美味しいものもたくさん食べよう

不璽王

第1話

 黄色く濁った胃液の中で泳ぐご飯粒は虫の卵のようで、形を保ったままのしらすはその卵をつついているように見えた。

 発酵しすぎたヨーグルトのような臭いが立ち上ってきて気分が悪い。が、顔を背ける余裕も無い。第二波が来る。年季の入った渋茶色の床にぶち撒けられているしらす丼だったもの、それをビチビチビチと音を立てて押しのけるのは、黒くぬらりと光る紐状の何かが絡まりあったもの。イカスミのパスタの成れの果てだ。ほとんど咀嚼されずに飲み込まれていた麺は丁度ミミズほどの長さで、胃液に流されるまま揺蕩っている。

 劇場でスプラッター映画を見た時よりも、臭いがある分臨場感では勝っている。ほとんど床に顔をつけるような姿勢で自分の吐瀉物の臭いを嗅ぎながら、弓長早矢子はそう考える。そうしている内にまた咽せ始め、喉の奥に一番強烈な異物感がせり上がってくる。ああ、これはあれだな。店内がさらにパニックになるなと冷静に思いながら、早矢子は丸呑みしていたゆで卵を勢いよく吐き出す。ボタリと落ちてきた卵を載せた黒い麺は、鳥の巣のようにも見えた。

 遠巻きに見ていた客から、ドン引きしたような驚嘆したような「うおおぉ」という低い声が上がる。


 時は少し戻る。


 黒沼倫理が弓長早矢子を誘ったのは、大学の一限が終わった時だった。キツい金髪に染め、肌も日焼けして人を遠ざける様な見た目にしている倫理だが、その割に近寄りがたい雰囲気が薄いのは、その垂れ気味の目尻のおかげだろう。彼女はスマホに表示させた計画表の様なものを早矢子にも見える角度にして話しかけてきた。

 「食い倒れをしてめちゃくちゃになりたいんだけど」  

 今まで生きてきた中で受けた最も自堕落な誘いだったこともあり、早矢子は迷わず受けた。理由はいくつかあるが、一番の理由は単純に楽しそうだったからだ。

 「まずルートを選定しよう」

 倫理はスマホに目をやりながら言う。

 「しかるのちルート上にある食べログ評価3.5以上の店をピックアップ、およびインスタ映えを勘案しながら立ち寄る店と注文するメニューをあらかじめ決定。スマホのフォトライブラリと胃袋をパンパンにしつつ己の限界を超えることに挑戦し、倒れる時は前のめり」

 「倒れる時は前のめり」

 早矢子は復唱する。

 「それで、開始時刻は?」

 倫理が答える。

 「本日ヒトフタマルマル。軍資金はその前におろしておいて。スタート地点は大学前の守谷アーケードか堀越駅前商店街のどちらかにしようと思ってるのだけれど」

 「学内コンビニにしよう」

 「え?」

 「……昨日見た映画で、コンビニのゆで卵が美味しそうだったから」

 早矢子は胃の辺りに手をやりながら、強く意志を表明する。

 「まず、ゆで卵を起爆剤にしたい。と、私の胃袋が主張している」

 「……OK。じゃあコンビニスタートの守谷アーケード経由で。あとその進行方向上に浮かび上がるのは」

 「守谷呑ん兵衛横丁かな」

 「早矢子は酒っていける口だった?」

 早矢子は首を振る。

 「今はまだそこまで。飲めるようになりたいとは思ってる」

 「じゃあ」

 倫理は口角を上げる。

 「今日が弓長・ザル・早矢子の誕生日だ」


 「リストランテ槌、星3.6『本場で学んだというシェフの自家製麺が絶品。パスタはどれでも美味しいけどわたしのイチオシはイカスミ。最初はあっさりした味かなって思うんだけど、噛む内に深みが……』うんぬん。いいね、美味しそう」

 学内にあるテラスに座り、二人は作戦会議を始めている。

 「イカスミ、盛り方が綺麗だね。黒ビールと合わせて黒×黒で相乗効果大? 適当言ってんなーこいつ、馬鹿か? でもGOだ」

 「やっぱ漁港の町だから海鮮メインが良いよね。ここどう? 海鮮食堂・いしゆみの季節限定釜揚げしらす丼。私この写真みたいな卵黄を落とした丼に弱いんだけど」

 「ミニ盛りがある。素晴らしいね。冷酒のラインナップも自慢だって」

 「あ、そうだね。量が自慢の店は候補から外そうか。少量多品種で」

 「呑兵衛横丁の中程にあるバーダイナー火焔壺。サイト開いた? テキーラのショットグラス一杯につき80種類あるチーズメニューから好きなの2品サービスだって。スモークチーズとスモークサーモンのダブルスモーク、鯛とモッツァレラとアボカドの三すくみ、ブルーチーズとくるみの蜂蜜がけ、パクチーを練りこんだリコッタチーズ、エトセトラエトセトラ……?」

