雨と私と君

sin30°

雨と私と君

「雨なんて降らなければいいのになぁ」

 湿気のせいでいつまでもまとまらない髪を撫でつけながら、吉川茉衣は呟く。


 学校までちょうど半分といった所の赤信号で足を止めると、足の裏に水気をたっぷり含んだ嫌な感触。家を出て五分も経たないうちに靴下はしっかりと濡れてしまったらしい。

 恨めしい思いをたっぷり込めて空を見上げるが、暗い灰色の雲がどっしりと居座っている。どうやら、降りやむ気は全くないようだ。

 心なしかいつもより元気のないピヨピヨという音に促され、小さくため息をついてまた歩き始める。


 結局、学校についたのは門が閉まってから五分後の事だった。何とか大目に見てくれた先生に睨まれながら下駄箱へ向かう。

 来る途中でびちゃびちゃになった靴下を脱いで、素足のまま上履きを履いた。何とも言えないヒヤッとした心地悪さに、思わず顔をしかめる。


 教室につくと、すでにホームルームは始まっているらしく、無気力な担任の声が漏れ聞こえてくる。せめてもの抵抗で後ろの扉をそっと開き、忍び足で教室へ入った。

 しかし、入るや否や担任にじろっと鋭い視線を向けられた。できるだけ目立たないように入ったつもりだったが、全く無意味だったようだ。担任の視線を追った何人かのクラスメイトにチラリと見られ、居心地悪く席に着く羽目になってしまった。

 力が抜けたように椅子に腰かけた茉衣は、机に突っ伏して頭の中で雨を呪う。


 本当に、雨って最悪だ。


***


「雨なんか降らなきゃいいのにな」

 窓際の自分の席に腰掛け、校庭にいくつも水たまりができているのを眺めて、杉崎周平は呟く。

 昼休みのにぎやかな教室の空気とは対照的に、その表情は暗く沈んでいる。


「えー、別に雨でもよくね? 練習楽だしさ」

 机に座って周平と一緒に校庭を見ながら、同じ野球部でクラスメイトの横岸がおかずを口いっぱいに頬張ってもぐもぐさせながら返してくる。

「そんなんだからお前はベンチなんだよ」

 同じようにふざけた調子で答えてやると、横岸は「あ、そういうこと言っちゃう?」と頬を膨らませ、拗ねたとかなんとか言って自分の席へ戻ってしまった。


 しかし、夏の大会まであと二か月しかないのに雨だなんて本当にツイてない。ただでさえあと一か月もすれば梅雨だっていうのに。今年こそは、エースである自分が甲子園に連れていかなければいけないのだ。

 苛立ちを隠しきれない表情で頬杖をついた周平は、降りやむ気配のない雨を眺めて心の中で呟く。


 本当に、雨って最悪だ。


***


 なんとか授業をすべて受け終わった茉衣だが、気分は憂鬱なままだった。

「なんでこういう日に限って係の仕事あるかな……」

 本当に今日は最悪な日だ、と自らの不運を嘆く。


「茉衣、どしたの? 一緒に帰ろうよ」

 ため息をついていた茉衣が顔を上げると、同じ吹奏楽部の里穂だった。吹奏楽部と言っても定年間際のゆるいおじいちゃんが顧問の弱小で、週に三回は休みがある。

「ごめーん、今日生物係なんだよね」

 手を合わせて謝ると、里穂も察したように眉をひそめながら、

「あー、あのよく分かんない係ね。ほんっと森も適当よね、何考えてんだろ」

 生物係という係を作った担任をこき下ろす里穂。本人がまだ教室にいるのにそんなことを言えるなんて正直すごいと感心してしまう。よくない意味で。


「じゃあしょうがないか。また明日ね」

 渋い顔をしつつも手を振りながら教室を出ていく里穂。教卓の前を通るときに担任を睨んだような気もするが、気のせいだと思うことにした。

「なんか、とことんツイてないなぁ……」

 実験で使った器具を片付けておいてくれ、とだけ茉衣に告げて担任も教員室に戻ってしまった。

「器具を片付けておいてくれじゃないのよ、私はあんたの召使かっつーの。もう一人は全然来ないしさぁ」

 他に誰もいないのをいいことにぼやきが止まらない。


 本当なら、生物係はもう一人いるはずなのだ。けれど、そのもう一人は野球部のエースらしく、練習を優先しなければいけないという。それで今まで一度たりとも係の仕事をしに来たことがない。そのことも茉衣を苛立たせる要因の一つだった。


