第180話 部族軍の渡河作戦
「素晴らしい戦果ね! さすがは『軍師』率いる部族軍、そしてやっぱりフェレちゃんの魔術よね」
メフランギスが、青い眼を輝かせて絶賛するのも、無理はない。これまでモスルは連戦連敗……彼女の機転で渓谷にかかる橋を落として時間は稼いだものの、すでに喉元に刃を突きつけられた状態であったのだ。
「まあ、フェレの空襲は、以前から考えていたことではあって。ですがそれは、敵軍を混乱させる目的には有効であっても、殲滅はできない戦術なのです。今回のポイントは、空襲にタイミングをピタリと合わせて、シャープール殿が部族軍をぶつけてくれたことにあります」
傍に控えていたシャープールが、誇らしげな表情を浮かべる。彼にとってもこの戦は、会心の出来であったのだろう。何しろテーベの戦死と捕虜合わせて一万一千に対し、部族軍の損害は、僅か三十数騎に留まったのだから。
「そうね。シャープール殿、本当に感謝するわ。やはり騎兵戦では、部族軍が最強ね。だけど……」
「どうされました?」
「間違いなく渓谷の橋は全て落としたはずなのに、部族軍はなぜ、あそこに現れることが出来たのかしら? それも、一万五千騎よ?」
「そうですね、尋常の手段ではあの大軍を対岸に運ぶことは不可能です。ですが、フェレの力があれば、出来るのです」
「フェレちゃんが?」
「そう、今回の戦いでフェレが挙げた最大の功績は、あの空襲ではなく、部族軍を渡河させたことです」
ファリドが、力強く言い切った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それは、フェレが空襲を仕掛ける日の早朝、朝日が東の地平線に覗くころ。フェレとファリドは、渓谷の断崖に立っていた。その後方には、シャープール率いる部族兵、一万五千騎。
「我々の女神が、この大軍を向こう岸にいざなって下さるというのだが……さて、どのような奇蹟を、見せていただけるのかな?」
シャープールはいたずらっぽく笑いつつ、その眼には期待の色が溢れている。そう、この渓谷を敵に知られることなく渡ることができれば、圧倒的な優位をもって戦いを進められるのだ。
「もちろんフェレの力をもってすれば、それを可能とすることができる。だが問題は、部族軍の馬たちが、耐えられるかどうかだ」
「馬が?」
「そう、問題は馬、そして騎手が、フェレを信じてくれるかどうかなのさ」
そう口に出して、ファリドはフェレを振り返る。
「準備はいいか、フェレ?」
「……いつでも、やれる……んっ!」
ファリドの目配せに応えてフェレが短い気合を入れると、部族軍の背後で、黄土色の砂煙が上がる。すでにフェレの砂魔術に慣れてしまっている部族の兵は、それに驚くことはない。砂は軍勢の上を飛び越え、渓谷の上で渦を巻くと、静かに一枚の膜を形作った。
「こ、これは……」
「橋だ。砂の膜で、橋を造ったのだ」
確かに、半透明の膜がややアーチ型を描いて、四十メートルほど離れた渓谷の両岸をつないでいる。橋と言われれば、そう見えなくもない。
「フェレの『砂の膜』は五百の兵を空輸できる。だから騎馬兵が渡っても破れたりはしない。だが……」
「なるほど。そんなことはわからない馬が、恐怖に耐えられるかどうか、と言うことなのだな」
シャープールは納得するが、同時にその眉を寄せる。部族兵たちは皆フェレの常人を超えた能力を熟知し、信頼……と言うよりもはや崇拝している。彼ら自身はフェレが行けと言えば火の中ですら飛び込むであろうが、そのパートナーである軍馬はどうか。フェレの「砂の膜」は足元がスカスカの丸見えである、馬からすれば、そこに踏み込むことは、渓谷に飛び込むことと同義に感じることだろう。本能的な恐怖を乗り越えて渡る馬は、恐らくいないだろう……普通の騎兵部隊であれば。
だが、ファリドは望みを持っていた。部族兵は皆、生まれた時から馬に触れ、馬と共に生きる者たちだ。人馬の信頼関係は、正規軍の騎兵と比較できないほど濃い。彼らであれば、その思いを馬に伝え、あえてこの危うい橋を、渡らせ得るのではないかと。
ファリドの真っ直ぐな視線を受け止めたシャープールが、大きくうなずいた。
「なるほど、これは部族軍でなければ、為し得ぬと言うことか。ならば、我が先頭に立ち、信頼に応えねばなるまい、見ていてもらおう」
彼は自身の馬を駆り、透明な橋のたもとで一旦停まって兵たちに一回大きく手を上げて見せると、馬にひとムチを入れた。馬は一瞬首を上げてためらう仕草を見せたものの、その首にシャープールが掌を当てると、落ち着きを取り戻し透き通る宙空の橋を、一気に渡り切った。息を呑んで見守っていた部下の将兵から、歓呼の声が上がる。
「よし、族長に続け!」
「おうっ!」
「ブワイフ族に遅れをとるな! 我らも続くぞ!」
馬は賢い生き物である。族長の馬が、怪しい橋を無事に駆け抜けたことを見て、暴れることなく騎手の手綱に従って、次々と渓谷に脚を踏み入れていく。
かくして一万五千の精鋭が、一兵も欠けることなく極秘のうちに渓谷を渡り終えた。この瞬間に、戦の帰趨は定まったのだ。
この大渡河作戦の立役者であるフェレは、安定の仏頂面。だがファリドの手が己の黒髪に触れて優しく掻き回すと、ゆっくりと振り返ってへにゃりとした微笑を、愛する男に向けた。
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