 「チーズ良いね。殆ど知らない文化だから今から極めたい気持ちはあるけど、テキーラかー。チーズ制覇しようと思ったら二人で四十杯?」

 「困難な壁ほどー」

 「超えたときに達成感があるって? まぁ、今日はそういう限界を超える日か」

 「……ていうか、チーズの盛り合わせ頼めば良いんじゃない?」

 「あーそりゃそうだね。チーズ盛りと一人テキーラ三杯とか五杯とか」

 「あっ、でも待ってバーだから開店時間が……この店早いね。三時開店だって」

 「さすが呑ん兵衛横丁。他の店もそんな感じかな?」

 「パスタと釜揚げしらすはランチタイムでいけるでしょ」

 「ていうか決め打ちするのは火焔壺までで良くない? 私そこまで行ったら、あのー、あれ。判断なんとか」

 「……弁護側の主張では被告は犯行当時錯乱していて善悪の判断が下せる状態にないとしており、責任能力の有無が裁判の争点となりそうだ?」

 「そうそれ。そんな感じになってる自信がある」

 「分かった。じゃあ行く店は大まかそんな感じで、その後は流れで。二人で流されよう。あと、話が出たからこれも流れで言っときたいんだけど、責任能力は先に捨てとくってことで、良い?」

 「捨てる? 責任能力を?」

 「女二人でさ、両方とも錯乱しながら食って飲んでするの楽しそうだと思わない? どっちか片方がシラフを保ってもう片方の面倒見なきゃとかじゃなくてさ」

 「片方が大変なことになったら、見捨てて逃げるのもアリってこと?」

 「気兼ねしなくていいでしょ。嫌?」

 「いや、嫌じゃない。クソみたいな『気遣いも心配りも完璧ですです』みたいな女の役を演じなくてもいい外食、最高だと思う。死んだら死んだでその時でしょ」

 「うんまぁ滅多に死にはしないと思うけど。じゃあ責任能力はポイでいいね?」

 「うん、私らの責任能力なんて、こうして、こうだ」

 弓長早矢子は握った何かを地面に叩きつけるモーションをとると、靴底の形を二三度地面に刻みつけてから、唾を吐きかけてそれを擦り広げた。それから立ち上がり、黒沼を促す。

 「よっし! じゃあそろそろ昼だし、行こうか」


 大学の敷地内にあるコンビニに入店した早矢子は、店内をぐるりと見回した。コンビニと言いつつ大学の開閉門に合わせた営業時間なため、7時前には開いてないし11時には閉店している。珍しく名を体現しているコンビニだよな、と考えている。

 「ゆで卵って、味ついてるやつ?」

 一足先に冷蔵食品コーナーにたどり着いた倫理がキョロキョロしていた早矢子に問いかける。

 「そう。味ついてる方。そこ超重要ポイントだから。味付きじゃないゆで卵はただのゆで卵なので」

 倫理は歯を出して屈託のない笑顔を見せる。八重歯を矯めている矯正器具に光が反射して、早矢子の顔を一瞬照らした。

 「豚が飛べたらそりゃ名のある豚だけど、味がついてもゆで卵は凡百のゆで卵だよ」

 「まぁ、孵らずに茹でられてる時点で鶏としては凡百以下だけどね」早矢子は紙箱で包装されたゆで卵を手に取って、語りかけるようにつぶやく。

 「もしお前が受精して、もし孵って、もしヒヨコから鶏に成長しても。それだけもしを重ねても空を飛べるわけじゃなし。ひょっとして、存在する前から詰んでる気分だったか?」

 早矢子の目が細められる。握った手の中のゆで卵を見つめる視線は、さっきまで纏っていたただの大学生の雰囲気をかなぐり捨てている。ねぇ黒沼倫理、と早矢子はフルネームで呼びかける。

