第97話 平和という名の毒
レムーハ記 ムドーソ王国伝より抜粋
オーク民族による国境守備隊の壊滅と【ブルサの壁】の陥落。
権威が衰えていたムドーソ王国がその情報の一片を掴んだのは、王が【ドミー城】に入城した翌日の朝と伝わっている。
ただし、それは自ら掴んだものではなかった。
「その情報は、確かなのか…?」
「はっ。シネカさまが、辺境で活動する商人たちから通報を受けたのことです」
「あの銀行家か。ふん、引退したくせに余計なことをしおって」
ムドーソ城内で王と一部の重臣のみが立ち入りを許された会議室【鏡の間】。
暗殺を恐れたエルムス王が隅々に鏡を設置して家臣を監視したと伝わるこの部屋で、あたしは2つの最悪に直面していた。
1つ目があたし、つまりエルンシュタイン王を無視して政治を取り仕切るでっぷり太った貴族たち。
2つ目が、ムドーソ王国が外敵の侵入を許したという最悪の知らせ。
心臓は早鐘のように鳴り、冷や汗が止まらなかった。
でも、表立って不安を口にするわけにはいかない。
この空間に、あたしの味方は誰一人としていないのだから。
「確かなのか、ランケよ」
ようやく出た言葉は、かたわらにいる秘書官に向けられる。
-神経質な表情と痩せた体。
ーそれに似合わぬ立派な剣。
【父親】であるエルネスタから「記憶力以外は何のとりえも無い」と断じられた、頼りない家臣。
「げ、現在確認中でございます」
「つまり、分からぬということじゃな」
「…」
「それで済むと思うのかこの無能め!」
「歴代秘書官が泣いておるわ!代々受け継がれてきたメルツェルも潰しおって!」
「い、いざというときはランケが討伐軍を率いまする!この【七宝の剣】でー」
窮したランケが腰の剣を抜いたが、手からすっぽりと抜け落ちる。
「うひゃあああああ!」
びっくりした秘書官は慌てて剣を拾うも、もはや日常茶飯事となった光景に口をはさむものはいなかった。
「落ち着けランケ。余は一つ聞きたいことがある」
「はっ…」
「【馬車の乱】で軍を粛清してから7年、軍の再建や関係者の恩赦に関する建議は何度行われた?」
「167回にございます」
「実行されたものは?」
「ございません」
「167回の内、余が建議したものは?」
「89回にございます」
「そうか…」
記憶力だけは優れているランケはすらすらと応える。
あたしはそれだけを確認すると、口を閉じた。
結局、この会議に口をはさんでも無視されると思ったからだ。
「だから私は再三みなさんに申し上げたのです!危機に即応できる軍がいない状況は異常であると!」
そんなあたしの心情を知ってか知らずか、貴族たちは仲間割れを始める。
「なにを!貴様、【馬車の乱】の時は大喜びで軍人の粛清に加わったではないか!」
「貴様こそ、削減した【ブルサの壁】への予算を着服したではないか!」
「し、証拠を出さずしてその物言い!我慢ならぬ!」
「喧嘩はやめよ!それより至急対策をー」
「和平だ!和平を求めるのだ!」
喧々諤々としているが、その中に有用な建議は存在しない。
責任の擦り付け合いと現実逃避がごちゃまぜになった、醜いぶつかり合いが続いた。
==========
これが平和を体現した国の末路。
あたしは争いをやめない貴族をぼんやりと眺めながら、そう結論付けた。
始祖エルムス王から長く続いた流血の歴史。
その歴史は、当事者が計画的に進めたものではないにせよ、【馬車の乱】による軍人の粛清で一定の完成を見た。
この王国の歴史上珍しく、7年間は目立った戦争や反乱はなかった。
だが、その先に待っていたのは退廃。
貴族たちは平和という名の利権を貪り、国外の事情に目を向けず、くだらない派閥争いに熱中した。
やがて国の空気自体が内向きとなり、いつまでも我らは強国であるという意識だけが肥大化している。