 ゴロゴロ、と遠くで雷が鳴った。雨はまだまだ降りやみそうにない。


***


 帰りのホームルームが終わり、周平は大きく伸びをした。チラっと窓の外を窺うが、雨はやむどころか朝よりも強くなっていて、校庭の水たまりもさらに大きくなっていた。

 雨が降りこまないように締め切られた教室の中は嫌にじめじめとしていて、暗い気分が増していくような気がする。


「ごめーん、今日生物係なんだよね」

 ざわざわと騒がしい教室の中でふと女子の声が耳に入り、声のした方に目を向ける。

 見ると、綺麗な長い黒髪のおとなしそうな女子が困った顔で謝っている。周平はその女子のことを、同じクラスになる前から知っていた。



 去年の七月、県大会の準決勝で最後にマウンドに立っていたのは周平だった。相手の四番のサヨナラホームラン。一年生ながら登板し、先輩たちの夏を終わらせてしまった責任で周平は試合が終わっても呆然としていた。


 試合後に球場の外で一人座っていると、同じ学校の吹奏楽部らしき女子が二人、目の前を通り過ぎた。何の気なしに二人を見た周平は、目を疑った。

 そのうちの片方が、号泣していたのだ。

「マイ、何で泣いてんのよー」

 泣いていない方の女子にそう聞かれたマイというらしいその女子は、何とか絞り出したというようなか弱い声で、

「だって、悔しくて……」

 今度は耳を疑う番だった。自分の事のように号泣していた彼女は、試合に負けた悔しさに涙していた。仮に試合を見て泣いたとしても、自分に、あるいは自分たちに同情して泣いているのだとばかり思っていた。

 グラウンドではなく、客席で共に戦ってくれていた「マイ」の姿を見た周平は、なぜかは分からないが救われたような気持ちになった。


 その「マイ」と今年初めて同じクラスになり、彼女の名前が吉川茉衣だとわかった。さらに何の因果か同じ係になり、もしかしたらこれを機に仲良くなれるかもしれない、と淡い期待を抱いた。


 ――しかし、部活がそれを許してくれなかった。


 係のせいで練習に遅れてはならないと監督に叱られた。

 内心、人としてそれはどうなんだと思ったが、監督に言われてしまった以上はそれに従うしかなかった。

 後日、吉川に事情を話して謝ると、「全然大丈夫だよ、練習頑張ってね!」と笑顔で言われた。しかし、内心どう思われているかは分からない。罪悪感は募るばかりだった。


***


 諦めた茉衣は生物準備室へ足を運び、器具の整理整頓を始めた。小窓すらない六畳ほどの狭い部屋には、小難しいタイトルの分厚い本や何に使うのかもわからない器具が散乱しており、茉衣は扉を開けた瞬間「汚なっ!」と声を上げた。しかもいくつかの本の山にはホコリが被っていて、窓がないせいかホコリとカビの匂いがこもっている。

「普通こういうのって生徒にやらせちゃだめだと思うんだけどなぁ」

 絶対めんどくさいだけでしょ、と文句を言いつつなんだかんだ真面目に整頓する茉衣。幸い適当な担任にも良識というものはあるらしく、危険な薬物のようなものは置いていないらしい。