 「世界ごと呪われた私たちとこの卵、どっちがより哀れを誘うんだろうね?」

 黒沼倫理は応えない。八重歯を飾っていた光を口の中に片付けて、親指で背後のレジを指す。

 「会計しなよ。ATMでお金下ろしとく」


 店外へ出た早矢子は、歩きながら卵の殻を剥きはじめた。殻は掌の中で砕いて細かくし、風に乗せる。

 「卵の薄皮を傷に貼ると、治りが早くなるって知ってた?」

 早矢子は思い出したことをそのまま口に出す。

 「でもあんまり衛生的な話じゃないし、傷にはふつうにキズパワーパッドがオススメらしいんだけど」

 全ての殻が剥かれ、つるりとした身だけになったゆで卵を眺める。裏声で「オイシイヨ」とアテレコしてみる。

 「コカトリスみたいな声だね」

 と言って、倫理は寂しげに笑う。

 「そんなシャガシャガした声じゃなくて、どうせならもっと鶏みたいにアテレコしなよ」

 早矢子は上を向いて、コッカドゥードゥルドゥーと声を上げる。

 「この鳴き声と同じ感じにして『オイシー』って喋るの、難しくない?」

 えへんと喉を整える。

 「我ノ愛シイ卵ヲ丸茹デ二スルトハ非道ノ所業。慈悲ノ心ヲ持タヌ貴様ラコソヲ蛇ノ尾ニテ丸呑ミニシテヤル……」

 早矢子のシャガシャガとした声に、倫理は手を叩いて大笑いした後、早矢子の手にあるゆで卵をスマホでパシャパシャと撮り、SNS上に放流する。

 「言いそう言いそう。コカトリスから実際にその台詞聞いたことある気さえする」

 「いや、聞けないけどね」

 「そりゃまぁね」

 「では、いかにも言いそうだけど実は聞けないコカトリスのセリフに敬意を評して」

 早矢子はゆで卵を一口で頬張ると、そのまま上を向いて喉を大きく上下させて丸呑みした。「ぐぇっふ」と一声呻きながら両手を広げ、拍手を催促する。

 黒沼倫理は求められた拍手を捧げながら、内心で『丸呑みするなら味あってもなくてもなんでも良いじゃねえか』と少し不満に思った。


 弓長早矢子が十歳頃の話だ。子供たちの間では、お昼ご飯をどれだけ早く(また、芸術点を高くして)食べるかを競うのが流行っていた。まだ髪を茶色に染める前の早矢子は当時、ナーガというあだ名で呼ばれていた。姓の音にも由来するが、そう呼ばれる直接のきっかけになったのは、昼食に出てくるほぼすべての料理を咀嚼なしで飲み込むという早食いの技術と、それを可能にする豪快極まる顎と喉を親友が賞賛した「おとぎ話に出てくるナーガみたい」という台詞だった。そう言われた時に呑み込んでいたのが丁度ゆで卵であり、故にゆで卵の丸呑みは早矢子の誇りの象徴でもあるのだ。

 そうしてナーガと(畏怖を込めて)呼ばれるようになった早矢子は、早食い勝負を挑んでくる無謀な挑戦者をことごとく返り討ちにしたのであったとさ。


 という話を、弓長早矢子はリストランテ槌に行く道すがら黒沼倫理に滔々と語り聞かせた。言葉少なに相槌を打つ倫理の顔は若干の哀れみに染まり、そんな児童の価値観ではない、もっと成人に相応しい自負に切り替えるべきではないか、という助言をどうオブラートに包んで伝えようかと懊悩していた。が、伝えるまでもなく早矢子は既に大学で初年度の優等成績者(学年上位六名までが次年度の学費を免除されるという羨ましい制度)に選ばれているし、部活では大学から始めた弓道で早くも三段の審査を通り、中部地区リーグ戦で目覚ましい活躍をしているとも聞く。またその顔貌の整い方でも注目を浴びているのは事実で、道行く有象無象は早矢子とすれ違ってはため息をつき、振り返って後ろ姿を眺めてはため息をついているし、有象無象であるということを未だ認められない身の程知らず供が早矢子に告白することも日常の光景となって、入学以来玉砕した学生および教授連中の数は二進数で数えても片手の指で足りない程になっているという。ゆで卵の丸呑みが出来るという秘匿すべき(と倫理には思える)自尊心に頼らずとも、早矢子はとっくに余人には及びもつかない領域での地位を確固たるものにしているのだ。今更倫理ごときが何を助言する必要があろうか。


 という話を、黒沼倫理はリストランテ槌でイカスミのパスタをフォークで突きながら弓長早矢子に滔々と語り聞かせた。スマホで撮った料理の写真はすぐさまSNSでシェアされ世界中に拡散され、黒ビールの注がれたグラスは二息で空になる。倫理の目は早くも透明度を失い始め、お前みたいな優秀な奴は大学でもナーガと呼ばれちまえばいいんだと不貞腐れ始める。倫理の口から垂れ流されるのはオブラートに包むどころか思考そのままの原液であったが、原液であるが故に早矢子は曲解することなく素直に倫理の恨み言を受け入れることが出来た。

 なるほど、私はとても恵まれているのだな、と。

 早矢子はフォークを持ち上げると、パスタをラーメンのようにずぞぞっと吸い上げて前歯で一度噛みちぎるだけでそのまま飲み込んだ。

 「早矢子ぉ」と倫理は言う。「あんた、それでパスタを味わってると言えんの?」

 口調が雑になっている。倫理は普段、人をあんたなどと言う人間ではない。

 「癖なんだよ」と早矢子は反駁する。

 「十歳頃はそりゃ男子と競い合うために早食いしてたけどさ、思春期になると体重が気になってくるでしょ。で、私は『いっぱい噛んで食べると消化が良くなるんなら、全然噛まずに食べたらあんまり吸収されないってことじゃない?』と考えたわけ。それなら私の得意分野だし、と。健康に良くないのは分かってるし、健康と美容は別にトレードオフじゃないって今は理解は出来てるんだけど、理解出来た年頃には直しようがないくらいの悪癖になっててさ。あ、でも味は分かるよ。いっぱい噛むより喉越しなんかははっきり分かる」

