第65話 王子の来訪

 それは、いつもの通りのんびりと家族五人で昼食を取っている時のことだった。


「旦那様! 奥様! 大変でございますっ!」


 家令のアルザングが倒れこまんばかりの勢いで、ダイニングに飛び込んできた。


「一体、何を慌てているのであるか? この領地でそんなにあわてることなど、洪水でも来ぬ限り……雨はこの通り、降っていないのであるが?」

「まったくよね。いつも平和なのがここの村のいいところだけど、たまには何がが起こってくれてもいいのにねえ」


 家令の慌てぶりと対照的に、領主夫妻は呑気なものだ。


 実際、領主夫妻がここに住んで二十有余年、「大変だ」という事態は、一回だけ上流の大雨で水無川があふれた時くらい。副都のように戦火に見舞われることもなく、退屈で貧乏ではあるがひたすら「平穏」という言葉を体現してきたのが、この村なのだから。


「本当に、本当に大変なのですぞ! たった今、正規軍から連絡が来て・・明日、第三王子殿下が、ここにおいでになると!」


「なんとっ! これは大変であるっ!」


 ドンガラガッシャンという音にファリドが振り向くと、あわてて食卓から立ち上がろうとした領主ダリュシュが、椅子と一緒にひっくり返っていた。ハスティは夫に比べれば落ち着いているものの、青白い顔で眼を丸くしている。


「ねえアレフ、王子殿下がうちにおいでになるなんて、聞いてるの?」


「ぜんぜん聞いてないわっ! どうしよう? それも明日?? ドレスを着てお出迎えするくらいならできるけれど……この村では王族をおもてなしすることなんてとてもできないわ! アミール様は何を考えていらっしゃるの?」


 ここにわざわざアミール王子が訪ねて来るとすれば、目当てはアレフ以外になかろう。しかし当のアレフさえ、虚を突かれて混乱している。


―――しかし、尊称もつけずに「アミール様」か。王子とは、かなり親しくなっているんだな。


「……リド、どう思う?」


 ここにいる者達の中で一番落ち着いているのは、フェレかも知れない。いつもの仏頂面が、今は何やら頼もしい。そもそもフェレには、王族を無条件で尊いものとする感覚が欠如しているのだ。フェレの優先順位は単純極まりなく、一に家族、二に領民、三以下は同じ……であるのだから。


「うん……ねえアレフ、たしかアミール殿下は、正規軍の幹部だよね?」


「え、ええ。このアフワズ州を含む、王都より東を担当する第二軍団の副団長でいらっしゃいますわ」


「王宮の中から出ない王太子殿下なんかと違って、実戦部隊と一緒に国内をくまなく巡っている方なんだろ? 地方小領主の生活がどんな程度かなんて、当然ご存じのはずだよ。明日お見えになるのなら、特別な何かを準備する猶予もないことだってわかってるはずだし、ありのままでお迎えするしかないんじゃないかな」


 ファリドはさらっと答える。貧乏騎士とはいえ、国王を頂点とする支配機構の末端にいるフェレの一家と違って、もともと平民のファリドには、王族を崇め奉るメンタリティが極めて乏しいのだ。


「……ありのままって?」


「そう。まあ、服装くらいは整えるとして……特別なおもてなしの宴なんか考えず、いつもの暮らしを見て頂くのさ」


「とは言っても、お食事もなさるのでしょうし、いったい何をお出しすればいいのか……王宮で召しあがるものに比べられるようなものはここには……」


 何にでも楽天的なはずのアレフが、おろおろしている。今にも泣きそうな顔だ。


―――もしかして、本当に王子殿下に惚れてしまっているのか? そりゃあ、苦労しそうだ……


「そりゃ下手に王宮の料理と張り合ったって、絶対勝てないさ。だからこの村自慢の、生パスタでいいんだよ。あれは素朴でカネもかかっていないけど、ちゃんと作り手の心がこもってて、しかもしっかりコシがあって、うまい。俺も初めて食った時は感動したからね」


「……感動しすぎて、地雷も踏んだけどね」


 意外なフェレの突っ込みに、アレフも家族も一瞬言葉を失って・・やがて爆笑がダイニングに響き渡った。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 結局、第三王子を迎える準備は、失礼でない程度に領主館を掃除しただけだった。


 王都社交界の人びとから見てまともな服装を持っているのは、アレフだけ。形式ばったセレモニーではなく自宅に迎えることを考慮して、無理に身体を締め付けないゆったりした臙脂色のドレスを着て、銀のロングヘアを結い上げず自然に背中に流している。化粧はごく薄く、唇に控えめな紅を差した姿は、実に可憐である。


 領主夫妻は二十年以上前の、上質だが古臭いデザインの重厚な礼装を引っ張り出している。今回はせいぜい給仕役程度しか務めないであろうフェレは、かつてファリドの幼馴染の店で買ってもらった濃い青のワンピースを嬉しそうにまとっている。生来である肌の白さがノーメイクでも彼女を美しく見せているが、色も厚みも薄い唇が、妹と対照的にクールな印象を与えている。


 ファリドに至っては、完全な普段着だ。父ダリュシュとは全くサイズが違うので借り着もままならず、王子が訪れている間は、どこかに隠れていようかと考えているところである。


「王子殿下は、馬車でお見えになるのであるか?」


 領主ダリュシュは、そわそわと館を出たり入ったりしている。


「殿下は現役の軍人なのですから、騎馬で来られるのではないですかね。いつ来られるかわからないのですから、外で待っていたって疲れるだけですよ。俺が見張ってますから、みんな中に入っててください。大丈夫、来られたらすぐ呼びますよ」


―――頼む、ちょろちょろしないでくれよ、親父さん。


 落ち着かないダリュシュを追い払ったファリドは、庭先に立つオリーブの樹にもたれ、街道の方から聞こえる音に耳を澄ます。こうしていれば、騎馬の旅人が近づけばかなり遠くからでも必ずわかる。そして待つこと三十分ばかり……ファリドの長年鍛えた聴力が、数騎の馬が館に向け坂を登ってくるのをいち早く感知した。


―――五騎……いや六騎か。王子様としちゃ極めて簡素な護衛だ、さすが軍人というべきかな。


 ファリドは素早く館の方に向かって客の来訪を告げると、自らは目立たない位置に下がる。服装と言い立ち居振る舞いと言い、来客からは下男のように見えるだろう。


 かくしてアミール王子殿下は、自分の到着を予想していたかのように門前で待ち構えるアレフとその両親を見て、若干の驚きを隠せない仕儀となったのである。


「アレフ嬢……まさかずっと門前に立って、待っていたわけではあるまいな?」


「ふふっ。そんなことは致しませんわ、当家には頼りになる者がおりますから。殿下が来られたことを、いち早く教えてくれたのですよ。殿下、私の家……メフリーズの村へようこそ、貧しい村ですので何のおもてなしもできないのですが、どうぞお入りください」


 アレフの明るい挨拶に、王子はちらっと視線を周囲にめぐらせ……ファリドの姿を見て少しニヤリと笑みを浮かべたが、無言で視線をアレフに戻し、ゆっくりと館に入っていった。

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