第18話 言い分(参)

 マツヤの町の外、森の入り口。その辺りに、チャンドラが住んでいる簡素な作りの平屋がある。

 其処に連れて来られたフェレシュテフは流されるままに、チャンドラに世話を焼かれていた。


「水でざっと体と服を洗っとけ」


 水を張った大きな盥と手拭いを簡素な作りの狭い浴室のタイルの上に置いたチャンドラは、着替えに使うようにと言ってフェレシュテフに上着クルタを渡すと、何処かへと行ってしまった。

 兎に角、チャンドラの言うことを聞いておこう。薄暗い浴室の中、フェレシュテフはおずおずと服を脱いで、汚れた体と服を洗う。そうして汚れを落としたサリーなどを絞って水気を切ると、フェレシュテフは手拭いで濡れた体を拭いていった。


(……良い香り)


 チャンドラに渡されていたクルタに袖を通してみると、仄かに白檀の香りがした。香木を好んでいる人物が置き忘れていった白檀の欠片を衣服をしまう櫃に放り込んでいたので香りが移ってしまってたのだと、いつだったかチャンドラが教えてくれたことを思い出す。初めてチャンドラと出会った時にもこの香りを嗅いだと、彼女は思い出した。


(それにしても、やっぱり、物凄く大きいわね……)


 チャンドラとフェレシュテフとでは体の大きさが違いすぎるので、フェレシュテフは当然のようにクルタに着られる形になる。長過ぎる袖を可能な限り折って短くし、水気を切った手拭いを腰に巻いて丈の長さを調整してみた。きっと不恰好になっていることだろうと想像して、フェレシュテフは薄く笑い、頬骨の辺りを手でそっと押さえた。腫れた箇所が引き攣って、少々痛かったのだ。


「……ああ、出て来たのか」


 彼女が浴室にいる間に彼は汚れた足を洗い、着替えていた。浴室から出て来たフェレシュテフを見つけるなり、チャンドラは部屋の端から端にかけてある紐に洗濯した服をかけるようにと、彼女に告げる。とても高い位置にある紐を仰ぎ見て、どのようにして服をかけようかとフェレシュテフが悩んでいると、横から腕が伸びてきて、彼女の手にある洗い終えた服を取り上げた。


「悪い、届かねえか」

「お手数を、かけてしまいまして、すみません」

「……謝るなっつーの。怒ってる訳じゃねえから」


 親切にして――いるとはチャンドラは全く思っていない――くれている相手に洗濯物を干して貰ったことで、フェレシュテフは落ち込む。

 ――こいつ面倒臭いな。と言わんばかりの表情で溜め息を吐いたチャンドラは、平屋の構造上寝室も兼ねている居間の床に座っているようにとフェレシュテフに促す。 更には湯を沸かして紅茶チャイを淹れていたらしく、彼は熱い紅茶を注いだ茶器を彼女に渡してきた。


「有難う、御座います」


 礼を言ってから紅茶を一口飲む。すると渋味と苦味が口の中に広がったので、彼女は思わず顔を顰める。

 ――そうだ、チャンドラは紅茶を淹れるのがあまり上手ではなかった。と、思い出したフェレシュテフは努めて表情を変えないようにする。チャンドラの何気ない好意を無駄にしたくないという強い思いから。

 チャンドラは苦戦しているフェレシュテフに目もくれずに、彼にとっては小さな棚から何やらを取り出すと、彼女の前にどかりと腰を下ろす。フェレシュテフは手にしていた茶器を一旦、床の上に置いた。


「ちっと痛えかもしれねえけど、我慢しろよ」


 彼の手にある小さな蓋のついた容器の中身は、彼の故郷の秘伝の軟膏だった。これを塗ると治りが良いと言うチャンドラは、フェレシュテフの顔を捉えると赤黒くなってきている患部に無遠慮に軟膏を塗ってきた。彼なりに気を遣って塗ってくれているのは分かるのだが、力加減がされていないようにも感じられる。それでも彼の気持ちが有難いので、フェレシュテフはぎゅっと拳を握って、痛みを我慢した。