 ずぞぞっ、はむ、ごくん。

 「パスタの喉越しなんて普通は気にしねえよ」

 倫理は、殆ど麺が残っていない早矢子の皿を顔をしかめて見つめた。倫理のパスタはまだ四分の一ほどしか減っていない。

 「こんなに美味しいのに、その美味しさを噛み締めないなんて冒涜だ」

 と言いながら、倫理はフォークを回して麺を絡め取る。口に入れる前に店員に黒ビールのお代わりを頼み、それから口に入れたパスタをゆっくり咀嚼する。食い倒れだったら、ゆっくり食べて満腹感高める方がNGじゃない? と早矢子は思うが、倫理の神経を逆なでしそうだなと判断して口に出すことはしない。

 「で、話は戻るけど」

 早矢子は手に持っていたフォークを、空になった皿に置いた。指を組んで、その上に顎を乗せる。

 「私は確かに恵まれてる。それは別に否定しないけど……でも倫理、あなたも私に嫉妬するほど凡人ってわけじゃなくない?」

 倫理は口をもぐもぐさせたまま、どうぞ先を続けて? と言うように目顔で先を促す。


 早矢子の知る限り、黒沼倫理は幼い頃から神童であった。十五を数えてもその才能に翳りは見えず、そして二十歳を過ぎてもただの人に戻ることはなかった。歩き始めと前後する時期から読み書きに親しみ始めたと聞いている。活字であれ人の書いた文字であれ、それが読めるものであり、倫理の手の届く場所にあるなら際限なく読み続ける。そういう子供であったという。辞書が好きな子供だった。事典もだ。読めば読むほど世界が広がり、それと同時に細かく区別されて輪郭が明瞭になっていくのが快感だった。そのことを「世界の解像度が上がる」と倫理は表現した。その内倫理の育ての親は、倫理が「忘れた」と一度も口にしないことに気が付いた。「憶えてるのかい」と聞くと「憶えている」と答える。「忘れないのかい」と聞くと「だって憶えてるから」と答える。そういうものかと思った親は、それ以上深くは聞こうとしなかった。

 また、倫理は読むだけでなく書くことも好きだった。猫とそうじゃないものの違いを文章で表現した。動くものと動かないもの境界を隠喩で綴った。悪と悪ではないものの狭間にあるグラデーションを細密に描写した。それらはやがて、物語の形をとるようになっていった。学校教育が始まってすぐの頃だ。黒沼倫理の書く物語は同級生の目にとまり、彼らの間を電流となって駆け抜けた。そしてその電流は、次第に信仰へと姿を変えていく。善悪の区別さえ判然としない年齢の児童たちの間で、唯一絶対と呼べる基準は面白さという尺度だけだった。そして、倫理はその手で無から絶対を作り出す事ができた。クラスメイトは思った。自分と同じ年の子供がこれを? この、無力極まりない自分と同い年の子供が? 信じられない。であるならば、そう、多分、倫理は僕らと"同じ"ではない。そう思った方がまだ納得はできる。彼らなりの結論に至った子供達は、倫理を教祖として崇める彼ら独自の教義を生み出した。その先頭に立ったのが後に富村師母と呼ばれることになる女、富村贄子であった。だが、それはまた別の話だ。

 長くなってきた、巻きで行こう。倫理は崇拝されながらも自らの解像度を上げるための活動を休止せず、その活動に付随する形で学業でも好成績を残し(最も、学業そのものは倫理にとって退屈極まりないものであったが)、よって教師陣の覚えもめでたく、また先述したように同年輩にもシンパが沢山いた。順風満帆と言えるだろう。創作も続けていたし(書きあがったものは全て信者に聖典として扱われた)、それらはネット上の最大手投稿サイトで軒並み殿堂入り扱いとされていた。書籍化しないかとの誘いも多く、高校に入る時点で倫理は既に九社にのぼる出版社から著書を出すようになっていた。


 「そう、問題はそこよ。高校に入ったところ」

 延々と続く弓長早矢子の話を、倫理は初めて遮った。まずもって、早矢子の倫理に関する知識は聞きかじりによるものがほぼ十割に及ぶ。本人からすれば訂正したい点は山のようにあるだろう。なのにここまで一言も口を挟まず黙ってイカスミパスタを完食し、黒ビールの酔いで少し火照りながら会計を済ませ、その間ただ話を聞くだけだったのだ。忍耐の賜物か、それとも自分の噂が実態と離れていようが全く気にならないのか。教祖として祀り上げられたという話が本当であるなら、後者である可能性が高いのかもしれない、と二軒目である海鮮食堂いしゆみに向かって歩きながら早矢子は考えていた。

 「早矢子の耳に入った高校以降の私の話は、大体こんな感じでしょう。教師陣との対立、子ども教団との喧嘩別れ、文壇との決別、親との絶縁。そしてそれら全ての原因になったのが」

 自嘲気味に語る倫理の声に重ねるように、早矢子は耳にした噂をそのまま口にした。

 「黒魔術に、のめり込んだから」


 海鮮食堂いしゆみは満席だったが、昼休みも終わってしばらくという時間だからか、行列が出来るほどの混雑ではなかった。客が一組食べ終わればすぐにでも店に入れる状況だったが、二人は中を覗くと踵を返して、通りの反対側で立ち止まった。

