第240話 回復の兆し

 ファリドたち一行の潜伏生活は、まだ続いている。


 それも当然であろう。リリは背中から何の防御もできず射られたのだ。雑兵から放たれたものとは思えぬ強弓は肺を突き抜け、その控えめな乳房まで貫いていたのだ。もしその矢が動脈を少しでも傷つけていれば、彼女はその場で死に至っていたはずで……フェレが魔力を生きる力としていくら注ぎ込んだとて、無駄なことであったろう。生き残ったのはまさに運がいいとして言えず……まさに奇跡のようなものであったのだ。


 あれから毎日片時も離れず魔力を与え続けるフェレの看病の甲斐あって、リリの意識は戻っている。しかしまだその呼吸は苦しげで、まだ寝床から身を起こすのが精一杯のところだ。自分の足で立つこともままならない。


 そんな重傷を負ったリリを動かせるはずもなく、リリを妹のように守るフェレが、動けぬ彼女から離れるはずもない。主砲たるフェレ抜きで大軍を擁するアスランに挑むことなど無謀の極みで……彼らは殺風景な岩の洞窟で、もう五日をただ隠れて過ごしている。


「父さん、ただいま!」


 ファリドが振り返れば、そこには金色の瞳がキラキラと輝いている。その手に何やら布袋を抱え、自慢そうに鼻をうごめかしているのだ。


「やっと麦を手に入れたよ! これでリリにお粥が作れるね!」


 そう、マルヤムとオーランは、一行の食料調達係なのである。


 ここは乾燥地域、動物は少ないが、確実に生息している。そんな獲物の存在をオーランが感知すれば、まるで自動小銃にホーミング機能を付けたようなマルヤムの鉄球魔術が、それを逃がすことは絶対にない。これまで彼女らが狩ったカモシカや渡り鳥、そして時には大蛇……そんな肉をフェレの熱風調理で美味しく頂いていた一同だが、そんな野性味あふれる食い物が、弱り切っているリリののどを通るはずもない。もっと消化のよい……ようは炭水化物が、今は必要なのだ。


「どうやって手に入れたんだ?」


「オーランが道に迷った旅人のふりをして、私がお腹を空かせた妹……ってお芝居をしたら、村人さんたちがすぐ売ってくれたよ!」


 まあ、魔族であることを示す角さえ被り物で隠してしまえば、マルヤムは攫いたくなるような美少女だ。金色の瞳を上目遣いで向けられたら、大概の村人は無条件で言うことを聞いてしまうだろう。


「後を、つけられてはいないな?」


「そこは抜かりなく」


 その言葉にファリドも肩から力を抜く。暗殺を生業とするオーランは、半径二百メートル以内にいる生き物の気配なら、確実に探り出す能力を持っているのだ。彼が大丈夫だというなら、信じてよいだろう。


「……マルヤムはいい子、よくやった。さっそくリリに粥を作る」


「ちょっと待てフェレ、これを」


 こんな逃避行にも、これだけは譲れないとばかりに持ってきた銅製の小鍋を手に、フェレが料理の準備を始めようとするのを引き留めたファリドが、いくつかの鉄球を渡す。


「……なにこれ? マルヤムが戦闘で使うやつ?」


「ああ。鋳鉄の球だ。マルヤムの戦いにも役立つが、病人食にも役立つぞ。それを鍋に入れて、粥を作ってみてくれ」


「……意味が分からない」


「リリは、たっぷり血を流して弱っている。だから血を作る栄養を取らせないといけないんだが……それは鉄なんだよ。こうやって鉄を一緒に煮込んでやれば、溶け込んだ鉄がやがて、彼女の血になるんだ」


 ファリドの言葉を聞くや、ラピスラズリの瞳に光が満ちる。奪うように鉄球を手に取って、早速鍋を抱えて麦粥を作り始めるフェレに、ファリドは苦笑いし、マルヤムは満面の笑みを浮かべる。


「フェレ様、味付けにこれを」


 オーランが差し出すナツメヤシの実に、フェレの口角が上がる。果実の甘味と自然な香りは、リリの弱った食欲もかき立ててくれるであろう。


「……オーランは気が利く」


「我が妹のことですゆえ」


 いつも通りの冷静な口調で応える暗殺術の達人も、なぜか頬を少し染めていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「どう、食べられそう?」


 匙をリリの口元へ運ぶフェレは、果し合いでもするかのように真剣な表情である。この五日間というもの、リリは水しか受け付けていないのだ。


「フェレ様、私のことはもう……」


「……リリ。リリが食べないうちは、私も食べないよ」


「そ、そんな……私はフェレ様を」


「……お願い、ちょっと試すだけでもいいから」


 涙を浮かべる主人に胸打たれたのか根負けしたのか、リリが目の前に差し出された匙から立ち昇る香りを、少しだけ吸い込む。


「あ、甘い……香りが」


「……オーランがナツメヤシを手に入れてくれた。これを食べるいい子には、後でザクロの果汁も用意してる」


 まるで子供に言い聞かせるような様子のフェレに負けたのか、リリが匙の端っこを、恐る恐る口に含む。


「甘い……美味しい」


「……いい子だから、もっと食べて」


「フェレ様……」


 二回目に開けたリリの唇は、匙の中身を、すべて飲み込んだ。フェレの表情が、安堵したように崩れた。

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