「ん、これで良し」

「有難う、御座います……」


 寝台に掛けてあった薄手の大きな布をフェレシュテフにかけてやると、チャンドラは薬缶に残っていた紅茶を茶器に注いで飲み――渋い顔をしていた。フェレシュテフも茶器に残っている紅茶を飲んで冷え切った体を温める。

 彼女が紅茶を飲み終わったのを見計らったのか、チャンドラが行動を起こす。彼は手早くフェレシュテフを捕まえると、背後から抱きかかえるようにして寝床に寝転がった。

 自分の身に何が起こっているのかを理解出来ず、フェレフテフは目を点にしたが――直ぐに我を取り戻し、かあっと顔を赤らめる。そして混乱のあまり、フェレシュテフは頓珍漢なことを口走ってしまった。


「あ、あのっ!?私、体が冷えて、おりますので……っ!?」

「あぁ?体が冷えた時は熱い紅茶でも飲んで、こうやってくっついてんのが一番なんだよ。あと俺は眠い。寝転がりてえ」


 びっしょりと濡れた服を着続けていたためだろうか、フェレシュテフの細い体は冷たい。朝目覚めたばかりの蛇の亜人ナーガのように。いや、それ以上に感じられるのかもしれない。

 汚れを頻りに気にしている様子だったので、一先ず浴室に放り込んだものの、それよりも先に温かい飲み物でも与えておけば良かったかもしれないと、チャンドラは今になって思う。フェレシュテフは気付いていないようだが、唇は青くなっているし、寒さで小刻みに震えているのだ。人間の体は、亜人のそれよりもずっと弱い。女性とあれば殊更そうなのだろうという先入観をチャンドラは持っている――唯一の例外は知っているのだが。

 フェレシュテフに風邪をひかれては後々に面倒なことに発展しそうだ。早く温めてやろう。そういえば子供の頃は、雨が降った肌寒い日には兄弟全員でくっついて暖をとっていたものだ。などと考えた末、チャンドラは行動に移した次第だ。


「何だ?嫌なのか?」

「いいえっ、滅相もない……っ!」


 フェレシュテフの慌て具合に、嫌がられているようだと感じたチャンドラが尋ねる。彼女が恐縮しながら否定してきたので、「あっそ」と素っ気無い返事をして、彼はそれ以上は追求しないことにした。


(ああ、どうしましょう……っ)


 背中から伝わってくるチャンドラの体温や息遣いに、不必要なほど動揺しているフェレシュテフの心臓が踊り狂う。男性に背中から抱きこまれることが初めてということはない。こういったことは、娼婦だった頃に客に何度もされたので、慣れているといえば慣れている。けれどもチャンドラがこんなことをしてくるとは思っていなかったし、更には相手がチャンドラだというだけで異常なほどに恥ずかしくて堪らなかった。

 内心であたふたとしているフェレシュテフとは反対に落ち着き払っているチャンドラはというと、目を閉じて静かに寝息を立てていた。それに気がついたフェレシュテフは自分だけが盛り上がっていたことを察し、がっかりとする。


(……温かい)


 こんな風に誰かに抱かれて寝転がるのは、娼婦をしていた頃以来かもしれない。他者の体温を心地良いと感じるのは、更に久しいのではないかとフェレシュテフは回想する。


(あんなにも苦しくてどうしようもなかったのに……今はもう、少し、どうでも良くなってきているようだわ。私、現金ね……)


 自分を包み込んでいるチャンドラの腕に、そっと触れてみる。フェレシュテフの腕よりもずっと太くて逞しくて、濃い灰色の縞が入った白い体毛に覆われた虎の亜人ドゥンの腕。人間の男性とは随分と違う腕の中は、これまでに相手をしてきたどんな客の男性たちの腕の中よりも安心出来て、不思議だった。

 心を寄せている相手に触れられていると、こんなにも心地良くて、心が弾んだりすることを知ってしまった。もっとチャンドラに触れたい。欲が出て来たフェレシュテフは寝ているチャンドラを起こさないようにと気をつけながら動いて、彼と向き合う体勢にする。そして彼女は、彼の分厚い胸板にしがみ付いた。


