第三部 いざテーベへ

第162話 皇子と軍師

 赤茶けた大地に一筋、茶色く濁った細く頼りなげな河が流れている。その河岸にそそり立つ、やはり赤茶色に染まった崖の上にラクダを並べ、対岸を眺めている二人の男。


「毎日あのようにきちんと哨戒体制を組んでいますな。それも毎週微妙に時間やコースを変えて……秘かに国境を超えることはできませぬ」


「索敵に引っかかったとて、敵は寡兵だ。最強のラクダ騎兵を揃えたわが軍の渡河を阻むことはできまい?」


「確かに、おっしゃる通り。河を渡るまでは、いと易き事でしょう。しかしながらこの先の砦には五千の兵が詰まっています。攻城兵器を持たぬ我々では、数日で陥とすことはできませぬ。そうしているうちに副都から第三軍団二万が突っ込んできて、下手をすると挟撃される危険が大きゅうござる」


 戦功に逸っている身分の高そうな若者に対し、噛んで含めるように敵の備えが堅きことを説く、軍師らしき男。元は茶色であったらしい頭髪は半ば白くくすみ、その貌には長年の戦苦を表すかのような深い皺が刻まれている。


「ならばその第三軍団に向け、我が軍の力を示してやるだけのこと。野戦であればラクダ騎兵の突破力で、イスファハンの騎兵など蹴散らせるのではないか? さすれば国境の砦など放置して、一気に副都を蹂躙してやればよい、そう思わないか、ラージフよ」


 しかし若者は金色の髪を風になびかせつつ、彼がラージフと呼んだ老軍師に反論する。一見して苦労など知らないであろうと窺えるその表情だが、負ける可能性など毛ほども考えていないその青い瞳には、覇気があふれている。


「もちろんラクダ騎兵団が全力を挙げれば勝機はございますな。しかしその場合、当方の被害も甚大なものになるでしょう……ムザッハル殿下が今回目指されるものを考えれば、労多くして功少ないそのような手段を、採るべきではないのではありませんかな」


「む……お前の言う通りかもしれん。しかし、あれだけ混乱していたイスファハンがこれほど早く、体制を立て直すとは……アミール王の統率力がこれほどのものであったとはな。東方に逼塞した無害な王子というのが、内乱前にテーベでささやかれていた、彼の評価であったのだが」


「王太子たる兄を立てて、身を慎んでいたのでございましょうな。その兄が殺されて、竜が自らを縛っていた鎖から解き放たれたというところでしょうか。ですが、このたびの水際立ったイスファハンの再統一、決してアミール王一人の実力で成し遂げたというわけではないようでして」


「ふむ? どういうことだ?」


 深い皺を刻んだ厳粛な表情のまま軍師ラージフが発した言葉に、殿下と呼ばれる身分……ようは皇族であるらしいムザッハルが、意外そうな視線を向ける。


「一連の戦で帰趨を決めたのは、想像を絶する恐るべき魔法であった由にて。雨や雷といった自然現象まで自在に操る黒髪の若い魔女が、次々と第二王子の軍を撃破していったとかで……かの国ではすでに、アナーヒター女神の再来と称されているやに聞き及びます」


「うむ、その噂は俺も聞いたが、本当なのだろうか? それに邪教とはいえ女神扱いとは、ちと大げさのように思われるな」


「民の噂には尾ひれがつくものでござりますからな。そしてさらに噂は続くのですよ、その女神を導く伴侶が『軍師』と呼ばれる男であるそうで。此度アミール王が為した連戦連勝は、すべてその『軍師』の掌上にあったのだと」


「その話は初耳だが……敵に稀代の『軍師』ありと言われれば、ラージフも心穏やかではいられないのではないか? 戦ってみたいのではないか?」


 ムザッハルはその覇気に溢れる口元を、少し上げて煽る。それはこの老練な軍師がわずかに覗かせた少年のような競争心に興味を抱いたからでもあり、そこを刺激することでイスファハンと戦端を開くという彼の希望を認めさせたいからでもある。だが、彼より三十年長く生きている軍師は、安い挑発には乗らなかった。


「やめておきましょう。戦で生き残るには、可能な限り不確実性を排除せねばなりません。『女神』にせよ『軍師』にせよ、確からしい情報が足りなすぎますな。彼らの実力を知り、勝てる算段を立てた後に、殿下に侵攻を具申いたしますれば、しばしのご辛抱を」


「くっ……わかった、お前を信じるしかないな。だが俺は今回の出征で、必ず成果を出さねばならんのだ、それはお前もわかっているだろう」


 若者の表情に、焦りの色が浮かぶ。この若者は父皇帝に対し、混乱するイスファハンに今攻め込めば、東西交易の要衝である副都アスタラを奪取できよう、もし事ならぬとしても豊かな財を略奪し放題であるとうそぶき、最精鋭のラクダ騎兵を含む二万五千の大軍を与えられたのだ。


 このまま何もなすことなく帰還したならば、無能と大言壮語の烙印を押され、彼が次期帝位に就く道は、限りなく狭いものになるであろう。ムザッハルがラージフに向ける視線は、真剣かつ深刻なものであるのだ。


「もちろんわかっておりますとも、殿下のお立場では、戦果を得ずばご帰還することかないますまい。ですがその戦いは、必ずしも精強を持って鳴るイスファハンに対してでなくても、良いのではないでしょうかな」


「と、いうと……」


「この軍を東ではなく、北方モスルに向ければ、果実は転がり込んで来ましょうぞ。そちらの方が、楽でござる」


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