第29話 どの雲も裏は銀色

 チャンドラの許へと向かう道中に、フェレシュテフとフセヴォロドはお互いの近況や、ヴラディスラフの話題に触れていた。


「ヴァージャは今、若君や細君と向き合い、様々な問題を一つずつ解決していっている。ヴァージャは身の回りが落ち着いたら、一度マツヤを訪れたいと言っていた。フェルーシャのことも、ナーザーファリンの墓も家のこともセーヴァはヴァージャに伝えておこう。安心するといい」

「有難う御座います、セーヴァさん。お手数をかけますが、宜しく御願いします」

「うむ。……フェルーシャとチャンドラはマツヤの町を去り、何処いずこへと向かうつもりなのだ?」

「遠方の草原にあるという村を、目指します」


 タウシャン村という所にはチャンドラの兄がいて、その人物を頼ってみようということになったのだとフェレシュテフはフセヴォロドに簡潔に説明する。


「ほう、草原の村にチャンドラの兄御がいて、その兄御もまた、人間の番を得ているのか」


 その人物の許に向かえば全てが丸く収まるという訳ではないけれども、このままマツヤの町に留まり、誰かの目に怯えながら暮らしていくよりはずっと良いのではないかと考えたと告げると、フセヴォロドは顎に手をやり、暫し黙考していた。


「ヴァージャに頼ると良い。ヴァージャは必ずフェルーシャの味方となる。ヴァージャは父親として、娘であるフェルーシャを守るだろう」

「それは……考えもしませんでした。けれど……きっとヴァージャさんには頼りません。あの方が抱えていらっしゃる問題が全て片付いているのであれば、甘えさせて頂こうかと都合の良いことは少しだけ、考えてしまいますけれど……」

「頼りに出来るものに頼りきるのは悪いことばかりではない。だが、フェルーシャがヴァージャの助力を求めないことをセーヴァは理解する。若君と細君のことを考えたのだろう?ヴァージャを頼らないというのであれば、セーヴァを頼ると良い。隠れ住むことを決めるのであれば、セーヴァは住み処を提供しよう。セーヴァの住み処にはヴァージャ以外の人間や亜人は訪れぬ」


 但し、隠れ住むには打ってつけの場所なのだが、難点がある。気軽に買い物に行ける場所ではないので自給自足の生活を強いられる上に、想像を絶するほどの寒い冬が訪れる。蒸し暑いマツヤの気候に慣れているフェレシュテフたちはきっと凍えて動けなくなってしまうだろうと、フセヴォロドは言い、楽しそうに喉で笑った。


「若しもの時には、セーヴァさんに頼らせて頂いても良いですか?」

「うむ、無論だ。セーヴァは家族を守ることに全力を尽くすだろう」

「ふふっ、有難う御座います」


 フセヴォロドは不思議な存在だ。誰かを頼ることが苦手なフェレシュテフでも、いつの間にか彼の調子に乗せられていて、隠そうとしていた心情を吐露して楽にさせてくれる。

 そうやって和やかに話をしているうちに、二人は待ち合わせ場所――チャンドラの家の近くまでやって来ていた。チャンドラは家の外で、積荷を負った馬とロバと共にフェレシュテフの到着を待ってくれていたようだ。

 フェレシュテフにくっついて来たフセヴォロドを目にしてぎょっとしているチャンドラに許に駆け寄り、フェレシュテフは笑顔で彼を見上げた。


「あなた、食堂の旦那さんたちやお母さんに挨拶を済ませてきました」

「ああ、それは良いんだが……何でセーヴァがいるんだ?あんた、スネジノグラードっていう所に帰った筈だろ」

「ヴァージャに頼まれてフェルーシャの様子を窺いに来たのだ。用はもう済んだ。チャンドラに挨拶をしてからスネジノグラードに帰ろうかと思ったのだ」


 怪訝な表情を浮かべているチャンドラの袖をくいっと引いて、フェレシュテフは彼の意識を自分に向けさせる。フセヴォロドには二人の関係を話し、拒否されなかったのだと伝えると、彼はほっとしたようだ。