 戸棚に貼り付けられたラベルを見ながら片付けていると、ガラガラと突然準備室のドアが開いた。

「うぇっ⁉」

 音に驚いて振り返ると、そこには背が高い坊主頭の男子が立っていた。

「お、よかった。ちゃんといた。ってか汚ねぇな、この部屋」

 茉衣を見て安心したようにニカっと笑う男子は、同じ係の杉崎だった。

 放課後は練習があるから来れないんじゃなかったっけ、と首をひねる。

「今日雨降ってたから個人練習になってさ、監督に言って手伝いに来たんだ」

 頬をかきながら少し照れくさそうに話す杉崎。茉衣はさっきまで文句を言っていたことが申し訳なくて、まともに目を合わせられなかった。相槌も「へー」なんて適当なものしか出てこない。


「で、今何やってんの?」

 杉崎が茉衣の手元を覗き込みながらそう聞いてくる。

「あ、えと、森先生に部屋の片づけを頼まれたから、片付けてるとこ」

「へー、森も適当だからなぁ。ごめんな、これまで手伝えなくて。どれから手を付けたらいい?」

 杉崎は何の気なしに言ったのかもしれないが、その言葉で胸が少しスッとするのを感じた。

「じゃあ棚に貼ってあるラベル通りに片づけてもらっていい?」

 あいよー、と力の抜けた返事をして落ちている器具を拾い始める杉崎。茉衣は黙々と作業するその姿を見て、意外と真面目じゃん、と思った。

 練習を盾にして係をサボるやんちゃな野球部だと思っていた。まだ謝ってくるだけマシか、とすら思っていた。

 それが今日、監督に頼んでまで係の仕事をしに来て、無駄口を叩かずに集中して作業するその姿を見て、胸の内で心から謝ることにした。


「そういやさ、吉川って部活何やってんの?」

 作業も一段落したころ、手元から目を離さないまま杉崎が尋ねてきた。

「え、ああ、吹奏楽やってるよ」

 茉衣がそう言うや否や、杉崎はパッと顔を上げて茉衣のほうを見て声を上げた。

「やっぱり!」

「え、なんでやっぱり?」

 自分が吹奏楽部であるようなヒントはなかったはずだ。どこかで見たことでもあるのかな、と首をひねる。


「俺達が去年の夏の大会で負けた後さ、球場の外で泣いてなかった?」

「えっ」

 なんでそれを、というセリフが喉まで出かかった。里穂以外誰にも知られてないと思っていたのに。瞬時に顔が赤くなっていくのを感じる。

「あの時打たれたの俺なんだけど、試合終わったあとすぐに立ち直れなくてさ、球場の外で座ってたんだよ」

 気恥ずかしそうに語り始める杉崎。目線は手元に注がれているが、作業しようとする手は一切動いていない。


「その時吹奏楽部の子が悔し泣きしてるのを見てさ、なんか、こう――一人じゃなかったんだな、って思ったというか……」

 そこまで言って目線を上げ、遠くを見据えるような顔になる杉崎。しばらくその状態で固まった後、ボッと顔を赤くして、

「いやなんか恥ずかしいこと言ってんな俺! えと、はい! とにかくそんな感じ!」

 一息でそうまくし立てると、そっぽを向いて適当に置いてあった器具をカチャカチャさせ始めた。

「痛ってぇ!」

 ゴン、という鈍い音とともに杉崎が悲鳴を上げる。足に器具を落としたらしい。

「え、大丈夫⁉」

 慌てて近づこうとすると、杉崎は顔を真っ赤にして「大丈夫! 大丈夫だから!」と言って手で茉衣を止める。


 背が高くてガタイのいい杉崎が慌てるその姿を見て、思いがけずかわいいなと思ってしまった。そんな自分にチョロ過ぎかよ、とツッコミを入れる。

 フッと一つ息を吐いた杉崎が伸びをして、腕時計をチラと見た。

「ってヤバッ! そろそろ行かないと流石に怒られる!」

 慌てて立ち上がって扉の方へ向かう杉崎。扉に手をかけたところで振り返って、拝むように手を合わせる。

「ちょっとしか仕事できなくてごめん! また雨だったら来るから!」


 そう言うや否や、杉崎は勢いよく部屋を飛び出していった。

 せわしないなぁ、と開いたままの扉をぼーっと眺める。開け放たれた扉から優しい風が流れてきて、茉衣は小さくくしゃみをした。


***


 晴れの日がどんどん少なくなって、あっという間に梅雨になった。