そして、いざ有事が発生した時はどう対処すべきか誰も知らない。
要するに、平和という名の毒をムドーソ王国は食らい続けたのだ。
「自分が生きてる間は変事は起こるまい」とタカをくくり、諸問題を先送りにし続けたツケを払う時が来たのだ。
だが、あたしがそれを偉そうにいう権利はない。
元はといえば、あたしが招いた状況なのだから。
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「…余が行けば良いのだろ」
あたしがぽつりと漏らした言葉を、貴族たちは聞き逃さなかった。
「【守護の部屋】を動かし遊ばすのですか!」
「さすがは名君でいらっしゃる!」
「ノーラ王もさぞお喜びでしょう!」
「「「エルンシュタイン王、どうか【守護の部屋】を動かし、劣等種のオークを討伐なさいませ!!!」」」
保身の時は、こいつらは息をぴったりと合わせる。
ムドーソ王国に残された唯一の軍事力。
あたしが今座っている玉座を取り囲む部屋、【守護の部屋】。
何者も通さない【青の防壁】と何者もなぎ払う【赤の裁き】を備え、オークが叛乱を起こしている草原地帯まで一瞬で移動できる。
この【守護の部屋】を私が動かし、オークを皆殺しにする。
それが、強勢を誇ったムドーソ王国を保つ唯一の手段なのだ。
「いいだろう」
あたしは、【守護の部屋】で人、いや生物を自ら殺したことがない。
「行こうではないか」
でも、そんなことを言い出せるはずもない。
「こんな部屋程度、動かして見せよう!」
それが平和という名の毒をもたらすとしても、やり遂げなければならないのだ。
たとえ愚王であっても、あたしはこの国の責任者なのだから。
「【守護の部屋】よ、急ぎ草原地帯へー、」
そこまで言い出した時、あたしの記憶は赤一色に染まった。
ー血と臓物。
ー飛び散った四肢。
ー涙と悲鳴。
ー父の邪悪な笑顔。
大丈夫。
これは昔見た記憶。
もう心の傷は癒えた。
あたしは行ける。
【守護の部屋】が浮上していく。
移動だけならー、
その時、あたしは【鏡の間】の扉を開け、誰かが入ってくるのが見えた。
ここは貴族以外門外不出のはずー、
手が吹き飛んだ者。
足をなくし、飛び跳ねながら近づく者。
顔のない者。
胸を裂かれた者。
「うそ…」
現実化した記憶。
【馬車の乱】で粛清された兵士たちだ。
「いやだ…いやだよ」
亡者の群れは一言も発さないまま近づいていく。
【守護の部屋】が勢いを失い降下する。
貴族たちの困惑する声が、どこか遠くで響いた。
「あああああ!」
我慢ならず玉座から転げ落ちる。
這って逃げようとするが、体が言うことを効かない。
「もう嫌だ!助けて!!!」
だから叫び続けた。
「誰かここから出してよお!」
部屋から飛び出そうとするが、【青の防壁】に阻まれて失敗する。
王として即位したものは、死ぬまでここから出られない。
防壁を力一杯叩き、血が滲むまで叩いたとしても。
後ろを振り返ると、亡者たちはすでに【青の防壁】を超え、無言で迫ってくる。
顔が潰れた先頭の女性には見覚えがあった。
粛清された兵士たちを率いた、ユッタ将軍。
母以外であたしに優しくしてくれた、唯一の人。
あたしを見ると、かろうじて残る顎にぶら下がった唇の一部を、にやりと釣り上げた。
「いやああああああああああ!!!!!」
絶叫とともに、目の前の光景はぷつりと途絶えた。
レムーハ記 ムドーソ王国伝より抜粋
エルンシュタイン王は会議中昏倒し、首都ムドーソ城内は大混乱に陥った。
貴族たちは紛糾した挙句、とある人物を辺境地帯へと派遣する。
それ以外、打てる手は見つからなかった。
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