「うむ。チャンドラがフェルーシャを心から慈しんでいるようで何よりだ。セーヴァに害意がないかと疑ってかかるほどに。セーヴァは安堵した」

「おい、勝手に心を読むな。あんたが誰かをじっと見る時はそいつの心を覗き見てる時だって知ってんだからな」

「その通りだ。セーヴァのこの力にはヴァージャを除き、チャンドラ以外にもヴィクラムやカドゥルーに勘付かれていた」


 他者の心を覗く力のことを知られると、人間、亜人問わずに嫌がられる。その為に力を行使しないように気をつけることは出来ても、呼吸をするように自然とやってしまっていることなので、時折うっかり口を滑らせてしまうのだとフセヴォロドは笑って言った。

 言われてみると、心の中を悟られたと感じた時、フセヴォロドは確かにじっと見つめてきていた。フセヴォロドを手を繋いだ途端にヴラディスラフやキリールが使っていた異国の言葉を理解出来てしまった不思議な出来事も、そのようなことが出来てしまうフセヴォロドには容易いことだったのだろうとフェレシュテフは納得する。


「……じゃあ、そろそろ行くか。日が落ちるまでに距離を稼がねえとな」

「セーヴァも途中までついていこう」


 チャンドラに手招きをされたフェレシュテフは、彼に抱き上げられて、馬に乗せられる。馬に乗った経験が無いフェレシュテフが馬上で狼狽しているうちに、チャンドラは馬の手綱を引いて歩き始めた。フセヴォロドは少し遅れて、馬と繋がれているロバの隣を歩き始める。


「チャンドラさんは馬に乗らないのですか?」

「ああ、俺とフェレシュテフだと歩幅が違うからな。二人で並んで歩くよりは、フェレシュテフが馬に乗ってる方が自分の調子で歩けると思ってさ。それで昨日のうちに馬とロバを市場で調達してきてたんだよ」

「私、馬に乗ったことが無いのですけれど……大丈夫でしょうか?」

「ふぅん。それじゃあ、慣れるまでは毎日尻が痛くて堪らねえことになるな」

「……えっ?」


 安心しろ、虎の亜人ドゥンの里秘伝の痛み止めの軟膏は用意してあるから。と、楽しそうに笑っているチャンドラの背中を、フェレシュテフは馬上で複雑そうな表情をして眺めていた。




 多くの人間や亜人が利用している大きな街道は避けて、地図と方位磁石、そして微かに残っている誰かの轍を頼りにして進んでいく。ゆっくりと進んでいるようだが、チャンドラたちや馬とロバの歩みは思っているよりも早いようで、フェレシュテフが生まれ育ったマツヤの町が徐々に遠くなっていく。


(遠くから見ると、マツヤの町って……こんな風に見えるのね)


 都市とも言える規模のマツヤの町も、この距離から見ると小さく見える。馬上から遠くに見えるマツヤと海を眺めていたフェレシュテフは、人々の手によって拓かれた森の中を行く道に視線を移す。この道のずっと先には標高の高い山々が聳え立ち、その向こう側には別世界のような荒れ野が広がっているのだと、チャンドラが教えてくれた。

 これから森の中に入ろうというところで、フセヴォロドが「此処で別れよう」と声をかけてきたので、一行は歩みを止める。


「此処からスネジノグラードに帰るのか?そういえば何でついて来たんだ、セーヴァは?船に乗って帰るなら、マツヤまで戻らねえと……。二度手間どころじゃねえぞ」

「うむ、セーヴァは空が飛べる。此処からでも問題はない」

「は?」

「さらばだ、フェルーシャ、チャンドラ。再び見えることを楽しみにしているぞ」

「いや、セーヴァ、あんた、おかしなこと言ってねえか?」


 不思議なことを言う奴だと思ってはいたが、ここまでとは思っていなかった。と、顔を引き攣らせているチャンドラを余所にフェレシュテフは馬上から手を振り、「またお会いしましょうね、セーヴァさん」と声をかける。フセヴォロドは二人から離れていき、開けた場所へと向かっていく。