 「流石にちょっと、外聞が悪いからね」

 倫理が言い、早矢子が頷く。店が空いていて客同士の距離が取れるのであれば、店内で話の続きをするのも良かっただろう。だが黒魔術の話題は、半径2メートル以内に他人の耳がある状況で取り上げるべきものではない。

 「いくら世の中が変わったとはいえ、黒魔術が禁忌であることに変わりはないからねえ。もし倫理が捕まったら大変だ」

 通りを歩く"普通の人たち"を視界に入れながら、早矢子が呟く。時代の急激な変化に想いを馳せて、遠い目になっている。

 「他人事みたいに」

 「いやいや」

 苦笑しながら早矢子がツッコミを入れる。


 「私と倫理は、実際赤の他人じゃん。他人事だよ」


 倫理は目を見開いた。いつもは眠たげな目が、今は限界まで真円に近付いている。その目で見つめられた早矢子は、気付いてなかった? とでもいうように片眉を少しあげる。私が術にかかってないなんて思わなかった? と。

 「知らなかったと思うけど、私もまわりに内緒で黒魔術のこと調べてたんだよね。話しかけてきた時、スマホの画面に認識障害と承諾強制の術式映して見せてきたでしょ? それで『あ、噂は本当だったんだ』って嬉しくなっちゃって、ついOKしちゃった」

 倫理は俯いて話を聞いている。その肩が、かすかに震え始める。屈辱を感じているのか、何かの衝動を抑えているのか。早矢子は言葉を続ける。

 「初対面なのに、以前から知り合いだったと思わせる錯誤の魔術。食い倒れに強制参加させる唯々諾々の魔術。あ、唯々諾々って良い言葉だよね。なんか響きが好き。その二つの魔術って、ダークウェブで出回ってる奴だよね。倫理がそんな魔術をかけようとしてくるから、私最初は友達が欲しい子なのかなーって思ったんだよね。話ではみんなから遠巻きにされてるっぽかったし、『黒沼さんいっつも一人で寂しそー』って台詞も教室でよく聞いてたから。でも違うよね?」

 倫理は頷く。そう、彼女は別に友達が欲しかったわけでも、早矢子と仲良くなりたかったわけでも無い。

 「やっぱあれ? 異世界勇者への復讐? 道中、なんか念入りに仕込んでる術式あるよね。あれって、私を依り代にした書き換え魔術だったりする?」

 早矢子は俯いたままの倫理の顔を覗き込もうと、前屈みになる。


 「勇者の願いでゲンダイニホンに書き換えられたこの世界を、元の世界に書き換え直そうとしてるの?」


 少しだけ、以前この世界に召喚された勇者の話をしよう。

 二十一世紀を生きた日本人丸尾昇は、十七歳のある日、不幸な事故のために命を落と(中略)世界を救うことになった。神は丸尾に世界の救済を依頼した際、依頼を完遂すれば何でも願いを叶えるとの約定を交わしていた。丸尾は神から授かったチート能力、アポートを駆使して平和を乱す悪漢どもを蹂躙して回り、旅の果てに遂に里山に住むボラテさん(三代前から続くトウモロコシ農家。リジョットという木管楽器の演奏を得意としている)の畑の裏手の沼に沈んでいた壺を見つけ、引き上げて処分することに成功した。その壺に封印されていた〈生物を大型化・肉食化させる呪いの細菌〉が漏れ出し始めており、その感染が拡大すれば世界の破滅は必定だった、というのが神の言い分だ。もともとの住人たちの実感では「言われてみればここ数年立派な角の鹿が増えたような気がする」だとか「めちゃくちゃでかいドブネズミを見たことはあるけど、あれは食堂の店主が掃除をサボってるからだろ」というレベルのもので、世界が救われたとホッとするものは誰もいなかった。そもそも誰も、世界の危機だと感じてなかったのだ。

 さて、世界を救った丸尾昇はどういう人間だったか?

 普通の人間だった。学校に悪友がいて、スマホをいじっている時間が長くて、将来特にしたいこともないから勉強だけはしておいた方がいいかなと思いつつ友達にカラオケに誘われたら食い気味で行く行くと返事するような人間だった。そんな人間が異世界に召喚され、不衛生な世界で毎日のように血を流して疲弊しきり、やっとのことで「お疲れ様でした、ご褒美に何でも願いを叶えましょう」と言われたら何を願うか? 考えるまでもなかった。

 「元の世界に戻りたい」

 「今までと同じように便利な世界で楽しんで暮らしたい」

 というのが丸尾昇のアンサーだった。そして、後者の願いだけが叶えられた。世界の書き換えによって。


 「エルフの私たちが誇り高い家名を捨てさせられて、弓長早矢子なんていうカクついた字面の名前を名乗らされるのも、沼地の魔女に攫われて弟子になってたあんたが他の子供と同じ教室に押し込められて退屈に苛まれたのも、ぜーんぶ十五年前に勇者丸尾の願いで世界が書き換えられたせい。だからなの? そんな手の込んだ術式を組もうとしてるのは」

