第17話 言い分(弐)

 雨に打たれているうちに泥塗れになった体は少しばかり綺麗になったが、足元だけはどうしても泥撥ねで汚れていく一方だ。

 盥を引っくり返したかのような雨は、知らぬ間に止んでいた。けれども雨雲が未だ空を埋め尽くしている為に、太陽の光が充分に地上に届かず日中といえども暗い。更には、雨が再び降り出してくる可能性もある。

 そんな空模様と同じように憂鬱な気分で、フェレシュテフは歩く。更には頬骨の辺りがじんじんと痛んで、不快だった。そっと指先で触れてみると一瞬鋭い痛みが走り、フェレシュテフは顔を歪めた。キリールに殴られた其処はぷくっと腫れ上がり、熱を持っている。時間が経つにつれて、其処は青痣へと変化していくのだろうと他人事のように考えながら、彼女は幽霊のように亜人の居住区の中を歩いていると、嫌でも家に辿り着いた。

 冷え切ってしまった手を伸ばして扉を開け、フェレシュテフは玄関の内に体を滑り込ませる。


(……どうしましょう、床が……汚れてしまうわ……)


 足元が泥塗れの濡れ鼠と化した状態では、一歩一歩進むごとに床を汚してしまう。そうしてしまうと家事が大好きな竜人ジラントが落ち込んでしまいそうだと考え、彼女は動くことを躊躇った。


「フェルーシャ、戻ってきたのか?」


 彼女の気配に気がついたのか、フセヴォロドが居間の方から顔を覗かせる。彼の手には箒と塵取りが握られているので、掃除をしている最中だったのだろうと容易に想像出来た。フセヴォロドはゆったりとした足どりでフェレシュテフの許までやって来ると、黒い鱗に覆われた大きな手で、そうっと彼女の左頬に触れてきた。フセヴォロドの低い体温でも充分に温かく感じられるほど、自分の体が冷え切っているのだとフェレシュテフは漸く知る。


「何故、怪我をしているのだ?」


 不可思議なことをやってのけてしまうフセヴォロドのことだ、フェレシュテフの身に何が起こったのか、彼は既に理解出来ているのだろう。態々問うてくる理由が分からない、と、フェレシュテフは彼に問い返そうとしたが――口を開こうとした瞬間に傷ついた場所が痛み、自然と噤んでしまった。再び口を開く気になれず、だんまりを決め込んでしまうフェレシュテフをフセヴォロドは気遣わしげに見下ろし、痛む箇所を避けて、彼女を労わるように頬を撫でている。

 二人が沈黙しているとヴラディスラフが自室から出て来て、異様な空気に包まれている玄関の方へと目を向ける。


「どうかしたのかい、セーヴァ?」

「……ヴァージャ」


 振り向いたフセヴォロドの向こうにフェレシュテフを見つけると、ヴラディスラフはさあっと顔色を変え、強めに杖を突く音を伴いながら二人に近寄ってくる。フセヴォロドはフェレシュテフに触れていた手を離して一歩退き、ヴラディスラフに場所を譲った。


「……一体、何が遭ったのですか?」


 ヴラディスラフが震える手を伸ばす。フェレシュテフはその手を――容赦なく叩き落した。行き場をなくした手を持て余したヴラディスラフが凍りつき、氷のように冷たい目をしたフェレシュテフは少し赤くなった手を擦りながら彼をじっと見つめる。


「貴方の、御子息に、呼びつけ、られ、ました」


 口を動かす度に、頬骨の辺りの筋肉が引き攣るように痛んだ。それでも彼女は言葉を紡いで、淡々とした口調でここに至るまで経緯をヴラディスラフたちに話した。話を進めるにつれて、鳴りを潜めていた衝動が徐々に姿を現し始め、フェレシュテフの説明が徐々に支離滅裂になっていく。


「貴方の御子息は、お母さんが、貴方の愛人だったと、貴方が実の父親だと、主張するけれど、私は、知らないっ。嘗て捨てた女と子供を哀れに思って、送金をしていたと、言うけれど、そんなことは、なかった。私たちは、貧しい生活を、送っていたわ。お母さんが私欲の為にお金を使ったと、言うけれど、お母さんは、自分のことは二の次三の次で、いつだって、私のことを、優先していたわっ」


