第11話 寿司屋ケンちゃん

いつもと違う、会社の帰り道。

いや、もういつもという定義すらわかっていない俺は、容赦なく降りかかる仕事をなんとか振り切り、山手線高架沿いを駆け抜けていた。

既に夜も遅い時間。俺は、一直線に筋肉屋を目指して走っていた。

絶対に開店していると確信していた。

そうだ、俺は何度もあの店に訪れたことがある。おにぎりだったり餃子だったり、うどんだったり……様々な料理を、あのにいちゃんは作ってくれた。

だが、食べた記憶までは無かった。おそらく昨日、パフェを食べた事だけは覚えているが、きっとまだ忘れていることがある筈だ。

確かめなくてはならない!

そうしてやっと、俺は筋肉屋へとたどり着いた。


「はあっ、はあっ、はあっ」

「いらっしゃい! 筋肉寿司! ワンセット1500円だ。食べてくかい?」


にいちゃんが笑顔で声をかけてくる。俺の記憶にある通りの人物だ。

俺は息を整えて訊いた。


「待ってくれ……にいちゃんは、一体何なんだ?」

「何って…………ただの、屋台の店長ですよ」

「俺は何度もにいちゃんに会ったことがある筈だ。なのに、忘れていた。どうなってるんだ!?」

「……そうですか。どうやら、思い出した事もあるのですね。でも、まだほとんど思い出せていないみたいです。この状況も、理解できていない様子」


にいちゃんの顔は曇ったが、それも一瞬のことで、すぐにまた明るい表情へと変わった。


「ですが、答えはこちらにあります。筋肉寿司! 俺の自慢である筋肉屋の、この一品を食べて、全部思い出してください」


にいちゃんは自信に満ち溢れていた。気迫が目に見えるオーラとなってほとばしっているようだった。

俺は、にいちゃんの口車に乗せられる覚悟を決めた。


「わかった。いくらだ?」

「1500円になります」

「よし……はい、1500円」

「まいどっ。少々お待ち」


そしてにいちゃんは両腕でシャツを引きちぎった。

盛大に誇示されたボディが露わになる。


「お客さんを最高の筋肉ショーへとご案内いたします!」


そしてにいちゃんは赤い大ぶりの切り身を台へと乗せ、


「うおおおおおおおおおおおおおおお」


包丁の切っ先を、差し込んだ。


途端、光が満ちた。


世界が作り替えられていく。屋台の佇まいが消え去り、静かな町の景色が遠くなっていく。

やがて何もない空間へと俺たちはたどり着いた。いや、遥か遠くで星が光るような、上も下も分からなく殺風景だが、それでいて温かい不思議な空間に、俺たちは立っていた。

マッスルワールド。俺は、初めてここに来たわけではない。記憶は朧気でしかないがそう直感している。心が、身体が、高ぶっていた。

そして気づいたときには1貫の中トロが出来上がっていて、どう見ても宙に浮いている下駄に鎮座していた。


「特製筋肉寿司、ここからが本番だ!」


にいちゃんは先程の赤身に再び包丁を添えた。そして、ゆっくりと筋に沿って切られた寿司ネタを左手に掴み、右手でにいちゃんのすぐ横に浮いていた桶の中から酢飯を握り取った。


「はっ」


器用な事に、酢飯を包みながら事前に指に付けてあったワサビを、酢飯に塗り付ける。

そして、左手の切り身と合わせて握る。右手が酢飯の形を整え、左手が上からネタを包み込む。

その姿勢が、サイドチェストを彷彿とさせる。前面に押し出された上腕二頭筋が膨れあがる。大胸筋がピクピクと震えている。包み込んだ寿司に訴えかけていた。俺が! お前を! 創ると!

そうして繰り返される筋肉寿司握り。途中から赤身はより薄いオレンジ色に変更され、トロからサーモンへと変わっていた。

1貫1貫命を吹き込むように作られる握り寿司。うなる筋肉、テカる筋肉、爆発する筋肉。

10貫と握ってはいないはずなのに、俺には果てしない時間に感じた。にいちゃんの今までの軌跡をもぎゅーっと凝縮して俺に流れてくるような刹那。ありし日を想起させるみたいに温かい、いや、これでもかと灼熱で燃え上がるような想いが満ちていった。