(チャンドラさんの匂い……ほっとする……)


 獣臭いのは我慢しろ、と、初めて出会った時にチャンドラは彼女に言った。けれどもフェレシュテフはそのように感じたことはない。仄かに香る白檀の移り香のせいなのか、それとも募る思いから盲目になっているからなのか、理由はよく分からないのだが。


(……駄目よ、泣いたら。チャンドラさんを起こしてしまうわ)


 緊張が解けてきたからか、フェレシュテフの目にじわじわと涙が滲んでくる。あっという間に目に涙が溜まって、ぽろぽろと零れ落ちていった。


「……傷が痛むのか?」


 嗚咽を堪えるフェレシュテフの鼓膜を叩いたのは、どこか気遣わしげなチャンドラの声だった。弾かれるように顔を上げると、いつの間にか目を開けていたチャンドラが彼女を覗き込んでいた。

 寝る、と宣言していたチャンドラだが、実は目が冴えている。然し宣言した手前、撤回するのは格好がつかない。ならばと狸寝入りを決め込んでいたのだが――フェレシュテフが急に泣き出した。何かあったのかと思ったチャンドラは寝た振りは止めて、彼女に声をかけていた。


「いいえ、違い、ますっ」

「あのなあ、痛いなら痛いって言えよ。……軟膏塗ってた時も、痛えの我慢してただろ。バレてんだっつーの」


 痩せ我慢に気付かれていないだろうと慢心していたフェレシュテフは、確りと気付かれていたことに、チャンドラに気にかけて貰えていることに衝撃を受ける。


「違い、ます。痛くて、泣いているのでは、ない、のです……っ」


 フェレシュテフは否定するが、真相を話そうとはしない。事情を話すと、チャンドラの気分を悪くさせてしまうのではないかと恐れているからだ。

 するとチャンドラは溜め息を吐いて、目を逸らしながらボソボソと呟いた。


「あー、何だ、聞き流しておいてやるから、洗い浚い吐いてスッキリしておけ。……聞き飽きたら、俺は寝る」


 チャンドラはフェレシュテフの背中を撫でて来た。その手がとても優しく感じられて、再び緊張を解けてきたフェレシュテフは大粒の涙を流した。


「……私、どうしたら、良いのか、分からなくて……っ」


 様々な思いがぐちゃぐちゃに交じり合って、訳が分からなくなっている。それでも言葉にして吐き出そうと、フェレシュテフは口を動かす。顔の筋肉が引き攣るのが気にならなくなるほど必死で、内に抱え込んでいた思いを吐き出していく。

 聞き流すといっておきながら、チャンドラは乱雑になっているフェレシュテフの言葉に耳を傾けていた。


(……こいつはどうしてこうも妙なことに巻き込まれるんだ?)


 フェレシュテフと初めて出会った時、彼女は破落戸ごろつきたちに狼藉を働かれていた。乱暴を働かれた上に身包みを剥がされて、塵のように森の中に捨てられていたこともあった。そして現在はというと、七面倒そうな事情に巻き込まれているようだ。亡くなった母親の知人だと思っていたヴラディスラフが実の父親なのではないかだとか、母親違いの弟だと主張するお坊ちゃまが現れただとか、混乱しても仕方がない状況を聞かされただけで、部外者のチャンドラも頭を抱えたくなるほどだ。

 そういう星回りの下に生まれてきたのだとしたら、不憫だとしか言いようがない、と、チャンドラは思わずフェレシュテフに憐憫の情を抱いてしまう。そんな人生を歩んできても健気なフェレシュテフに敬意を表したいような気もしてきたチャンドラは、提案が一つ浮かんだので話を切り出した。


「あんたは、誰のことを一番信じていたいんだ?」

「……お母さん、です」


 母親のナーザーファリンをずっと信じてきたから、疑いたくなどない。若しもナーザーファリンがフェレシュテフに嘘を吐いていたのだとしても、それにはきっと理由があるのだろうと思いたい。だから今は真実が知りたいのだと、フェレシュテフはきっぱりと告げる。ナーザーファリンの主張、ヴラディスラフの主張、自称異母弟のキリールの主張などを踏まえて、自分の身の振り方を考えて生きたい。ぐちゃぐちゃになっていた気持ちを吐き出してつかえが取れたような気がしているフェレシュテフは、今は少しずつそのように思い始めていると語る。