 実際のフェレシュテフたちの暮らしを見たこともないのに、フェレシュテフの母親ナーザーファリンがどんな人物だったのかを知らないのに、キリールはフェレシュテフたちを一方的に責めてきた。そのことがどうしても腑に落ちなくて、母親を悪く言われたことがどうしても許せないと、フェレシュテフは訴える。

 一気に捲し立てて疲れたフェレシュテフが肩で息をしながら、ヴラディスラフを睨みつける。彼はフェレシュテフから目を逸らすことはせずに、黙って彼女を見つめていた――悲しげな目をして。それが何故だか無性に頭に来て、フェレシュテフはヴラディスラフの胸倉を掴んでしまった。普段の彼女からは想像も出来ない行動に驚いたフセヴォロドが慌てて仲裁に入ろうとしたが、ヴラディスラフは目でそれを制した。

 ヴラディスラフのその余裕が、フェレシュテフの怒りの火に油を注ぐ。


「貴方が、お母さんに何をしたのか、知らない、知ろうとも思わないっ。お母さんに償いたいのは、良いけれど、お母さんの代わりに、私に償われたって、どうしようもないわっ。それでお母さんが、どう思うのかなんて、私には分からないっ。だって、お母さんはもう、この世にはいないのだもの!貴方は、本当に、あの息子と話をして、出て来たの?一方的に話をしたつもりで、マツヤにやって来たのでしょう!?そうでなければ、あの息子が、あんなにもお母さんを、侮辱する、はずがないわっ!」


 フェレシュテフは何も知らないと、キリールは言う。けれどキリールも、フェレシュテフやナーザーファリンのことを詳しくは知らないではないか。それなのにキリールはフェレシュテフを責める。父親を独占するなと、自分たち家族に返せと訴えてくる。

 そんなことを言われても、フェレシュテフにはどうしようもない。どうにかしなければならないのは、ヴラディスラフの方だろう。


「貴方が、相手をしなければならないのは、知人の娘ではなくて、貴方の息子と奥様でしょう!?他人の私なんて、放っておけば、良い……っ!」


 どんな言葉を投げつけても、一言一句逃さず受け止めようとしているヴラディスラフの落ち着きが憎らしい。彼の胸倉を掴んだまま、フェレシュテフは衝動のままに片手を振り上げるが――その手はヴラディスラフを打ち付けずに下ろされた。


「……娼婦から解放して貰えて、嬉しかった。貴方とセーヴァさんとの生活は、戸惑いもあったけれど、楽しくて……家族だと言って貰えて、一人ぼっちじゃなくなったんだって思えて、物凄く嬉しくて……っ。でも、このまま、貴方と家族ごっこを続けていけるほど、私は、図々しくなりたくない……っ!」


 どの口で、そんなことを言うのか。穏やかな生活を逃したくなくて見て見ぬ振りをしていたのは、自分だっただろうに。自分への憤りをぶつけるように、フェレシュテフは力の限り彼を突き飛ばす。それは八つ当たりと言っても過言ではない行動だった。彼女に突き飛ばされ、体勢を崩したヴラディスラフの体が大きく後ろに倒れていくが、控えていたフセヴォロドが素早く動いて彼の体を支えた。


「本当に、心から償いたいと、思っていたのであれば、貴方はあの時、お母さんの知人だと、嘘を吐くべきではなかった。……実の父親なら、そうだと、言えば良かったのよ」


 果たして、それが正解だったのだろうか?それでも結局は、こんな風になっていたのではないだろうか?どうするべきだったのか、そんなことを言っても仕方がないのではと、フェレシュテフは頭の片隅で思ったが――口に出さずにはいられなかった。