 朝の天気予報でも、レインコートを着たお天気キャスターが空模様に似合わない明るい笑顔で、傘を忘れないように! と言う日が増えた。


 髪はまとまらないし、気分も晴れないのでいつもなら一番嫌な季節だが、今年は悪いことだらけでもなかった。雨の日だけ、練習前に杉崎が係の仕事に出れるようになったのだ。

 今まではただただ憂鬱なだけだった係の時間だが、杉崎がいるというだけでそんなに悪いものでもないんじゃないかな、という気がするから不思議だ。


 作業に来ると杉崎は必ず練習ギリギリまで真面目に手伝いをして、時間になると慌ただしく練習へ向かう。最初は慌ただしい人だなぁ、と思っていたけれど、時間いっぱい作業をしようという気持ちは伝わってくる。


 今日も担任は「よろしく」とだけ言ってどこかへ行ってしまった。いくら何でもその言い方はないんじゃないかと内心穏やかではなかったが、それでもなんだかんだこうして生物準備室に来ているのも、杉崎のおかげかもしれない。

 外は雨が降っているし、今日も部室に顔を出してから杉崎は来るだろう。嫌味のない笑顔で、少し息を弾ませながら「ごめん、遅れた!」と入ってくるのが恒例になっている。

 意外と真面目で、にかっと笑うと無邪気で可愛らしい。ここ数回の係活動で少しずつ杉崎のことを知っていった。


 やだあたしってば恋する乙女みたい、と自嘲気味にフフッと笑う。それはそれで悪くないかもなぁという考えが頭をよぎって、浮かれすぎだぞ、と自分に釘を刺した。


 生物準備室に入ってから三十分が経とうとしていた。杉崎はまだ来ていない。いつもだったらとっくに来ていつまでも終わる気配のない片づけを始めている所なのに。心がざわつくのを感じた。

 杉崎がいないだけでなぜか部屋の色彩が急にくすんで見える気がする。ただでさえ淀んでいる部屋の空気もいつもより重いような気がするし、いよいよ末期だなと口の端だけで笑う。


 気を取り直して片付けようとしても全く手につかない。変に気持ちがフワフワして、本を一冊棚にしまうだけで五分以上かかっている。

 簡素な椅子の上に積まれていた本をなんとか片付け、その上にどっかりと腰を下ろす。大したことはしていないのに、なんだかどっと疲れが襲ってくるように感じた。

 茉衣は大きくため息をついて俯き、左手の腕時計を見つめた。いつもより針の動きが鈍いような、そんな気がした。


 結局、一時間たっても杉崎は来なかった。作業もほとんど進まず、徒労感だけを抱えて茉衣は家路についた。帰ってからも気分は晴れず、制服も脱がずにベッドに飛び込む。

 なにかあったのかな、とか、もう来ないのかな、とかいろいろな思いが頭の中を流れていく。

 どうせ大した理由で休んだわけではないだろうし、そもそも別に彼氏でも何でもない杉崎のことをこんなに考える義理はないと頭では分かっているのに、想像は止まらない。


 私、杉崎の事好きなのかな……。


 そんなめちゃくちゃな、と浮かんだ疑問をすぐに振り払う。まだ出会ってから時間も経ってないし、それだけで惚れるなんてまるでチョロい女みたいじゃないか。

 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、母が「ご飯よー」と呼びに来るまで布団をかぶっていた。


***


 ここ数日降り続いている雨のせいか、一晩寝ても気分はスッキリしなかった。それでも重い体を奮い立たせて学校に行くと、杉崎はいつも通り元気に登校してきていた。

 それを見て、少しの安心と、じゃあなんで昨日来なかったんだろうという疑念が湧き上がってくる。

 けれど、杉崎に直接聞くのも大げさなような気がして、話しかけるどころかむしろ避けるような態度をとってしまった。

 結局、六時間目の授業が終わるまで理由を聞くことはおろか杉崎に話しかけることすらできず、モヤモヤは募るばかりだった。


 気分が晴れないまま吹奏楽部の練習に行こうと部室棟へ歩いていると、人気のない階段の陰からキャピキャピした女の子の元気な声が聞こえてきた。

「昨日はありがとね~、周平!」

 その声に、茉衣は足を止めた。

 ……周平?

