第244話 ハディードの提案
「ふうむ。この一月ほど、帝国側から旅人がまったく訪れぬと思っていたら、そういう混乱が起こっていたのか。では、現在は……」
「帝都を含めた中央部、および西部北部は我が兄アスランが皇帝を僭称して押さえています。ムザッハル兄の子飼いである東部はおそらくそれに従ってはいないでしょう。南部は我が伯父サフラーが説得に赴いており、私たちを支持してくれるものと推測します」
あえて平語を使い続ける族長に対し、敬語調を変えないハディードである。これは上下関係とかはったりとかそういうものではなく、お互いのキャラクターなのだろう。
そして皇帝は、挨拶にのみ前面に立ったが、それ以降黙然として口を開かず、二人のやり取りを静かに見守っているだけ。族長と親交のあるハディードに全て任せる、余分な口は出さないということを、その態度で示しているのだ。
「なるほど、そういうことならば、話は早い。我々が貴殿らをテーベ南方軍団のもとに送り届ければ、勢力逆転のチャンスが大きいということだな」
「ええ、サフラー伯父の説得交渉しだいではありますが……彼らはかつて伯父の部下であった軍団です、真の皇帝を擁する我々に与してくれると期待しています」
「勝算は十分あり、ということか。では、我々の協力に対し、帝国は何をもって報いてくれるのかな?」
この反応も、もっともなことだ。そもそも彼らは帝国の臣民ではない。現時点、ハディードと族長の親交以外に、つなぎとめる何物もないのである。危険を冒して落ち目の皇帝に味方するメリットを、きちんと提示せねばなるまい。
「もちろん、こと成った暁には十分な黄金と、一年は暮らせるほどの麦を約束しましょう。ですが私はそれに加えて、これを機会に『砂漠の民』と、一歩踏み込んだお付き合いをしたいと思っています」
「踏み込んだとは、どういうことかな?」
「ええ。もちろん我々が帝国を再平定した後のことになりますが……皆さん、思い切って帝国の傘下に入りませんか?」
一見突飛な提案だが、族長は表情も変えず平静に受け止めているようだ。恐らく同様の未来図が、彼の頭にもあったのだろう。
「帝国臣民となることで、砂漠の民にメリットはあるのか?」
「聞くところによれば、マーリの地方勢力が、たびたびオアシスを襲い、略奪を行っているというではありませんか。マーリ王もそれを制止せず、黙認しているとか。ですがここが帝国の版図となれば、帝国と本格的な戦争を構えるリスクを恐れて、襲撃はなくなるでしょう」
「まあ、そこは認めよう。だがそれだけでは少々……」
「もちろん、もう一つあります。砂漠の民に、マーリとの交易をお任せしたいのです」
「何っ!!」
族長の顔色が変わる。その反応に、ハディードが満足そうな笑みを浮かべ、さらに提案を続ける。
「砂漠の民は大国に従わず、誇り高い孤高の暮らしをしているのを承知しています。ですが皆さんの生業であるオアシスの農業は不安定で、砂嵐一つで民が飢えることもたびたびと聞きます。ならば、もう一つ暮らしを立てる産業を持っておくべきではないでしょうか、それが交易です」
「むう……」
「マーリの黄金、宝石、そしてチョコレートの原料となるカカオ。これらは北方の国々が欲してやまぬ物産です。一方北方や東方からもたらされる工芸品や絹、木綿……こうしたものはかの地で珍重され、高値で商われているとか」
「その通りだ」
「今は商人が細々と荷を運んで交易していますが……私はこれを帝国の事業として、大規模にやりたいと考えています。その商いを砂漠の民に委ねれば……干ばつや砂嵐くらいでは揺らがない、強い収入源ができ、暮らし向きが安定するのではないでしょうか」
ハディードの提案は気前がいいようだが、ある意味自分の財布が痛まない……いやむしろ、帝国に富をもたらす提案でもある。マーリとの細々とした交易を大規模国営貿易に格上げすれば、砂漠の民も富むが、帝国も確実にそのあがりをかすめ取れるのである。
そして珍奇な品々を手に入れるマーリの民も、北方諸国の民も喜んで……まさに「三方よし」。軍事強化一直線の歴代テーベ皇帝には思いつけない、まさに文治路線のハディードならではの政策である。本来はムザッハルが外敵を討ち、弟たる自分は国を富ませるという構想に向けて、役割分担を、兄弟で申し合わせていたのだが……それはもう、叶わないことである。
「いかがですか。砂漠の民にとって、ある程度魅力ある提案と思いますが……」
「確かに、我々にとっては願ってもないほど魅力的だ。今すぐにでも承知したと言いたいところだが……」
「なにか、問題があるのですか?」
「うむ。ハディード殿が腹を割って話してくれたのだ、我々も正直に打ち明けよう。このオアシスは、遠からず放棄せねばならないだろう。我々の強味は、オアシスを支配していることのみ。オアシスを失った我々に、貿易を独占させる意味はなくなる」
「なんと……」
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