第233話 みだらな浴室
色とりどりのタイルを敷き詰めた浴槽に、取り巻きボンボンである若い男がのんびりと浸かり、気持ちよさそうな息を吐いた。その腕にも腹にも鍛錬や努力の跡は見られず、ただ怠惰を示す厚く緩んだ脂肪だけが自己主張している。
「うむ、早く来い」
「もうすぐおそばに参りますわ……入浴前には身体を清めませんと」
どうせ清めても、すぐ俺に汚されてしまうのだがと、下卑た妄想を頭に浮かべるボンボンである。離宮に置かれた女は、こうした伽をさせるための下級使用人まで極上だ。
「アスラン様をヨイショして、離宮の担当に振り向けてもらった甲斐があったな……」
そう、このボンボンにとっては、アスランに従って権力を奪取した今回のクーデターは、国政に自らの理想を実現しようなどという高潔な目的とは無縁のものだ。遊び仲間のアスランが権力を握ることによって、より豪勢に遊興と放埓に明け暮れられる、そんな動機だったのだ。そして彼はそれを、まったく後悔していない。なぜなら本来皇族しか味わえないこんな愉楽を、思いのままにたった今、楽しめているのだから。
もちろん世界が自分中心に回っているアスランは、彼に対して骨休めに遊んで来いなどと言ったわけではない。彼に命じたのは、この離宮に軟禁した皇帝の監視だ。だが兵が三百も詰めているここに攻めてくる盗賊もいなかろうし、皇帝だって大河に飛び込んで逃げる気力などもはやあるまい。であればこの豪華な施設と、美しい使用人たちを無駄に遊ばせておくことはない、自分が使ってやろうというのが、取り巻きボンボンの発想なのである。
もう一度満足の溜息を吐こうとした彼が、ヒヤリとしたものを感じて背筋を震わせた。そのヒヤリは心が感じるものではなく、まさにリアルな冷気であることに彼は驚き、浴場の中を見回す……そこには先ほどまで湯で身体を洗っていた湯女の姿はなく、代わりに子供まで混じった若い男女が、五人立っていた。
「貴様ら、何もので……」
そこまで怒気を発したところで、彼は痙攣したようにその緩み切った顔の筋肉をこわばらせた。若者の一人は、彼がよく知る人物であったからだ。
「ハ、ハディード殿下っ……」
「いかにも、ハディードだ。貴公がなにゆえ、皇族や賓客しか許されぬこの浴場でのんびりと湯女を侍らせているのかは聞くまい。私の聞きたいのは……」
ごくりと、ボンボンが唾をのむ音が聞こえるかのようだ。
「父上……アレニウス陛下はいずこにおわす」
静かな口調だが、その一言に怒りがこもっている。ボンボン貴族は驚きにしばらく固まっていたが、やっと己の優位に気づいたのか、唇の片方だけを吊り上げた。
「ふん、皇帝を推戴すれば自分が有利になるとでも思ったか? 俺を締め上げれば居場所を吐くとでも? 誰が教えるものかよ。それに……俺が一声命じれば、兵士たちは皇帝の首を飛ばすぜ、ああん? わかったら、そこに這いつくばれ!」
ボンボンは、皇帝を人質に取ったつもりでいるらしい。ファリドはあきれつつもフェレに目くばせをする。
「ふ、うんっ!」
短い気合の声とともに、周囲の空気がさらに冷え冷えとする。それは比喩ではなく、まさに浴室の温度が、一気に下がったのだ。
「うわっ、これは何だ!」
ボンボンの驚きは、無理もない。先程まで熱いくらいの湯を満たしていた浴槽の水面が、徐々に凍りはじめたのだ。
「何だ……と言われてもな。氷だとしか、答えようがない」
「そんなことを聞いているのではない!」
「ああ、貴公のようなウジ虫は、宮廷の外で起こった戦争などに何の興味もなかったか。カルタゴとの戦で、女神イシスが海を凍らせ、皇子ムザッハルに大勝利をもたらしたことすら、知らなかったのか」
「そ、それではその女が……」
「俺の妻に『その女』とは失礼だな……だが、確かに彼女がイシス女神に例えられた魔術師であることは確かさ。ほれ、どんどん氷が広がってゆくぞ……」
穏やかなファリドにしては、似合わぬ意地の悪い脅しを口にしているのだが……「俺の妻」というフレーズに、傍らのフェレがその白い頬を桜色に染めている。こんな時にも関心はそこなのかと呆れぬでもないファリドであるが、これはフェレの通常運転なのである。
「こ、こんなもの、うわ痛っ!」
慌てて立ち上がろうとした首を、早くも水面を覆った氷が傷つけ、痛みと流血に驚いたボンボンは無様に尻もちをつく。そうしている間に氷が厚さを増し、彼はまさに首だけを出している状態。浴槽の中まではまだ凍ってはいないが、表面は五~六センチ厚の氷に閉ざされ、この無様な虜囚の自由を奪っていた。
「さて、さっさと吐かぬと、貴公はこのまま冷凍保存されることになるが」
「ふざけるな! おいっ、誰かおらぬか! 曲者だ!」
今頃思い出したかのように必死で叫ぶボンボン。だが駆けつけるものなどいない。フェレが「氷結」の魔術を浴槽に使いつつ、部屋の壁に沿って「真空」も展開し、音が外部に一切漏れないようにしているのだ。
「二種類の魔術を同時に使えるようになったな……フェレならできると思っていたが、偉いな」
その言葉とともにファリドの指が、黒髪を優しくくしけずって……フェレは飼い主に撫でられた仔犬のように、気持ちよさげにその頭を愛する男の胸に委ねる。それはなかなかに絵になる光景であった……目の前に醜悪な男の裸体がなかりせば。
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