第200話 女神の大魔術、再び

 フェレが、大きく息を吐いた。こめかみから一筋、汗が流れている。


「……さすがにこれは、重かった。ちょっと限界かも」


 彼女たちの眼前で、象と人間の阿鼻叫喚劇が繰り広げられている。二千の象とその乗り手が、一斉に足場を失い地面に激突し、もがいているのだ。


「頑張ったな、これでもうフェレの仕事は終わりだ。お茶でも飲んでいてくれ」


 呑気な言葉を吐くファリドに、皇子ムザッハルが口をぱくぱくしながら、驚愕の視線を向ける。


「ファ、ファリドよ、これは……」


「そう、これが、フェレにしかできない魔術さ。『女神の奇蹟』と呼ぶ奴もいるかな」


「ばかな、二千の象だぞ……」


 そう、カルタゴの戦象部隊が先程まで占拠していた砂丘は、フェレの魔術で作り出した偽装の砂丘なのである。


 フェレは、砂粒で薄い膜を形づくり、兵士を数百人乗せて空輸したり、渓谷に砂の橋を架けたりといった業を実現してきた。今回は、その応用なのだ。


 まず砂の膜で、偽の丘「みたいなもの」を形作る。透き通るその膜の上に、さらに魔術で砂を降り積もらせて、中が空っぽの「砂丘っぽいモノ」を造ったのである。そして戦象がその上に集結したタイミングを見計らってその魔術を解除すれば、敵はどすんと落下するしかない、というわけなのだ。


 落ちる高さは、せいぜい十メートル弱くらい。軽装の歩兵であれば、打ち身か捻挫くらいで済むかもしれない。だが、戦象の体重は人間の百倍以上。戦場においてその重さは強力な武器となるのだが……地面に向かって落下する時には、その重量は逆に、自らに向けた凶器となってしまうのだ。ほとんどがその四肢を破壊され動くこともままならず、内臓破裂を起こし血を吐いてこと切れている象も、すでにいる。


 そして、戦象乗りたちのほとんどがパートナーである象の背からふるい落とされ、その多くは相棒の下敷きになって命を落としている。


「に、二千の……カルタゴにいるほとんど全部の戦象を、こんな簡単に……」


「……簡単じゃない。ものすごく重かった。あと百頭もいたら、危なかった」


「いや、そういう意味ではなく……凄すぎて、驚いているだけなのだ」


 「簡単」と口を滑らせたムザッハルに、フェレが安定の仏頂面で抗議すると、単純で直情的だが根は実直なこの皇子が、わたわたと慌て始める。


「重かっただろうな。やっぱり、フェレの魔術はすごい、ありがとう」


 さすがに一国の皇子をこれ以上やり込めるのは、本意ではない。ファリドが助け船を出そうと、モルフォ蝶のような構造色を帯びたフェレの黒髪をくしゃりと撫でれば、彼女は気持ちよさそうに眼を閉じ、その頭を愛する男の胸にもたせかける。戦場に在るとは思えないイチャつきっぷりに、毒を抜かれたような表情をするムザッハルである。


「感心してる場合じゃないだろう、ムザッハル。ここからはいよいよ、戦う皇子殿下の出番じゃないか」


 ファリドの言葉にはっとして、脳筋皇子が一瞬で覇気を取り戻す。


「そうだ、こうしてはおられぬ!」


 ムザッハルは魔術師を呼びつけ、拡声の魔術に乗せて全軍に向かい、叫んだ。


「テーベの勇士たちよ、もはや敵は主力を失った! 後は弱兵しかおらぬ、まさに討ち取り放題、功を挙げるのは今ぞ! 全軍、突撃せよ!」


 テーベ全軍からどよめきが起こり、そしてそれは歓喜の雄叫びに変化した。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「まさに、一方的……戦さとも言えぬ、まるで狩りをしているようでござった」


 元祖テーベの軍師であるラージフが、感嘆の声を漏らす。


「カルタゴの陸軍は、戦象に頼りすぎていたようですね。確かに象は最強の騎獣ではありますが……」


「まあ、あれほど壮大で奇想天外な魔術を見せられては、敵も度肝を抜かれるしかないのでござったのであろうな」


 すでに戦場には、抵抗するテーベ兵は存在しない。頼みの戦象部隊が壊滅した直後に意気旺んなテーベ軍が、主力のラクダ騎兵を先頭に猛然と襲いかかったのである。


 若干の抵抗はあれど、兵たちの心が折れるにはさほどの時間を要さなかった。彼らはもはや生き延びることしか考えず、武器も、補給物資も、果ては身につけた防具まで身を軽くするために放り出し、ひたすら国境に向かって逃げ走ったのだ。それを追撃するテーベ騎兵の様子はラージフが例えたように、まさに獲物を追い回す狩人のごとくであった。


 結局のところ、カルタゴ軍の死者はおよそ八千。騎兵を中心に一万弱は何とかほうほうの体で国境を越えたものの、一万三千ほどの兵はなすところなく捕虜となった。


 一方、テーベ軍の損失は、三百にも満たない。ムザッハル率いる兵士たちは、数百年にのぼらんとするテーベ帝国の歴史を鑑みても、最大級の圧勝劇を演じたのである。


「さすが『軍師』でござる。戦象の鼻柱をへし折ってしまえば残りの兵力は恐るるに足らぬことを、始めから悟っていたのだな。感服致したのでござる」


「いや、そこに気付いただけでは、何の役にも立ちません。結局今日のあれは、フェレがいたからできたことですからね。俺はフェレの力をどう効果的に発揮させられるか、それを考えているだけです」


「……私が功績を挙げたというのなら、それはリドの功。私は、リドを信じて言う通りにしただけ。そして私はリドの妻……妻の功績は夫の手柄、それがテーベの習慣と聞いた」


 そんなフェレの言葉を聞いたラージフは、破顔した。


「いやはや、仲の良いことだ、うらやまし過ぎて、胸やけがしそうでござる、わっはっは……」


 からかわれて赤面するファリドを、娘マルヤムが面白そうに見上げる。元凶たるフェレは、いつもの仏頂面で平然としているだけであったのだが。


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