 早矢子に質問されても、倫理は俯いたまま答えない。代わりに、ぽつぽつと思い出を語り始めた。

 「エルフで長命の早矢子と違って私はまだ子供だったけど、世界が書き換えられた時はすごくびっくりしたよ。馬車の轍しかなかった道が急に舗装されたり。私が住んでた小屋があった沼地、朝起きたら埋立られてて2×4が建ってるし、それで最近になって基礎工事に欠陥があったから沈下の恐れがありますとか役所から連絡くるし」

 神の力による世界の書き換えは、たった一日で終わった。現代日本を模した都市がトールキン的世界観を覆い尽くし、そこに暮らしていた知的生物は全て現代的職業の役割を無理矢理押し付けられた。例えばアラナイ(九十周辺)のエルフだった弓長早矢子は、見た目年齢が若かったために公立中学に三年、私立の進学校に三年、大学付属中高一貫校に六年も通わされ、百歳を超えてようやく大学に進学することが出来た。人間との生態の違いによるこうした齟齬はそこかしこで起きているが、政治家も省庁も(当然どちらも『現代』行政の経験は全くない)どこから手をつけるべきかの議論を始めたばかりで、いつ問題解消されるかの見通しすら立っていない。

 「沼地の魔女の素質がある子供って、元の世界じゃ社会と断絶されてたってのは知ってるでしょ? それがいきなり閉鎖された村社会である学校に放り込まれたんだもの。大変だったんだよ」

 勿論大変だったのは倫理だけではない。育ての親だった沼地の魔女(元の名前は忘れ去られ、新しく黒沼苹果の名前を与えられた)は社会の急激な変化に対応出来ず、与えられた役割である薬剤師の仕事に従事している内に情緒が不安定になっていった。世界の書き換えから十五年が経つ今でも精神安定剤を服用し、月に二回はカウンセラーのもとに通っている。カウンセラーのホビットと話している時だけは現世の歪さから離れられると口癖のように言いながら、気が狂わないように耐え、職場と沈みかけた家とを往復するだけの日々を送っている。

 「母が半生をかけて収集していた魔術書は全部、工学や情報技術の入門書や専門書に置き換わっていたの。母はそれで、探求の道を諦めざるを得なかった。私と違って丸暗記は出来なかったし、ゲンダイニホンにない技術体系の研究は御法度だしね。だから私が研究を継続してるってバレて勘当食らったわけだけど」

 書き換え前の原世界に固有の技術が御法度になったことによって失われたものは、数え切れないほどだ。ほとんどの魔術、神鉄の鍛造、天候の操作、精霊との対話などのノウハウは全て封印された。いずれ世代交代とともに存在していたことすら忘れ去られることが決まった、憐れまれるべき技術の数々。

 早矢子はあっと声を上げた。

 「そうか、私が読んだダークウェブで流通してる黒魔術のハウツー本。あれは倫理が書き起こしたやつなんだ? 沼地の家にあった本は全部読んで憶えてたって? 忘れないんだもんね?」

 倫理は否定も肯定もしない。ただ早矢子だけが「成る程成る程」と呟きながら小刻みに頷いている。

 「フォーラム内で神だ、いや悪魔だと賞賛されてた人の正体がまさか同級生だったとはね。あっ、そっか放流主のハンドルネームも確かスワンプマンだっけ。あーじゃあもっと早く気付くべきじゃん、迂闊だなー私。なんだこの厨二ハンドルネームって思ったところで思考が終わっちゃってた」

 「……話、続けていい?」

 倫理がしばらくぶりに顔を上げる。その頬が、ほんの少しだけ引きつっているのが見える。

 そこに、海鮮食堂いしゆみの扉から顔を覗かせた店員が声を掛けた。

 「お客さーん! もうとっくに空いてますよー!」

 そう言って二人を手招く。先程中を覗いた二人の顔を覚えていたのだろうか。世界が書き換えられる前は弩兵として城壁の上で見張りをしていた店員である。見張りとして培った、人の顔を覚える能力と抜群の視力があれば、往来の中から早矢子と倫理を見つけるのも容易いのかもしれない。二人は顔を見合わせると、食堂の中に入っていった。

 

 さっと茹で上げたしらすを、小さく盛ったご飯が完全に隠れるほどに被せた丼は、鉄板の美味さであった。茹でたてで湯気を上げているしらすの上に、そっと置かれた卵黄はその熱をほのかに吸収し、崩した時にご飯にとろりと垂れて、その絡まり具合がもう完璧と言っていいくらいの……。

 「はー、美味い!」

 早矢子は釜揚げしらす丼をかきこむと器をテーブルに勢いよく置いて、グラスに注いでいた冷酒をかぱりと空けた。

 「食は良いね。断然こっちの世界の方がいい。元の世界でも交易が盛んだったら、食文化がもっと発展してたのかな。なんにせよこの釜揚げしらす丼はサイコーだわ。またこの控えめにかけられたタレに冷酒が合う!」