流れに任せて深く追求しようとしなかったフェレシュテフにも少なからず原因があるのではないかと、冷静なもう一人のフェレシュテフが責めるように呟く。


「……全くもって、その通りだ。フェルーシャも、キーリャも何も悪くない。私のした行動が、何もかもがいけなかったんだ……」

「……っ」


 溜め息混じりのヴラディスラフの呟きだったが、不思議なほど、フェレシュテフの耳に鮮明に入ってきた。視線を上げた先で、ヴラディスラフが伏目がちに自らを嘲笑している。その笑みを見ていられなくなったフェレシュテフは踵を返し、家から飛び出していってしまう。フセヴォロドの呼び止める声を無視して、当てもなく雨上がりの町を駆けていった。


「私は一体、何がしたかったのだろうね。何をしに……キーリャを見捨てるような真似までして、マツヤの町に戻って来たのだろうね……」

「……ヴァージャ」


 フェレシュテフを追いかけたくても、ヴラディスラフの足では走ることが出来ない。彼は諦めたような顔で、乱暴に開け放たれた扉を眺めることしか出来ないでいた。


「セーヴァ、君が言った通りだ。フェルーシャに、正直に話しておけば良かったんだ。……暫く、独りにしてくれ。独りで、考えたい……」

「……承知した。それではセーヴァは……もう一人を憂慮しよう」

「ああ、そうしてくれ」


 フセヴォロドは手にしていた箒と塵取りを片付け、静かに家から出て行った。フセヴォロドの背中を見送ったヴラディスラフは震える手で杖を突きながら、覚束ない足取りで自室に戻る。独りきりになった彼の目は潤みきっていて、瞬きをする度に涙が頬を伝って床の上へと落ちていっていた。





 勢いに任せて走っていたフェレシュテフは足を滑らせて、思いきり転ぶ。多少は綺麗になっていた体が、またしても全身が泥塗れになってしまった。彼女は顔についた泥を手で乱暴に拭いながら立ち上がり、今度はのろのろと歩き出した。


(出て行ったところで、私には他に行く所なんて、ないじゃないの。馬鹿よね……)


 地面の窪みに出来た水溜りを除けようともせずに歩くので、足元は泥で汚れていくばかりだがフェレシュテフは気にしていない。もう既に泥塗れになっているのだ、更に汚れようが関係ないと思っているようだ。


(あの人がスネジノグラードに戻っていくとしたら……私は、どうなるのかしら?)


 共に連れて行かれることは、まずないだろう。何せフェレシュテフはヴラディスラフの息子キリールに毛嫌いされているのだから。無一文か、或いはある程度の財産を持たせた上で追い出されるのが良いとこだろうと想像するのは容易い。


(そうなったら……お母さんの故郷に行ってみる?お母さんのお墓をそのままにしていくのは、気が引けるけれど……ああ、そうだわ、私、お母さんの故郷が砂漠の国だということしか知らないわ……)


 生まれてからこの方一度もマツヤの町から出たことがないフェレシュテフに、長い旅路が耐えられるのか。きっとナーザーファリンの故郷を探し当てる前に野垂れ死んでしまうだろう。運良く見つけることが出来たとしても――どうしたら良いのだろう?駆け落ちをしたナーザーファリンの娘ですと名乗ったとして、どうなるのだろう?きっと、ナーザーファリンの親族を困惑させてしまうだけだ。


(……大丈夫よ、きっと、何とかなるわ。今までだって、どうにかしてこられたのだもの。でも……先ずは何をしたら良いのかしら……?)


 物思いに耽るあまり、フェレシュテフは前を見ていなかった。いきなり現れた影に驚いて顔を上げた瞬間、彼女は硬い何かに正面からぶつかっていた。


「……っ!?」


 体が大きくぐらつき後ろに倒れそうになるが、寸でのところで腕を掴まれて難を逃れた。


(ふわふわ……?ぷにぷに……?)