 最後に一度フセヴォロドは振り向いて二人に手を振り、全身から淡い光を放って――鰐のような、トカゲのような、けれども蝙蝠のような翼を持った異形の姿に変わり、そのまま羽ばたいていってしまった。突然の出来事にフェレシュテフたちは面食らい、真っ青な空を飛んでいく黒い影が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。


「……フェレシュテフは、セーヴァがあんなことが出来る奴だって知ってたのか?」

「いいえ、存じ上げませんでした」

「その割には落ち着いてるな、お前……」

「相手の心が読めてしまうセーヴァさんなら、不思議な姿に変わってしまうことも出来て、空も飛んでいけるのではないかと思ったのですけれども……」


 現実を受け入れるのが早いな、俺のフェレシュテフは。と思ったチャンドラは、小首を傾げているフェレシュテフが可愛かったので、フセヴォロドの秘密のことが段々とどうでも良くなってきた。

 チャンドラがふと顔を横に向けると、いつもは見下ろしてばかりのフェレシュテフが馬上にいる為、目線が必然と近くなる。これは新鮮だな、と思いつつ「行くか」と声をかけると、彼女は「はい」と微笑んで答えた。







**********






 ――数年後。

 地平線を見渡せるほどの広大な草原には、陽気な兎の亜人アルミラージたちが暮らしているタウシャン村がある。その村から離れたところにある汽水湖の畔で、楽しく遊んでいる子供たちの姿があった。虎の特徴を持った亜人の子供たちは、少し離れたところで刺繍をしている人間の女性に見守られている。

 艶やかな金茶色の髪を纏めて結い上げている人間の女性――フェレシュテフは徐に空を見上げると、刺繍をしていた手を止めて、はしゃいでいる子供たちに声をかけた。


「あなたたち、そろそろ村に戻りますよ。ネネさんが美味しいおやつを作って待っていてくださるわ」

「「はーいっ!」」

「はぁい」


 勢い良く声を上げたのは、外見では人間でいうところの十歳前後に見える元気な男の子と、七、八歳に見える天真爛漫な女の子の兄妹。二人はチャンドラの兄の子供たちだ。その二人に少し遅れて、おっとりとした返事を寄越してきたのは、濃い灰色の縞の入った白い体毛を持った、五歳くらいに見える愛らしい女の子は――フェレシュテフとチャンドラの間に生まれた子供だ。一番年上の男の子が年下の二人の手を繋いで、フェレシュテフの許まで連れて来てくれる。すると、何かに気がついた白い虎の女の子が声を上げた。


「おとうちゃま!」


 その声に反応して、フェレシュテフたちも其方へと顔を向ける。村の方から歩いてくる大きな人影が此方に気がついて、手を振って来てくれた。待ちきれなくなった白い虎の女の子は男の子の手を離して、自分と同じ特徴を持ったその人物の方へと駆け出していった。


「おかえりなさい、おとうちゃまっ!」


 護衛の仕事を終えて帰って来たらしい白い虎の亜人ドゥンの男性――チャンドラは駆け寄ってきた女の子を抱き上げて、頬擦りをした。


「ただいま、ナージャ」


 チャンドラとフェレシュテフの間に生まれた女の子はフェレシュテフの母親ナーザーファリンと同じ名前をつけられ、ナージャと呼ばれた。


「おかえりなさい、あなた」

「おかえりなさい、チャラ叔父さん」

「おかえりなさい!」

「おう、ただいま。ネネにお前たちが此処にいるって聞いたから、迎えに来たんだ。カルナ、ナナ、スーリヤも帰って来てるぞ。皆で村に戻ろう」


 男の子のカルナと女の子のナナの二人は、父親の帰宅を知ると顔を見合わせて喜び、勢いに任せて走り出していってしまった。


「……カルナとナナのあの無鉄砲さはどう考えてもネネ譲りだな。ネネと三人で碌でもないことをしてねえかって、スーリヤが旅先で心配してたぞ」

「ふふっ、今回は大人しくしていましたよ、カルナさんもナナさんも。……ネネさんも、一応は」


 あっという間に駆けていってしまったカルナとナナを後ろから見守りながら、チャンドラたち親子は村に向かって歩いていく。その道すがらにチャンドラの旅先での出来事や、彼が留守の間の出来事を話していた。