「いやいや、こちらこそいつもありがとね」

 最近よく聞くようになった、柔らかな優しい声。聞き間違えるはずがなかった。


 女子の声が誰のものなのかは分からないが、「昨日はありがとう」というのがどうにも気にかかる。

 いてもたってもいられず、二人に気づかれないように、できるだけ自然に階段の前を横切ることにした。

 いつもより少しゆっくり歩きながら横目で様子を窺うと、階段下の壁を背にしてこちら側を向いている目鼻立ちのくっきりとした明るい髪の女の子と、こちらに背を向けた背の高い坊主頭の男子が楽しげに喋っていた。


 間違いない、杉崎だ。女の子の方は応援部でチアをやっている――確か、名前は倉田ユイカ。野球部の応援で何度か見たことがあって、チアの中でも特に目立つから記憶に残っている。

 階段を通り過ぎ、別に行く必要もない空き教室の前まで歩いて、廊下に座り込んだ。放課後でもめったに人が通らないので、人に見られる心配はない。

 心臓はバクバクと鳴っているが、不思議と頭はクリアだった。


 倉田さんは、明らかに普通の友達には向けないような甘い視線を杉崎に向けていた。杉崎がどうだったかは分からないが、他の女友達よりはよっぽど親密な間柄なんだろう。それは少し横目で見ただけで明らかだった。

「なんで私、こんなに動揺してるんだろう……」

 自分でも不思議なほどに心を揺さぶられている。手足には力が入らない。頭は冴えているはずなのに、思考は全くまとまらない。

 それでも分かるのは、杉崎と倉田さんは恐らく付き合っていて、昨日来なかったのも倉田さんに会っていたからなのだろう、ということだ。


「っ……!」

 分かっていたのに、改めて心の中で復唱すると胸がギュッと強く締め付けられる。泣きたいほど悲しいような気がするけれど、涙は一滴も出てこない。

 本当はそんなに悲しくなんてないのかもな、と廊下の窓の外を眺めて思う。いっそ泣けた方がよっぽど楽だったかもしれない。映画でもドラマでも小説でも、野球の試合でもいつだって簡単に泣いてしまうのに、肝心な時に出てこない涙は自分が出てくるべきタイミングを知らないみたいだ。


 窓の外の雲は昨日よりずっと暗くて、動く気配もない。雨もますます強くなって、二階にいても地面を叩く雨の音がはっきりと聞こえる。

 強く吹いた風が窓を大きく揺らして、茉衣は体をビクッと縮こまらせた。


***


 それから三回連続で、杉崎は来なかった。

 その間に生物準備室の片づけはおおむね終わって、ホームルーム教室で謎の書類整理をさせられるようになった。一人で集中しても時間のかかる作業が多く、なんで仕事がなくならないんだと担任を恨んだのは言うまでもない。


 しかしそのおかげもあってか、もうすっかり心のモヤモヤは気にならなくなっていた。一人で生物準備室の片づけをしている時はどうしても杉崎のことがチラついてしまっていたが、教室で書類の整理をしている時は目の前の作業に集中することで頭の中から杉崎を追い出すことができた。


 今日も教室で生徒が提出した課題のレポートをクラス順やら出席番号順やらに分けさせられている。聞いたときは楽だなと思ったが、十クラス、四百人分のレポートの量を完全に舐めていた。