 感想を言い終えた早矢子はまた冷酒をグラスに注ぎ、かぱりと空け、また注いだ。スマホで撮った写真をSNSに上げてからまだ三口くらいしか食べていない倫理は、ゆっくりと咀嚼しながら頷いている。美味いということに同意はしたいが、「確かに」の一言を口にする時間が勿体無い。一秒でも長く味わっていたいという貪欲さがその表情から読み取れる。

 早矢子は聞き覚えのある銘柄を適当に四つ頼んだ冷酒を次々と呷りながら、倫理の顔をじっと見つめた。黒魔術に耽溺した元教祖の大学生という、この上なく怪しい存在でありながら、美味しいものを食べている時の倫理はただの褐色金髪タレ目美女でしかない。八重歯を矯正中との瑕疵はあるが、見ようによってはそれもフェティッシュだ。人とエルフ、八十も年が離れているが、実は互いに相手の顔がめちゃくちゃ好みだという共通点がある。

 早矢子は料理の感想を言った後は倫理の丼が空になるまで一言も喋らず、ただ顔を見つめながら冷酒を呷り続けていた。

 「ご馳走様でした」と倫理が手を合わせる。「私の顔をじっと見つめてたけど、良いつまみになった?」

 「今までで一二を争うほど美味しいお酒になった」

 三種類目のミニボトルを空にした早矢子はグラスをテーブルに置いて、腕を組んだ。

 「倫理のそのキッツい金髪と日サロに通った肌って、なんかへの反抗? それともただの好み?」

 倫理は屈託無く笑いながら答える。

 「どうだろうね。そういう文化があるのかーっていう興味本位と、育ての親の黒一色しか許さなかったファッションへの反抗と、始めたきっかけは半々かな。でも今は気に入ってるからってのが本音だよ。私の目、色は黒だけど瞳孔の一点だけ真っ赤でしょ? 金、赤、黒の組み合わせってカッコいいじゃん? 早矢子はまた厨二っぽいって笑うかも知れないけど。でも私、鏡見る度にニヤけるくらい今の自分の顔好きなのよね」

 「ふーん。成る程」

 と言う早矢子の顔は、少し不満げな色に染まっている。そして昔を思い出すように、右上を見上げた。

 「倫理はさ、プナタンマーの弓弦って聞いたことある? 極細のオリハルコンの繊維を何本も束ねて編んだ弦で、透明なんだけど光が繊維の中を乱反射して、見る角度によって煌めき具合が変化していくの。一時期は弓の扱いが一番巧みだと認められたエルフに与えられてたんだけど、私が五歳くらいの時だったかな。盗まれたか失われたかして、行方不明になったんだって。で、私の髪」

 そう言って早矢子は指先で、茶色に染めた自分の髪をつまむ。

 「世界が書き換えられるまでは、森の人達に『お前の髪はまるでプナタンマーの弓弦のようだ』って言われてたんだよ。今ではこんな地味な色に染めてるけどさ。なんで染めたかわかる?」

 倫理は首を振る。髪を染める前の早矢子の容貌を想像しようにも、さぞ神々しいんだろうなという推測でとどまってしまい、具体的なイメージを固めることができない。

 「世界が書き換えられてちょっと経った頃、男友達に言われたの。『お前の髪はまるで光ファイバーのように美しいな』って」

 早矢子は四本目のミニボトルに手をつける。

 「今想像したでしょ? 笑えるよね? 頭から光ファイバー生やしてる女。ほら見て、髪の根元だったら分かるんじゃない?」

 早矢子は自分の髪の分け目をぐいと押し広げて倫理に見せつける。

 「良いよね倫理は。今の自分の顔が好きで。私だって今の私の顔は好き。でも元の髪の色はもっと好きだった。光ファイバーなんてない世界の、プナタンマーが矢を射ていた世界の私の髪が」

 四本目が、空になる。


 バーダイナー火焔壺。呑ん兵衛横丁にある隠れ家的な雰囲気の酒場兼食堂だ。雑居ビルの半地下に間借りしていて、元々は火薬庫だったとのことで壁が分厚く、夏は涼しく冬は暖かいので居心地が良いと評判のお店、と食べログに書いてある。

 「とりあえず……チーズ盛り? のAセットとBセットおねやしゃす。あっと……テキーラも。ボトルで、グラスは二つにぇ」

 回らない呂律でオーダーを終えた早矢子がカウンターに突っ伏す。目も口も半開きで、五秒に一度は垂れかけた涎を慌てた様子で啜っている。

 「良い具合に酔ってるじゃない」

 倫理は早矢子の背中に手を当てて、軽く撫でてやる。吐き気と眠気が促進された早矢子は前後に揺れ始め、三往復めでおでこを勢いよくテーブルにぶつけた。

 「まだ飲むの?」

 「まだ飲みゅの。スイッチが入った。入れたのはあんたよ」

 おでこを手で抑え、おかげで目がパッキリ開いたわと嘯く早矢子は、バーテンがテキーラのボトルを運んできても気にせずに話を続ける。

 「わたしぁね、あんたのずつしきの発動を邪魔しにゃいことに決めたの。むしろ積極的に応援したぁげる」

 倫理はボトルから二つのショットグラスにテキーラを注いで、片方を早矢子の前に置いた。そのままライムを齧り、テキーラを呷り、塩を舐める。早矢子も一拍遅れてグラスを空ける。ボディブローをもらった時のような顔をしていると、倫理は思った。

