第二部 アレフと第三王子

第62話 本当のプロポーズ

◆◆おまけ話として書き始めた本稿ですが、第二部として公開してゆきます◆◆


 領主館の二階から見渡す扇状地では、昨年植えたスモモの木が早くも紅い実を付けている。その向こうに広がる小麦畑には初夏の陽射しが降りそそぎ、次の収穫にもかなり期待できそうだ。


 新たに建てた畜舎からは、のんびりした羊の鳴き声が響いてくる。街道をゆく旅人が馬車を停めては、昨年開店した「村のパスタ屋」で軽い食事をとって、また先を急いでゆく。


 じっとしていても汗ばむほどの気温だが、窓から吹き込む風が適度な涼気をもたらす。ぼんやりと外を見ていたファリドは満足げに大きく息を吐いた。


「……何を見てるの?」


「うん。親父殿の領地をいろいろいじったところが、何とか形になってきたかなと思って」


「……ついに、父と呼ぶことにしたんだ」


「まあ……根負けしたというか。反論するのに疲れたというか」


 フェレの父ダリュシュは一年以上前からファリドを「婿殿」と呼び、「父と呼べ!」と迫っているが、その念願はいまだ果たせていないのである。


「……くくっ……お茶にしよう」


 ボブからミディアムに伸ばした黒髪が窓から吹き込む暖かな風になぶられると、毛先にかけてモルフォ蝶のような構造色が、複雑にコントラストを変えていく。フェレは可愛らしく首を傾げつつ、紅茶の入った銅のポットを、窓際にしつらえられた素朴なブナ材のテーブルに置いた。この国で紅茶と言えばミルクで煮出した、いわゆるチャイである。ファリドが二つのカップに茶を注ぐ。


「……こんなに、のんびりして幸せな生活なんて、想像できなかった」


「そうだな、フェレは……長い間無休で稼ぎ続けていたからな。だけど、それももう、必要ないさ。自分の好きなように、過ごせる」


「……うん……リドのおかげ。ありがと」


 そう、フェレはほぼ八年もの間、妹アレフの病気を治す「カーティスの奇跡」を願う資金を貯めるため、宿泊代も食費も衣服さえも徹底的に切り詰めた上で、怪我以外は休みも取らずにひたすら冒険者として黙々と働き続けてきたのだ。しかしそれも昨年、ギルド「互助会」の資金を巡るトラブルを文字通り命を懸けて乗り越えた後、ファリドがギルドから「奇跡」を脅し取るように獲得したことで、必要なくなった。


 そして二人は、三十万ディルハムという莫大な……王都に豪邸が十軒ほど建てられるだろう……「互助会」資金を得た。「カーティスの奇跡」を願うための寄付金として全額使い切るつもりでいたファリドだが、妹に「奇跡」を降ろした枢機卿は王都のギルド長になにやら弱みを握られているらしく、無償で気さくに術を施してくれたのだ。さすがにタダというわけにはいかなかろうと、何度か真面目なやり取りが行われた後、十万ディルハムを教会に寄進することで決着がついたが、贅沢をしないこの二人ならば、残った莫大な金額で一生遊んで暮らせるであろう。


 そして二人はフェレの父が治める、のどかではあるが貧しいアフワズ州の小領地を少しでも豊かにするべく、資金の一部を投資してきた……眼下の羊舎も、ファリドが造ったものである。


 カネの問題がなくなった後のここ一年ちょっと、「冒険者がやりたい」ファリドにフェレが付き合う形で、遺跡の探索や魔物の討伐といったギルド依頼を次々達成してきた二人だが、今は心休まるフェレの実家に居候して、長い休暇をはじめたところだ。


「……いつまで、ここに居るの?」


「うん。まだ決めてないけど……フェレが良かったら、もう王都には戻らないことも考えてる」


 もう、このまま引退して普通の……安らかでのんびりした生活をしてもいいんじゃないか、とファリドは考え始めている。この一年フェレと一緒に「冒険者のお仕事」をお腹いっぱい堪能したということもあるが、いつしか戦いの中でフェレが負傷することに対し、耐えられない恐怖を覚えるようになってきたのが本当の理由だ。


 フェレの操る独自の念動魔術は、もはや王宮魔術師も敵わぬレベルに洗練されている。まともに戦えば並の魔物など相手にならないが、不意討ちされれば生身の人間、万一ということもあり得るだろう。ファリドにとってフェレが自分の人生から失われることは、もう考えられない。かといってフェレを置いて、ファリド一人が冒険者を続けることなど、ファリド以上にパートナーに依存し切っているフェレが肯じるはずもない。


 かくして二人は、王都で最気鋭の金鷲級ペア冒険者と呼ばれていながら、今は半ば引退のような無期休暇……というステータスになっているのだ。


「……王都に戻らないってことは……ここにずっと、いてくれるということ……?」


 最上級のラピスラズリと見紛うフェレの深く蒼い瞳が、真剣味を帯びて光る。


「う、うん。フェレと、父上や母上がいいと言ってくれれば、だけどね」


 にわかにフェレから漂ってきた見えない圧力にややたじろぎつつも、意を決して言い切るファリド。


「……だ……だめ……なんて言うわけ……ない……」


 やがてフェレの眼から、いくつもの雫があふれ出る。


 一年ちょっと前に、同じこの領主館を訪れたファリドは、この地域の求婚に関する習俗を知らずに生パスタにまつわる地雷を踏んでしまい、同じようにフェレを泣かせてしまった。


 だがその時と違って、今のファリドは自分の発した言葉の意味するところを、正確に理解している。そしてたった今フェレが流している涙が、哀しみによるものでは、ないことも。


「冷めないうちに、お茶を飲もうか」


「……うん、うん……」


 この日に飲んだ紅茶は、ごくごく普通の安物だ。


 しかしフェレはその味を、天上の女神がもたらす甘露の如くすばらしいものだったと、人生が終わるその日に至るまで、何度も何度も繰り返し周囲に語り続けたのだという。


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