 机を三つくっつけてやっと乗せることができるほどの紙の山。最初に目の当たりにしたときは思わずめまいがしたほどだった。


 作業を始めてからも担任への苦情は止まらない。

「なんでクラス別で集めたはずなのにクラスがぐちゃぐちゃになってるのかなぁ」

 これ完全に時給発生するレベルでしょ、とため息をつく。

「この量、何時間かかるのよ……」

 ――もう一度大きくため息をついたその時、ガラガラと教室のドアが開いた。



 振り返った茉衣は、目を見開いた。

 息を軽く弾ませた背の高い坊主頭の男子が、軽くはにかんで立っていたのだ。

「こっちだったのか……。ゴメン、遅れました」

 手を合わせて、上目遣いで拝むようにこちらを見つめる杉崎。

 喉の奥で「え、なんで」という声にならない声が鳴った。


 杉崎は、いまだに呆然としている茉衣のもとに歩み寄り、目の前の机を見て「うわぁ」と顔を歪ませた。

「これを整理すんの? 大変だな。こっちからA組?」

 机から顔を上げて聞いてくる杉崎。茉衣は、まだ混乱して目を白黒させていた。


 話しかけてもまともに反応しない茉衣を見て、杉崎は隣の席の椅子を引っ張り出して腰掛けた。

「どした? なんかあった?」

 かけられた優しい声に、心の奥から言葉が零れ落ちた。

「もう来ないのかと思ってた……」

「え、なんで」

 ぽつりとつぶやいた茉衣に、杉崎は心底驚いたような表情を浮かべた後、苦笑いで弁明を始めた。


「あ、えーと、実は俺さ、県の強化選手に選ばれたんだ。それでここ数日そっちに呼ばれてて、こっちに来れなかったんだよね」

 ばつが悪そうに頬をポリポリとかきながら話す杉崎。

「ホントは行く前に言おうとしてたんだけど、なんかタイミング逃しちゃって。ごめん」

 杉崎はそう言うとぺこりと頭を下げた。タイミングを逃したのはここ最近自分が杉崎を避けていたのも原因だろう。


 ――というか、

「え、倉田さんは? チアの倉田さんとなんかしてたんじゃないの?」

 思わぬ言い訳に、聞かずにはいられなかった。

「倉田? なんで倉田が出てくるんだ?」

 杉崎は全く意味が分からないというように怪訝な顔をして首をひねっている。

「いやなんか、階段のところで『昨日はありがとう』って話してるのを偶然見てさ。結構親しげだったというか、なんというか……」

 盗み見した後ろめたさから、どうにも歯切れが悪くなった。杉崎はそれを見てあははと軽く笑って口を開く。

「あれ、見てたのか。県の練習に行く前にチアの荷物を運んであげただけだよ」

 それで勘違いしてたのか、と困ったように眉を下げて微笑む杉崎。


「え、じゃあ付き合ってないの?」

「付き合ってないよ?」

 さも当然、というように断言する杉崎。それは私にとっては当然じゃなかったんだよ、と心の中で呟く。とはいえ、正直ホッとした。

 安心した茉衣はにへら、と自分でも気づかないうちに顔を緩ませて呟いた。

「そっか、よかったぁ」

「え、今なんて」


 ――その時、陽が差した。

「え、雨あがった!」

 驚いて声を上げた茉衣の横で、杉崎も口を大きく開けて目を見開いている。

 雲の切れ間から久方ぶりの光を放つ太陽。ある種の威厳を持ったその姿に、思わず二人とも言葉を失って窓の外を見つめ続けた。


 と、茉衣より一足先にハッと我に返った杉崎が焦ったように声を上げた。

「やべ、練習行かなきゃ」

「え⁉」

 眉根を寄せて叫んだ茉衣を尻目に、杉崎はレポートを軽く束にまとめて、

「ごめん、俺行ってくる!」

「え、ホントに⁉」

 状況が呑み込めないままの茉衣を置いて、杉崎は教室を飛び出していった。

 驚いて立ち上がった茉衣は、その姿を見送ることしかできなかった。呆気に取られてただ立ちすくむ茉衣は、はぁと小さくため息をついて、ぽつりと呟く。

「ずっと雨だったらいいのに……」


 太陽の優しい光に包まれた教室に、カキーンという打球の音が響き渡った。

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