「おとうちゃま。おみやげは?」

「あるぞ。ナージャにもフェルーシャにも買ってきた。土産が何なのかは、家に帰ってからのお楽しみだ」

「良かったわね、ナージャ。お父様に御礼は?」

「ありがとう、おとうちゃま」

「ん」


 ナーザーファリンに御礼を言われて、頬に口付けされたチャンドラの顔がでれでれっと緩む。フェレシュテフが未だチャンドラと結ばれる前に「この人は生まれた子供を目一杯愛してくれそうだ」と直感したことは現実となっていた。娘は勿論のこと、フェレシュテフのことも「誰よりも大切にする」と誓ってくれた通りに、とても大切にしてくれている。

 生まれ育った町を出て、長く険しい旅路の果てにタウシャン村に辿り着き、二人での生活が出来上がっていき、やがては家族が一人増えて、今がある。大変なことは数え切れないほどあったけれど、それは幸せを得る為の糧になったのだと、今のフェレシュテフは思う。


「あーあ、ナナが豪快にこけた。ありゃ思い切り顔を地面にぶつけたな」

「まあ、大変……」


 怪我をしていないかと心配したフェレシュテフが駆け寄ろうとしたが、チャンドラがそれを制す。


「大丈夫だ。ほら、自力で立ち上がって……また走り出したな、ナナの奴。流石はネネの娘だ。無鉄砲仲間のカルナも呆れてるぞ」


 母親のネネによく似ていると思っていたカルナが、この頃は父親のスーリヤに似てきたような気がすると、チャンドラが笑う。


「……ああ、そうだ。ヴァージャさんから手紙が届いてたぞ。フェルーシャたちが出かけた後に届いたらしくて、ネネが預かってくれてた」


 ナーザーファリンを抱き上げている手と反対の手を懐に突っ込んで、しまっていた封筒を取り出し、チャンドラはそれをフェレシュテフに渡す。封筒を受け取ったフェレシュテフは歩きながら封を切り、手紙に目を通していく。一通り目を通したところで、彼女はぽつぽつと内容を話し始めた。


「問題が解決したので、ヴァージャさんはこれから一年のうちの数ヶ月をマツヤで過ごすことになったそうです。これまでセーヴァさんがしてくださっていた家と母のお墓の管理を一緒にしていくと……。それから一度……ナージャの顔を見に、タウシャン村を訪れたいのだそうです」

「ふぅん……そういえば、ヴァージャさんはナージャのお祖父さんになるのか。うちの鬼婆みたいに、孫の顔を見に来たいんだろ」

「おじいちゃま?」

「そうだ。ナージャのお祖父さんが、ナージャに会いたいって」


 空の旅が趣味になったというフセヴォロドとは時折会っていたが、ヴラディスラフとは手紙のやり取りをする程度で、もう何年も会っていない。フェレシュテフと彼女の母親のナーザーファリンを捨てたと後悔しているヴラディスラフに対して、全く蟠りが無い訳ではない。けれども嫌いになった訳でもない。心の整理はもうついているのか。どんな顔をして、”お父さん”と呼んだことのない実の父親と顔を合わせたら良いのか。迷い、戸惑い、表情を曇らせたフェレシュテフの背に、チャンドラの大きな手が触れる。


「ヴァージャさんが来たら、この子が孫のナーザーファリンですって、とりあえず胸張って紹介しておけ。困ったら、俺が助けてやるから」

「……はい。また、勇気の出るお呪いをしてくださいませね」

「ナージャも」

「おう、任せておけ。いくらでもやってやる」


 照れながら笑ってくれるチャンドラを目にして、フェレシュテフはほっと息を吐く。具体的な解決案が出た訳ではないけれども、何となく、心が軽くなったような気がしたのだ。


(ああ、この人と添うことが出来て、本当に良かった……)


 心が幸せで満ち溢れて、目に映る世界が色鮮やかになる。


「あなた、愛しています」

「……お、おう。俺もだ」


 唐突に口を突いて出た言葉に赤面しつつも、チャンドラが茶化すことなく真面目に答えてくれたことが嬉しくて、フェレシュテフは幸せそうに微笑んだ。

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