 「早矢子は誤解をしているようだけど、私の準備している書き換えの魔術は世界を対象にしたものじゃないの」

 ライムを一個手に取り、同じローテーションをもう一周する。

 「私がしようとしてるのは、この小説の書き出しの書き換え」

 チーズ盛りが届く。適当に一つ口に運ぶと、甘さとコクと、ねっとりとした食感とコリッとした食感が口の中で混じり合った。美味い。なんだこれ。

 「それがどういうことかは早矢子には分からないと思うから、技術的なことじゃなくて目的だけ教えてあげる。私はね、あなたを使って世界をめちゃくちゃにしたいの。元の世界に戻りたいとか、そういうのはどうでもいいの」

 チーズを食べて、ライムを齧る。テキーラを飲み、塩を舐める。早矢子はふらふらになりながら、倫理のペースに合わせて飲んでいる。倫理の声が耳に届いているのか届いていないのか、なんのリアクションも起こさない。

 「早矢子を早矢子にした世界に、私を倫理にした世界に」

 倫理は早矢子の背中に手をやり、先程さすった時に仕込んでいたトリガーの術式を発動させる。

 「この歪な世界に、目にもの見せてやりましょう」

 早矢子は椅子から床に崩れ落ち、口から大量の反吐を撒き散らす。店の床にはいつのまにか、衛星写真のようなゲンダイニホンが投影されている。端の方に"Google©️"の表記が見えた。早矢子の反吐は床に広がらない。床だった空間をすり抜けて、ゲンダイニホンに降り注ぐ。


 黄色く濁った胃液の中で泳ぐご飯粒は蟲の卵だ。しらすとはとても言えないサイズになった白濁した魚は、その卵をつついて孵化を促している。卵の殻を突き破って出てくるのは百足と芋虫が合わさったような、縮尺の狂った奇妙な黄色の蟲だ。自らが破った殻を食い尽くすと、手近な動物を襲い始めた。

 床に映った衛星写真から、発酵しすぎたヨーグルトのような臭いが立ち上ってくる。早矢子は眼前で繰り広げられる光景に余計気分が悪くなるが、顔を背ける余裕も無い。第二波が来る。ゲンダイニホンの建築物にぶち撒けられた、しらす丼だったもの。それをビチビチビチと音を立てて押しのけるのは、黒くぬらりと光る紐状の何かが絡まりあったもの。イカスミのパスタが"何か"に成れ果てたものだ。ほとんど咀嚼されずに飲み込まれていた麺は早矢子が見ると丁度ミミズほどの長さに見えるが、ゲンダイニホンに降り注いだそれは一本一本が直径二メートルを超えるくらいに巨大化している。絡まりあった塊のまま触手を蠕動させ、空に浮かび上がったスパゲッティモンスターは、見かけによらない力強さで建物を、人の命を破壊していく。

 劇場でモンスター映画を見た時よりも、臭いがある分臨場感では勝っている。ほとんど床に顔をつけるような姿勢で自分の吐瀉物の臭いを嗅ぎながら、弓長早矢子は現実逃避する。そうしている内にまた咽せて、喉の奥に一番強烈な異物感がせり上がってくる。ああ、これはあれだな。世界がさらにパニックになるなと何故か冷静に思いながら、早矢子は丸呑みしていたゆで卵を勢いよく吐き出した。卵も他の吐瀉物と同じように、床を突き抜けてゲンダイニホンに落ちていく。スパゲッティモンスターは、ボタリと落ちてきた卵を頭に乗せると、鳥の巣のように見えなくもなかった。丸呑みされていた茹で卵は、先程ご飯粒が変化して蟲が孵った卵とは比較にならないほどの大きさだ。

 何処からか、絶望したような悲嘆したような「うおおぉ」という低い声が上がる。店からか、世界中からか。そこかしこで同じような声が上がり、早矢子の耳に届く。早矢子はそれを聞いて、胸がすくような気持ちになる。顔を見ることはできないが、倫理のクスクス笑う声が少し聞こえた気がした。

 巨大な卵が揺れる。中から何かが殻を破ろうとしている。ヒビが入り、穴が開いた。嘴が飛び出し、穴が次第に大きくなって、今にも生まれ出ようとしている。穴から這い出てきたそれは、雄鶏の体と蛇の尾を持つ巨大なコカトリスだ。ゆっくりと頭を天に向けると、鶏鳴暁を告げるように、世界の終わりを告げた。


 コッカドゥードゥルドゥー!!!!


 世界を邪眼で、毒で、巨大な質量でもって破壊しながら歩き始めた鶏の脚が、五歩目でバーダイナー火焔壺を踏み抜いた。

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