何度ナイスバルクと叫びそうになったろうか。未だに終わっていないその所作は、まるでこちらの呼吸をも止めるかのような連綿とした美を醸していたのだった。あっぱれ。


だが、終わりはやってきた。サーモン握りをシュッと下駄に置いて、


「次が、最後です」


そうつぶやいたにいちゃんは、目の前に巻きすを広げた。


「はいぃいぃいぃいぃいぃいぃいぃい」


掴んだ酢飯をドバッと置き、均等に広げる。

それから、手に持つはタッパー。

薄いピンクとまばらに見える緑なその中身を片手で掬い上げ、酢飯の上に満遍なく広げていった。


「特製わさびいっちょおおおおおおおお」


雄たけびいっちょう、親指にべったりつけたワサビを、広げられたトロをなぞるようにして素早く塗布する。


「さあ、フィニッシュ!」


そして、両手で巻きすを手前から、丸める!


「ふんんんんんんんんぬううううううう」


まるでモストマスキュラーをイメージさせるその渾身の型で力が注がれ、ネギトロ巻きが完成する。筋肉からエネルギーが流れ込んでいくのが見える。腹直筋が笑顔を振りまいていた。腹筋板チョコ!

だがそれも一瞬。長い間留まらず、にいちゃんは体の半身が前に出るよう向きを替え、両腕を背後に回して重ね合わせ、ちょこんと足を曲げた。


「どおおおおおおおんっ!」


胸とふとももを凄まじく強調するこのポーズは、サイドトライセプス!

やや斜めから見る三角筋、連なる腹斜筋が、マッスルワールドに怒号を鳴らす。見るものを圧倒するパワー。マッスル、イズ、パワー! うむ、ノーベル筋肉賞。

もちろんそれだけではない。全身が生きた芸術となった今のにいちゃんは、マッスルワールドでひときわに煌めく遊星。ほとばしるは汗とオーラ。この世界における絶対的君臨者。どこをとっても一級。いや、無類の境地である。

いつもより大きく見える僧帽筋がにいちゃんの笑顔と共に大輪の花を咲かせるかのごとく誇示している。もっとだ、もっと歌ってくれ僧帽筋!

更には、背後に見えるテカリの際立つ上腕三頭筋がボディバランスを保ち、牙を披露している。こいつぁ、デカ過ぎて固定資産税かかりそうだな!

そして強固な大腿四頭筋。側面から映える極太な足のラインと、ほんのり覗くは大腿二頭筋と大殿筋。絶妙なバランスが艶やかすぎる。はあ、はあ、んんー、アドレッセンス!

マッスルパワー、フルチャージ。いやもう臨界点突破だ!

ついに俺は、今まで抑えていた衝動を、解き放ったのだった。


「ナイスウウウウッバルクウウウウウウウウッ!!」



「はい、おまちどう様です。召し上がれっ」


気付けば、俺の前にはトロとサーモン握りのセットが用意されていた。


「あとこれも、おまけです」


すすっと下駄の隣に置かれたのは、牛乳寒天だった。真白くぷにぷにしていて、弾力があるのが良く分かる。やりおるな、こやつ。


「新元号は、筋肉です。いただきます」


俺は軽くサムズアップした後に、下駄に並んだ中トロを1貫手に取り口に入れた。

まろやかに溶け込んでいくネタに満腹中枢が刺激されると同時に、エンドルフィンが駆け巡る。


そして俺は、全てを思い出した。


俺が何度も筋肉屋に来た事にとどまらない。筋肉屋の事。にいちゃんの事。俺自身の過去の事。それらすべてを、思い出したのだった。


「ああ、分かった。ここに何度も来るのは、半分は俺の意思で、半分は……タカト、お前が仕向けた事なんだな」

「全部、思い出せたんすね」

「タカトの意図にも見当がついたよ。でも、ひとまずは……息災で何よりだ。良い筋肉に、なったな」


にいちゃん――いや、タカトは、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます!」


それは今までの遥かなみちのりへのねぎらい。

俺が教え伝え、鍛えられた筋肉への賛美。

かつての弟子との再会だった。


「……次で最後にしよう。そこから、俺たちの闘いを始めるとするか」

「じゃあ、あにきが助けてくれるんすか!?」


タカトは驚いた様子で顔を上げた。

当然か。無情にも時間は流れてしまった。今の俺にはかつての無双の威力は無い。

だが、


「あたりまえだ。俺が、また世界を変えてやるよ」


俺は上腕二頭筋のちからこぶを叩きながら、悠然と言い切った。


「はい、あにき!」


その返事を合図に、全てが黒に溶け込んでいく。

そして俺は、最後となる今日に降り立つのだった。

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