおらぁっ!」


 何が起こっているのかわからぬまま満を持していた男たちが、桶の中身を一斉に井戸の中にぶちまける。


「早く逃げろ!」


 男たちが井戸に背を向けて走り出したちょうどその時。バキッと何かが割れるような音と、ドンというような低音の振動が、同時に聞こえた。そして井戸の口から、砂や石が混じって茶色くなった何かが、ものすごい勢いで噴き出す。


 フェレの小さな頭蓋を抱き込んで守っていたファリドが井戸に目を向けると、井戸を覆っていた櫓は吹っ飛び、穴の縁を囲っていた日干しレンガも、崩れ去っている。


「これは……何が起こったのか?」


 我に返った族長ジャミルが、説明を求める。さもあろう、こんな危ない実験になるとは、思っていなかったのだから。


「思ったより衝撃が大きかったですね。男たちに逃げるようしつこく念押ししておいて良かった」


「水を注いだだけではないか、なぜあんなでかい音が……」


「最初から説明しましょう。俺の狙いは、あの硬い岩盤に亀裂を作ることでした」


「どうやって?」


「モノってのはだいたい、熱すれば伸びて、冷やせば縮むんです。あのいまいましい岩盤も、それは同じ。ただし、硬くてもろいモノは、急に熱したり急に冷やしたりすると、伸び縮みについてこられなくなって、割れます。ほら、ガラスに熱湯を注ぐと、割れるときがあるでしょう? そして、あのコチコチの岩盤は、分厚いガラス板みたいなものです」


 ジャミルが、素直にうなずく。あの岩盤はまさに、黒いガラスのようなものだった。


「そこで、フェレの出番というわけです。うちのフェレは、モノを熱する魔法が使えます」


 そう、空気の「粒」を震わせる速度を上げることで、まわりの物体をいくらでも熱することができるのだ。そして局所的に、しかも極端な高温に熱せられた岩石を、注水で一気に冷やす。そうすれば間違いなく、岩に割れ目ができるはずだと。


「だが、あの爆発のような現象は……」


「真っ赤に焼けた石に水をかけたら、水は一瞬で蒸発します。狭い空間で一気に水蒸気ができると、あたかも爆発したような破壊力があるのですよ」


「で、では、これを何度も繰り返せば……」


「岩盤に裂け目を入れることができるのではないかと考えました。まああれが、とてつもなく分厚かったら、むだ働きになってしまいますが……」


 そこまで言うと、ファリドは井戸に目を向けた。いったん逃げ散った男たちが、怖いもの見たさなのだろう、壊れかけた井戸をのぞき込もうとしている。そのうちの一人がふと何かに気づき、顔を上げた。


「おい、この音は!」


「うん? あっ……これはもしかして?」


 その叫びは意味不明だが、驚きだけは伝わってくる。何事かとジャミルが男たちを押しのけ、井戸に向かって耳を澄ます。


「何だと? これは……水音ではないか!」


 ファリドとフェレ、そしてマルヤムがゆっくりと、族長の傍らに並ぶ。若き族長は、もはや異国の客人の存在など忘れ去ったかのように、ただひたすら目の前の暗い穴を見つめていた。


 そして、その時が来た。こぽこぽという心地よい音とともに、オアシスの民が渇望しつつ得られなかった水が、壊れた井戸から静かに湧き上がってくる。湧水は地上に出ても勢いを失わず、こんこんとあふれ出して、オアシスの街に向かって流れ出した。

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