「でも私、つい、かっとなって若様を引っ叩いてしまいましたし、ヴァージャさんにも八つ当たりとしか言えない酷いことを言って、家を飛び出してきてしまいましたし……」


 先ずは両者に非礼を詫びなければと思いはするのだが、いざ本人たちを目の前にするとなると、冷静でいられるのかどうか自信がない。キリールに再びナーザーファリンのことを悪く言われたりしたら掴みかかってしまいそうだ、ヴラディスラフにも何か言い放ってしまいそうで怖いとフェレシュテフは零した。


「……まあ、一発くらいはお見舞いしても良いだろ。俺だって、よく知りもしねえ奴に親兄弟のことを悪く言われたら腹を立てるだろうし、手も出しちまうかもしれねえ」

「そういうものなのでしょうか?」

「少なくとも、俺はそうだ。気が短いしな。……どうにかしていきたいと思ってんなら、兎に角相手にぶつかっていくのも一つの手だ。賢いやり方とは言えねえかもしれねえけどな」


 その方法で得られるものはあるかもしれない。ヴラディスラフたちと喧嘩別れするかもしれないし、なあなあで済ませて今の生活を続けていくことになるかもしれない。試すも試さないもフェレシュテフの自由だと、チャンドラは助言する。


「はい、頑張ってみます……」


 どんな結果が待ち受けているのかが分からないのが、少々不安だ。然し、何もしないで手を拱いているだけよりは良いのかもしれないと結論付けて、フェレシュテフは指で涙を拭い、ぎこちなく微笑んだ。


「……おい、こっち向け、フェレシュテフ」

「はい?」


 彼女が素直に面を上げて彼と視線を合わせようとすると、チャンドラが彼女の顔を掴んだ。そして、額と額とくっつけてきた。チャンドラの行動に驚いて、フェレシュテフはあからさまに硬直する。

 フェレシュテフの様子を気にしていないチャンドラというと、目を閉じて何事かを念じているようだ。暫くすると納得がいったように「良し」と呟いて、顔を離し――にいっと笑った。


虎の亜人ドゥンの里に伝わる、勇気の出るまじないだ。あんたが挫けないようにって、念じておいたからな。結構利くんだぞ、これ。……ん?」


 無言のままでいるフェレシュテフを不審に思ったチャンドラは彼女の顔を見て――固まった。


「あ、あ、あり、ありが、とう、ござい、ます……っ」

「………………………………おう」


 顔も耳も、首までも真っ赤にしたフェレシュテフが震える声で謝辞を述べる。チャンドラもつられて、顔を赤くした。


「……体、温まったな!俺は寝る!」

「えっ?は、はい……」


 フェレシュテフを抱いていた腕を素早く解くと、羞恥心を覚えたチャンドラがぐるんと転がって彼女に背を向けた。そして、わざとらしい寝息を立て出す。

 チャンドラの腕が離れていってしまったことが寂しいフェレシュテフは小さく息を吐くと、断りもなく、チャンドラの広々とした背中に身を寄せた。その瞬間、彼はびくりと身を強張らせた。


(な、何してんだ、こいつ?くそ、仔犬みたいにくっついてきやがって可愛いじゃねえか!は?可愛い?何でだ!?くそくそっ、こいつが相手だと何でか調子が狂う……っ!)


 そうは思っても、チャンドラは彼女を引き剥がそうとはしないで狸寝入りを続行している。不思議なことに、彼女に触れられるのが嫌ではないのだ。それは何故だと、チャンドラは悶々と考える。


(チャンドラさんも、どきどきしてるの……?)


 彼が自分と同じように鼓動を早くしていることが、何だか嬉しい。フェレシュテフは口元を綻ばせ、より一層体をくっつける。鬱屈としていた気持ちが消えたフェレシュテフは、チャンドラの鼓動に耳を澄ませて、静かに目を閉じる。

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