フェレシュテフは自分の腕を掴む、不思議な感触の手に目をやる。大きな手は、白い虎の手だった。


「おい。何で泥塗れになってんだ、フェレシュテフ?然も怪我までしてるしよ……」


 頭上から降ってきたのは、怪訝そうな男性の声。フェレシュテフが弾かれたように顔を上げると、胡乱気に細められた青い目とぶつかった。


「チャンドラ、さん……」


 どうしてこんな所で、鉢合わせするのか。チャンドラとは妙な時に妙なところで出会う縁でもあるのかと、彼女はぼんやりと考える。

 チャンドラもまた、彼女と同じことを考えていた。世話になっている鰐の亜人マカラヴィクラムに招かれた食事会の帰りに、ふらふらと歩いているフェレシュテフを見つけた。放っておいても良かったのだが、何となく気になったのでついうっかり通せんぼをして声をかけてしまったものの、特に何か案があるわけではなかった。


「あ……」


 チャンドラの問いに応えることなくフェレシュテフは上げていた顔を下げて、瞠目した。ぶつかった際に、彼の服に泥汚れをつけてしまっていたのだ。


「お召し物を、汚してしまって、御免なさい、ごめんな、さい……っ」


 俄かに錯乱状態に陥ったフェレシュテフがあたふたする。チャンドラは「やれやれ」と言いたげな溜め息を一つ吐くと、彼女を落ち着かせようとして彼女の肩を軽く――チャンドラにとっては――、ぽんぽんと叩いた。


「気にすんな。こんなの、洗えば良いだけだ。それより……いつまでもそんな格好でいると風邪引くだろうが。んなことになったら、ヴァージャさんとセーヴァが心配するのは目に見えてんだろうが。……ほら、さっさと家に帰れって」


 帰宅を促されたフェレシュテフは顔色を悪くし、黙りこくる。その様子からチャンドラは何となく勘付いた。野生の勘、というやつか。


「……家に帰りたくねえのか?」


 その問いに言葉で答えはしなかったが、彼女は露骨な反応を見せる。チャンドラはそれを是であると判断した。


(正直に言って、面倒臭そうなことに首を突っ込まない方が良いと思うんだがな……まあ……菓子の恩があるしな……いや、上手くいけばまた菓子が食える……)


 何となく、フェレシュテフが放っておけない。その気持ちは其処から生じてくるのだろうということにして、チャンドラは再び溜め息を吐く。そして断りもなく片腕でフェレシュテフを抱き上げると、町の外にある自宅へに向かって歩き始めた。


「……え?えっ!?あの、どちらに、向かわれるのですか、チャンドラさん?」

「あ?俺ん家。あんた、家に帰りたくねえんだろ?仕方がねえから匿ってやる……仕事中にセーヴァにメソメソされると鬱陶しいからな……」


 あの図体で、あの顔でフセヴォロドは女々しいところがある。それが時々面倒臭いと感じると、チャンドラがごちる。


「放っておいて、くださいっ。おろして、くださいっ。お召し物が、汚れて、しまいます……っ」

「あぁん?もう汚れてんだ、余計に汚れようが気にしねえよ」

「っ、申し訳、ありません……っ」


 混乱したフェレシュテフがじたばたと暴れるので、チャンドラは一旦足を止める。間近にある緑色の目をじっと見つめて、ぼそりと呟く。そんなことは初めてで、フェレシュテフは驚きのあまり身を強張らせる。チャンドラはそれを怯えととったらしく、すっと視線を逸らした。


「……もういいから、黙ってしがみついてろ」

「……はぃ」


 チャンドラのぶっきらぼうな物言いを耳にした瞬間に、彼に逆らってはいけない、彼を怒らせてはいけない、そんなような気がした。観念したフェレシュテフは躊躇いがちに手を動かして、確りとチャンドラにしがみつく。

 彼女が大人しくなったのを確認したチャンドラは徐に振り返り、或る一点の”闇”に目を向ける。


(……ったく、ちっとばかし過保護じゃねえか?フェレシュテフもフェレシュテフで頭が固くて融通が利かねえみてえだから、あの二人がああするのも分かるような………………いや、分かんねーわ)


 それなのにフェレシュテフに構ってしまう自分が、一番分からない。小さく息を吐くと、チャンドラは声を出さずに口だけを動かして、気配ある”闇”に何事かを語りかけた。フェレシュテフはそのことに気が付いていない。彼にしがみつくことに意識を集中させているからだろう。

 チャンドラが向き直って歩き出すと止んでいた雨が降り出し始め、あっという間に二人の体を濡らしていった。

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