第181話 モスルの愚行

 かくして、ファリド率いるイスファハン軍は、侵攻してきたテーベ軍の三分の一を討った。あとはすでに奪われた国土を奪回していく段階に入るであろうと、シャープールたちと策を議論していたファリドだが、意外なことにモスル上層部から、何日経っても出撃の許可が出ない。


「いったい何を考えているのだ? ここで一気に押し返してテーベ軍を国境の外に叩き出さねば、敵が占領地の支配を固めてしまうぞ。『軍師』はどう思うのだ?」


 口から泡を飛ばさんばかりに力説するシャープールの危機感は、そっくりファリドも共有するところである。


「うむ。恐らくモスル王室は、主力のラクダ騎兵隊が決定的なダメージを受けたテーベを駆逐することは、もう容易なことだと思っているのではないかな。そう考えたら、これ以上イスファハンに戦功を挙げさせ、戦後支払う謝礼を膨らませたくない、そんなところか」


「おいおい、もう勝ったつもりとは恐れ入るな。まだテーベ軍は二万やそこらいるんだろう。モスルの弱兵ではとても……」


「そのへんの実力把握が出来ないから、これだけ負けたのだろう」


 辛辣な感想を漏らすファリドだが、ここはモスル国内。イスファハン軍が勝手に動くわけにはいかない。一向に出ない出撃許可を、今日も求めるしかない。モスル王室からつけられた軍監に、今日も申し出る。


「軍監殿、早期に戦を決着しモスルの民を安んずるためにも、ぜひイスファハン軍に南部戦線への参加をお許しいただきたいが」


「ふん、イスファハン軍と言えど卑しい部族の者が槍稼ぎをしに来ているだけではないか。掃討戦など我が国に任せて、帰国の支度をしてはいかがか?」


 軍監は、まるまると太った貴族だ。おそらく、本格的な軍役に参加した経験などあるまい。たるんだ二重あごのあたりから発せられる言葉は、とても同盟国の援軍、しかも負け続けの戦に初めて大勝利を与えてくれた部隊に向けた者とは思えぬ、失礼極まりないもの。豚のようなこの男を絞め殺したい欲望が腹の底から湧いてくるのを必死で抑えつつ、ファリドは冷静に説得する。


「掃討とおっしゃられるが、テーベはまだ二万の兵力をモスルに残していると聞きます。モスル軍に力があるのは承知ながら、我が軍と協力した方が、被害が少なく済むかと」


 助けてやる立場のイスファハンがここまで下手に出ないといけないのかと、さすがのファリドも自問せざるを得ない。怒鳴り付けたい思いをぐっと抑えた彼の耳に、信じられない言葉が飛び込んだ。


「まあ、近日中に南部は片付くであろう。すでに国王陛下の命で、二万の軍が、カルバラの街を奪還しに向かったゆえな」


「なんと? たった二万で?」


 平和に慣れたモスル軍が同数の兵力で、戦に長けたテーベ軍に敵うわけがない。イスファハンの騎兵が連携してこそ、勝利を得られるのに。思わず焦りの表情を浮かべるファリドに、軍監はさらに言葉をかぶせる。


「まあ、二万の半分は奴隷兵ゆえ余り頼りにはならぬが……武勇に優れたメフランギス殿下が陣頭に立たれるのだ、テーベ軍など恐れるに足るまい?」


「何だとっ!」


 もはや形ばかりの礼儀などかなぐり捨てて、ファリドが叫ぶ。


「ふざけるな。テーベの精鋭に、士気など期待できない奴隷兵なんかをぶつけて、本当に勝てると思っているのか? まして勝てない戦に、今は他国の王族になっているメフランギス殿下をかつぎ上げる非常識……この国は、狂っている!」


 我に返って愚かな軍監を見やれば、これまで侮っていたファリドが爆発したことに驚き、表情を失って立ち尽くしている。


―――この軍監は俺に積極的な悪意を持っているのかと思っていたが、単なるバカだったのか。怒って損をした。


 しかし、モスル王室がみんなこの軍監のように、ただのバカなのか。負けるとわかってメフランギスを陣頭に立てる、それが愚かなことだと気付かない奴らだけなのか。


―――いや、違う。これは、メフランギス殿下を消したい奴がいるんだ!


 現在のモスル王族は、政治軍事両面で、無能揃いだ。将軍たちが、あまたいる王子を差し置いてメフランギスに頼るというのは、そういうことだ。秘かに潜り込ませている「ゴルガーンの一族」の情報では、文官の間でもメフランギス待望論が盛り上がっているのだという。


 確かにモスルと言う国のことを考えれば、彼女が帰国して女王となるのが最も良いだろう。女だてらに槍を自由自在に振るうその武勇、人を見る眼の確かさ、政治的なセンスも資質十分だ。何より派手な美貌と強烈なカリスマ……国を率いるために生まれてきたような女性なのだから。


 だが、無能だが地位にこだわる王子たちは、帰国して活躍している彼女を邪魔に思っていることは明白だ。王子たちは国民の未来などにはほとんど興味がない、自分が国王になり、好きに威張り散らし、豪奢な生活を送ることのみが彼らの望み……であれば、メフランギスを排除したいという欲望で、このような所業に及ぶことも、十分考えられる。


―――そうに違いない。だから精鋭でなく、訓練もできていない奴隷兵を送り込んだんだ。全滅してもいいように。


 実際には奴隷であろうと何であろうと民が万単位で失われれば、国力は大きなダメージを受けるのだが……愚かな王子たちにとって、奴隷などは視界に入っていないのだ。


―――何と愚かな……


 これから追っても、メフランギスを救うのは間に合わない。これを聞いたフェレは、どんな表情をするだろうか。ファリドは暗澹としつつ、虚空を見上げた。


 「南方掃討軍」が壊滅したという知らせが届いたのは、それから三日後のことであった。


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