第183話 二人でテーベへ
「ダメだ、フェレがいなくなったら……」
「……だけどギース様を救うには、これしかない。もし敵を全部滅ぼせたとしても、今ギース様を見離したら、私は一生後悔する」
ファリドの言葉にも、フェレの決意は揺らがない。彼に絶対の信頼を置き、ひたすらその指し示すことに盲従してきたフェレであるのに、この場面だけは、愛する男の意に逆らっても、敬愛する義姉を何とかして救おうとしている。
「……使者殿、私一人では、不足だろうか」
「い、いや、そんなことは……」
ふてぶてしい態度で無礼な要求を突きつけていたはずの使者が、うろたえている。彼の狙いは、モスル王の愚かさを際立たせ、イスファハンとの離間を図ることだった。イスファハン側がその要求を是とするなど、彼の想定にはなかったのだ。
「本当に、我が陣においで下さると? イスファハンでは最高の魔術師として評価される貴女が、隣国の王女を救うために?」
「……ギース様は、隣国の人なんかじゃない。私の家族」
「なるほど……ならば、歓迎しましょう。そしてメフランギス王女……いや王太子妃を、お返し申し上げよう」
超然としたフェレの態度に気圧されていた使者が、言葉を絞り出す。
「返すのはモスルにではない、イスファハン軍に引き渡してもらう」
「ほほぅ?」
厳しい表情で口を挟んだファリドを、物言いたげな風情で見る使者。フェレにはなぜか押されていた彼だが、その視線に力が戻っている。新たな要求を突きつけるなら、ただで聞くことはないぞと。だが、ファリドの次の言葉に、使者は再び言葉を失うことになる。
「もう一度言う、メフランギス妃は、イスファハン軍で保護する。それを是としてくれるなら、俺もテーベ軍の陣に赴こう」
「なっ……」
「ファリド卿、何を言い出すのだ!」
「……ダメ。リドはアミールの代理、いなくなったらシャープールが困る」
シャープールに続いて、フェレまで制止するが、ファリドは眉すら動かさない。
「俺が離脱した後は、後任にシャープール殿を指名する。まあその前に、仕事をしておこうか」
「仕事?」
「そう『国王特使』としての最後の仕事だな」
落ち着いた様子でシャープールに答えたファリドが、モスル国王に向き直る。その視線がにわかに鋭さを帯び、たじろぐ王。
「本日を限りに、イスファハンはモスル王国との盟約を破棄する。我が国の軍はメフランギス妃を迎えた後直ちに帰国の途につき、以降モスルが如何なる危急に陥ろうと、助力を与えることはない」
「なっ、何を……」
うろたえる国王。そう、彼は高を括っていたのだ。平民上がりの特使に大した裁量権が与えられているわけはないと。だから多少礼を欠こうと、深刻な事態を招くことはないだろうと、侮っていたのだ。モスルが隣国の事情に耳目を働かせていれば、アミール王が「軍師」を兄とも慕い公私ともに頼り切り、全権を与えていることがわかったことであろうに……残念ながらこの愚かな王は、重要同盟国の動静に、関心がなかったのだ。
「俺に対する礼などどうでもよいが、我が国の最精鋭たる部族軍を貶め、戦局をひっくり返す大勝利を与えられたと言うのに感謝の言葉すらない。挙げ句の果てには我が国の亡き王太子殿下が愛された妃を、我が物のように使い潰す。もはや貴国にはイスファハンと友誼を結ぶ意志なきものと考えざるを得ない……いや、資格なしと申し上げたほうが、よろしいか?」
舌鋒鋭くモスルの不誠実を鳴らすファリドの視線に射抜かれ、もはや頬をぴくぴくと痙攣させるだけの国王。言うべきことを言ってしまったファリドは、誰よりも愛する伴侶に、柔らかい微笑を向けた。
「じゃあ、行こうか」
「……うんっ!」
フェレの目尻が、優しげに緩んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「フェレちゃん……ごめん、私のために」
「……ギース様は、私の家族。家族のためなら何でもする、当たり前」
フェレの言葉を聞いて、ぼろぼろになるまで荒れた頬に涙を伝わせるメフランギス。彼女が部族軍に引き渡され、いましめが解かれるのを確認して、ファリドがゆっくりとうなずく。
「……いつか二人でテーベへ行こうって、言ってたね」
「そういや、言ってたなあ」
あれはフラグだったのかと、深くため息をつく彼である。
二人には縄も手枷もかけられず、テーベ兵が遠巻きに取り囲んでいるだけだ。無理もない、彼らの最精鋭を完膚なきまでに潰したあの恐るべき奇蹟は、この「女神」と「軍師」が引き起こしたものであるのだから。
恐れられている二人とは言え、結局のところは捕虜なのだ。これから受ける待遇は、決してよいものではないだろう。前途を思えば楽天的な気分にはなれないが、いざとなったとしてもフェレの魔術を目一杯使えば、生命を保つことくらいなら、出来るだろう。
———そうだ、ここは大きく構えるしかない。
ファリドが平静で正しい判断を出来ればこそ、フェレはその力を十全に振るえる。
「さあ、テーベの旅を、二人で存分に楽しもう」
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