第232話 けしからん奴

 本来、保養と社交の場であるはずの離宮は、三百人ほどの兵にがっちりと固められてしまっている。この一事だけでも、本来なら平和的な施設である離宮の中で、常ならざる事態が起こっていると公表しているようなものだ。


 好きな娘に早くいいところを見せたいハディードの気持ちもわからないではないファリドだが、さすがに昼間から強行突破はできない。


 フェレとマルヤムの超絶魔術をフル回転させれば殲滅も不可能ではないであろうが、彼らの最終目的は平和的に「イスファハンに帰ってもいいよ」と言ってもらうことなのである、テーベ軍との間に決定的な溝を作ることは、可能な限り避けたい。


 もちろん、愛する家族であるフェレとマルヤムに、できるだけ人を殺してほしくないというのが、ファリドの切実な願いである。フェレの繊細な精神は、他人を傷つければ己も傷つけてしまうのだ。そしてマルヤムには、殺人を当たり前のことと感じさせてはいけない。明らかにその才能があることがわかっているだけに、余計に。


「あ~あ、早く帝都に戻って、バドルに会いたいなあ……」


 そんな軽口をたたくマルヤムは、これから自分が繰り広げるであろう流血劇に、まったく悩んでいないように見える。ファリドたち家族に全面の信頼をおいているゆえなのか、それとも……魔族の血を引いているゆえのメンタリティなのか、ファリドにはわからない。一抹の不安を振り払って、ファリドは父親の顔で応じる。


「ああ、バドルはどうしているかな」


「お腹、すかせてないかなあ……」


「あの一座は動物を丁寧に扱うことで有名なんだそうだ。バドルだって大切にしてくれるだろう。帝都に早く帰って会いに行けるように、頑張ろうか」


 そう、王都を脱出する晩、彼らは仔象のバドルを、ハディードの周旋を受けた大道芸の一座に預けてきたのである。いくらマルヤムが溺愛しているからといって、さすがに象連れの逃亡劇というのは、あり得ない……少し寂しそうな顔で下を向いていた彼女が、ファリドの言葉に明るく応える。


「うんっ、マルヤム頑張る!」


 金色の瞳を輝かせて、子供にしてはやや低音だが弾んだ声音で宣言する娘を、少し離れたところからフェレが見ていた……その目尻を、優し気に下げて。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 その夜、いつかと同じように、砂のカーペットに乗って、一行は大河を越えて離宮の上空を漂っていた。空はおあつらえ向きの新月。目を凝らしでもしない限り地上から彼らを見つけることは難しい。


「何度体験しても、フェレ嬢の魔術は凄い! 女神イシスの御業と言われても、うなずくしかない」


「ええ、フェレ様のお力は神にも比肩しうるもの。ですがハディード様、あまりはしゃがれては困ります。地上の兵たちに聞かれてしまうかもしれないではありませんか」


「む、これは、申し訳ない……」


 子供のように顔を輝かせていたハディードが、飼い主に叱られた子犬のようにしょげ返る。リリがハディードにかける言葉は相変わらずの塩っぷりだが、二人の会話は確実に増えて、その関係は気安いものに変わってきているように見える。


「まあ、リリも許してやってくれ。確かにフェレのすばらしい魔術を見たら誰しも、人のなせる業とは思えないだろう、ハディードが喜ぶのも無理はないさ。だがハディード、覚えておいてくれ……この力が普通の人間に授かっていたら、そいつは魔王になって世界を支配していただろう。力を持ったのがフェレのような優しくて臆病な人間だったことが、この世界にとって幸せだったということさ」


 その言葉にハディードははっとした表情になり、リリとオーランは深くうなずく。どうやらファリドに褒められたらしいと気づいたフェレは夜目でもわかるほど頬を染め、その左手をマルヤムが両手でぎゅうっと包み込む。


 これから最大の敵地に突入しようというのに、どうにも緊張感のない彼らであった。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 点在する離れから順々に皇帝の所在を確認していった彼らは、目指している成果を得られなかった。


「やはり、本館の中か……」


 物置の陰に隠れてファリドが落胆のつぶやきを漏らす。本館には夜とは言え五十人からの兵が詰めており、踏み込めば本格的な衝突が不可避であるからだ。フェレやマルヤムに人を殺めさせたくないという彼の身勝手な希望は、露と消えてしまったようだ。


「本館には、最上階に貴賓室があり、地下には秘密の部屋があります。父が軟禁されているなら、そのどちらかの部屋かと」


「そこを見極めないといけないな……」


 できる限り騒ぎを起こさず皇帝の居場所を探り出す、その難事に眉を寄せるファリド。彼の視界にふと、浴室棟の一つに入っていく客の姿が。飽食にぶくぶくと太り、無駄に豪奢な衣装をまとう肉体に、半裸の若い女がぴったりと寄り添っている……これから浴場内で繰り広げられる醜態を想像することは容易い。だがファリドにとって、この浴場が個室形式であることが天佑に感じられた。


「ハディード、あいつは?」


「財務大臣の次男です。アスラン兄の取り巻きの一人。皇室と外賓専用であるこの離宮を、取り巻きのみだらな目的に使わせるとは……」


「よし、けしからんやつを、成敗してやろう」


 ファリドがいたずらっぽく、口角を上げた。


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