第243話 オアシスの民

「とはいえ、今はそんな将来の希望を語る時ではありません。彼らに一時の保護と、はるか東に駐留する、テーベ南方軍団と合流するための案内と護衛を請うのです」


「ハディード、ではお前はここの民と……」


「ええ。ムザッハル兄が帝位に就いたあかつきにはすぐ交易の利をもたらせるよう、かねてよりここの族長とは書状や贈り物をやりとりしていましたので」


 驚く皇帝に向かって、涼しい顔で言い放つハディードである。戦に関してはからきしだが、内政や外交といった文官の領域にかけては、自他共に認める第一人者……その誇りが言葉に力を与えている。


「ですから、テーベ国軍の手が及ばないここまで一旦逃れるよう『軍師』に勧めたのです。彼も……ファリド殿も賛成してくれました」


「そうか……かねてより縁をむすんでおったなら、それはテーベの領内を突っ切るより正しき選択であろうな。だが、お前が『軍師』にここを勧めたのは、テーベ国やこの父よりも、もっと大切なものがあったゆえであろう」


 皇帝の言葉に、青年がその頬を紅に染める。


「ええ。私の一番大事な女性を、一週間でも……いや三日でもいい、柔らかい寝台で休ませてやりたかったのです」


 厳格という言葉を絵に描いたような父親を前にして堂々と、真面目そのものの顔で色ボケをかますハディードに、さすがのフェレも目を丸くしている。


「……ハディードって、あんな子だったっけ?」


「う〜ん。思慮深く冷静で、感情を表に出さない修練ができている男だったはずなんだがな。やはりどうて……いや、初めて大切に思える女性を知った男は、ああいう風になってしまうことが、ままあるんだ」


「……リドも、そうだった?」


「うっ、いや、俺は……」


 チェリーボーイ皇子をいじっていたはずなのに、いきなり矛先が自分に向いて、うろたえるファリドである。フェレと出会う前の彼自身は女性に不自由していなかったが、それは春をひさぐ女性か、一夜の刺激を求めるライトな女性に限られていて……未来を共有したいと思える相手は、いなかったのだ。だが男女関係には極めて潔癖なフェレに、それをどう説明したものかと、悩んでしまう。


 しかも、彼を見つめるラピスラズリの目は、まるで突き刺さるように真剣で……逃げを打つのを許してもらえる雰囲気はない。ままよとファリドは、腹をくくる。


「俺が本当に守りたいと思った女性は、フェレが初めてだ。そして今も、それは変わらないよ」


 辛うじて、嘘はついていないが……フェレの視線の鋭さに、思わず背中に汗を流す彼である。ラピスの目がまるで真実を見抜こうとするように大きく見開かれて……やがてそれが不意に、優しく細められる。


「……ありがと、嬉しい」


 少しだけ口許を緩めたフェレは、リリの世話をするために身を翻す。対応を間違えなかったらしいことに、ほっと安堵のため息をつくファリドであった。


    ◇◇◇◇◇◇◇◇


 朝日がのぞいてくると、早くから働くオアシスの住民がファリドたちに目を止め、誰何の言葉を浴びせる。もとより対立する気はない、素直に身分を明かす。


 しばらく待って出てきた族長は、想像していたより若い、三十歳手前くらいの男であった。


「初めましてと言うべきかな、殿下。親父の葬式への心づけ、感謝する」


 なんでも、ほんの三か月ほど前に代替わりしたばかりだという族長は、皇子様であるハディードにも、最低限の経緯は表しつつ、かしこまったりはしない。ここはもう、帝国領土ではないことをいやでも意識させられる。


「書状や贈り物ではずいぶんと交流させてもらっていたが、実際に会うのは初めてだな。テーベの皇子というのは、こんな辺境に訪ねてきてくれるほど、時間に余裕があるのか?」


「いや実は、あまり良くない事情があって、力を貸して欲しいのです。それを話す前に、紹介して置かねばならない者がいます」


「ほう、どなたかな」


 明るい茶色の瞳で一同をぐるりと見回す若き族長の前に、ハディードはその父を押し出す。


「紹介します、わが父にしてテーベ皇帝、アレニウス二世です」


「な、なんだと!!」


 帝国の皇子を前にしても落ち着き払っていたこの男も、相手が皇帝となれば、驚愕せざるを得ない。このような辺境のオアシスなど、テーベの最強権力者が指を一本動かすだけで、この世から消し飛ばされてしまうであろうから。


「いかにも、儂はテーベ皇帝、アレニウスだ。だがたった今は、孝行息子とその忠実な友の支えで、何とか立っているだけの無力な初老の男に過ぎぬ。息子と、その友の話を、どうか聞いてくれまいか」


 もちろんへりくだったりはしないが、あれほど尊大で絶対的な存在であったはずの皇帝が、吹けば飛ぶようなオアシスの族長に、丁寧に助力を乞うている。ファリドはその態度に驚きつつも、納得もする……あの大国を大過なくここまで治めてきたのだ、空気が読めないわけはないのだと。


「ま、まさか……いや失礼。テーベの皇族が、嘘などつくはずもないか。余程の事情がおありのようだ。まず拙宅でお休みいただいて、お話を伺おう。遅ればせながら、私はジャミル、この街と、ラクダで三日ほどはなれたオアシスに住まう砂漠の民を統べる族長だ」


「誇り高き砂漠の長よ、感謝する」


 そう応えた皇帝アレニウスには、確かに大国の君主たる、威厳が感じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る