第177話 空襲(1)
「よしっ、一斉にばらまくぞ。出来るだけ、敵の砦に掛かるように頼む」
「……わかった」「承知した」
足元には、急造の砦と、万を超えるラクダ騎兵の群れ。ファリド達は、フェレの「飛行魔術」で、テーベ軍の上空にいるのだ。ほんの二ケ月ほど前に、イスファハン王都を陥落せしめる原動力となった、あの魔術である。
乾燥地帯に無限に存在する砂を魔術で集め、薄い膜を形づくる。その上に兵や物資を載せれば、兵士なら五百人やそこらは楽に宙に浮かせ、好きなところに運べるという、実に便利な魔術である。今日の「膜」には二十人ちょっとしか乗っていないが、その代わりに大量の綿実油と、なにやら黒い石ころが大量に積まれているのだ。その総重量は想像を絶するものであるはずなのだが、それを一人で浮かせ動かしているフェレは、平然としている。
「……これは楽なほう。だって、形が単純だもの」
そう、彼女はやろうと思えば、細部まで精緻に再現された巨大な砂の竜を造り、宙を舞わせることもできるのだ。それに比べればこの魔術は平べったい絨毯のようなものである、粒子の制御が楽だというのもわからなくはないが……砂の絨毯に掛かる膨大な積み荷の重量負荷は、全く意識していないらしい。最初は驚いたファリドであったが、すでに彼女の規格外っぷりへの感覚は、麻痺しつつある。
そして、彼女の「膜」に搭乗した二十数人の兵が、積み込んだ油を一斉に、真下の砦に向けてじゃばじゃばと注ぎ始める。その量、百樽ほど……王都の市場が空になるほど買い集めた油が、惜しげもなく敵の上にばらまかれる。
「うわあ……これ買ったらいくらになるんだろ? もったいないね、でも楽しい!」
「……あまり身を乗り出すと、危ない。気を付けて」
小さめの柄杓で一生懸命油を振りまいてゆくマルヤムに、まるで本当の母親のように注意するフェレ。もっともマルヤムの背後にはリリが過保護なくらいにぴったりついているので、実際のところ危険はないのだが。
フェレたちのはるか下では、大騒ぎになっている。テーベ兵たちはみな上空を指さし、中には勇敢に弓を射てくるものもいるが、届く矢などあるはずもない。空になった油樽を投げ落とせば、兵士たちがそれを避けようと逃げ惑う。
「よし、次の作業にいくぞ! 点火しろ!」
ファリドの命令一下、兵士たちが一斉に松明に火をつけ、砦に向かって投げ落とす。落下の勢いで火が消えないよう、一つ一つに小さい傘のようなものがついているのは、ファリドの工夫である。ゆらゆらと、ゆっくりとであるが確実に目標に辿り着いた松明は、たっぷりと油を吸い込んだ木材や、仮天井として張られていた麻布を、勢いよく燃やし始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「早く火を消せ!」
「無理だ! 油のせいで火の回りが早すぎる!」
テーベ兵は必死で消火を試みるが、水源のない乾燥地域では叩くか砂に埋めるくらいしか火を消す方法はない。そして、兵たち自身も多少の油をかぶってしまっているのだ、下手に燃え盛る炎に近づこうものなら、自分が焼け死ぬことになる。
「くそっ、このままでは砦が全焼してしまう……どうすれば良いのだ、ラージフ!」
焦りに甲高くなった皇子ムザッハルの声を耳障りなものに聞きながら、軍師ラージフも予想外の攻撃に混乱していた。しかし経験豊かな彼は、簡単に崩れはしない。頭の中に浮かんだ考えを整理するように声にすることで、徐々に自らを落ち着かせていく。
「あのような大規模魔術を使える者は、モスルに存在しないはず。あれは恐らく……イスファハンで女神と称される若き女魔術師。そうなると、既にイスファハンの援軍がモスルに到着して居ると考えざるを得ない。拙者の読み違いでござったか…………」
「そうか、あれがアナーヒターの化身とまで呼ばれる魔術師の力……この眼で見るまで信じ難かったが。だが俺は勝たねばならぬ!」
「殿下、急造の砦を救うのは諦めましょう。もともと恒久的なものとして考えてはおりませなんだゆえ、焼け落ちたとて決定的な損失にはなりませぬ。防壁は土で造っておりますゆえ火攻めを受けても残ります、そこから矢を射掛けつつ吊り橋を掛け、一気に渡河して王都を攻め潰す戦略に、何ら変更はござらぬ。まずは、我らの切り札であるラクダ騎兵たちを落ち着かせ、余計な損耗をさせないようにせねば」
百戦錬磨の軍師は、この短時間の中で急速に思考を収束させていた。知識と経験に裏打ちされた自信が、勝利へのシナリオを再び創り出す。その確信に満ちた表情を見たムザッハルも、ようやく闘志を取り戻す。
「うむ、なるほど! ラージフの言う通りだ! よしっ、ラクダ騎兵隊が火に驚かぬよう、砦から離れたところで、一旦再編させるぞ!」
ムザッハルが指揮官に伝令を出そうと振り返りかけたその時、何とも言えぬ悲痛な絶叫の響きが、彼の耳を打った。それはまぎれもなく、騎兵の断末魔であった。
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