第193話 なぜだか穏やかな日々
三週間ほど経つと、帝都での生活もようやく落ち着いてきた。
ハディードが意味ありげに指示した「使用人はファリドが勝手に雇え」という言葉を有難く受け取ったファリドは、この間に四人の住み込み使用人を市井から採用していた。侍女と下働きの少女、下男に庭師。イスファハンからの流れ者を「女神」が憐れんで仕事を与えた、という建前である。
「フェレ様、お茶でございます」
「……ありがと」
「テーベのお茶は香辛料が利いているものが多くてなかなか……ようやく良い茶葉を仕入れることができました」
「……ん、これなら大丈夫」
香りを確認して低くつぶやいたフェレが、ミルクと砂糖で甘く仕上げた紅茶のカップを、なぜか隣に座る少女の前に滑らせる。少女は眼を輝かせ、カップにかぶりついては熱さに慌てている。
「……もう少しゆっくり。淑女は、がつがつしないもの」
珍しく分別ありげなフェレの言葉に、少女はカップから手を離して一旦背筋をきゅっと伸ばし、今度はゆっくりと優雅な手つきで紅茶……というよりチャイを楽しんでいる。
「……それでいい。言いつけを守る子は、いい子」
褒められて嬉しそうにフェレを見上げる瞳は、まさに黄金色に輝いている。少し首を傾げたはずみにさらりと流れた黒髪から覗くのは、まるで山羊のような角。そう、下働きのくせに主人より先にチャイを味わっているこの少女は、半魔族のマルヤムである。
「美味しい。フェレ母さんと一緒に飲むと、二倍美味しい」
どことなくフェレがファリドに奢らせる時に似た台詞を漏らす娘の姿に、眼を優し気に細め、小さく口角を上げた「女神」が満足そうに口を開く。
「……あの皇子は、いい皇子。マルヤムと一緒に暮らせるようにしてくれた」
そう、ハディードはファリドたちに独自の「手の者」がいることを推察した上で、「好きな者を雇え」と示唆したのだ。まさかそこに年端も行かぬ少女や、まして魔族が混じっているとまでは、想像しなかったであろうが。
そして彼女らに茶を供してくれた侍女は、もちろんリリである。フェレに異常な忠誠心を燃やすこの「ゴルガーンの一族」出身の娘は、ほぼひと月ぶりに主と再会するなりさんざん泣いて抱き締めたあげく「もう二度と離しません」とストーカーのような台詞を吐き、それ以来その言葉通り寝室以外はぴたりとフェレに密着している。
そうなればもちろん下男はオーラン、庭師は魔族アフシンということになる。ハディードの付けてくれた執事は通い勤務で夕方になれば帰ってしまうため、夜ともなればすっかりイスファハンにいた頃のような家族団らん的雰囲気が、館の中に満ちる。フェレとリリ、そして時々マルヤムが手伝ってこさえた夕食のテーブルを囲んで、アフシンとファリドが酒杯を交わし、マルヤムとフェレは市場で購った菓子をデザートにお茶をたしなむ。
そんな家族のあれこれに、闖入者が現れることもある。だがそれは、実に友好的なものだ。遠征から帰ってしばらく暇になったらしい軍師ラージフが、テーベ特産のアラックという蒸留酒の瓶を片手に、三日と空けずひょこひょこ訪ねてくるのだから。
狙いはあるにせよ、彼がファリドやフェレに害意を抱いていないことは、もうわかっている。そして「軍師」と呼ばれるほどの彼も、ファリド同様知識欲が旺盛である。アニスの香り漂う強烈な酒をちびちびと飲りつつファリドと戦略論を語り、もうどれだけ長年生きているのか判然としないアフシンの昔話を聞く時の表情は、まるで子供のようである。
そして意外なことに週に一遍ほどは、なんと第三皇子ハディードまで、仮住まいの館を訪れるのだ。
酒しか持参しないラージフと違って、必ず珍しい菓子と花を土産に持ってくるこの若き貴公子に対する女性陣からの評判は、上々である。特にイスファハンに流通していなかったチョコレートが与えた衝撃は強烈であったようで、マルヤムなどは失礼なことに名前ではなく「チョコの皇子様」と覚えているありさまだ。
国政の理想を語れる相手が突然現れたことはハディードにとって実に新鮮だったらしい。高級官僚として多忙を極めているはずでありながら、すでに訪問は三回に及び、日付が変わるころまで話し込んでは、名残惜し気に帰っていく。
「……今度来た時には泊まれるように準備しておく」
フェレの言葉に申し訳なさそうな素振りをしながら、嬉しそうな顔を向けるハディードである。
「ハディード殿は、皇帝位を諦め切れていないのでしょうか」
あまりの熱意に思わず心配になったファリドが、ラージフに漏らす。
「ご本人は、もう次兄の下で内政に手腕を振るうという割り切りをしておられる。もちろん心の底には、思うがままに己の理想を実現したい想いはあろうが」
この老軍師も、最優秀の教え子を心配すること、もちろんファリド以上である。だが付き合いの長い彼は、ハディードの理性を信頼し、暴発しない確信を持っているのだ。本来部外者のファリドとしては、彼の判断を信用するしかない。
かくして若干の不安を残しつつも、二人の帝都生活は平和に過ぎるのであった。
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