1-2
5限に遅刻したことについては、担当教諭にひとことふたこと忠言をいただくのみで、こっぴどく叱られるということは無かったが、クラスメート達には素行不良ものだという印象を抱かせたかもしれない。刺さるような目線が痛い。だがそんな居心地の悪さに慣れている俺である。すまし顔で席についた。慣れているというのも悲しい話ではあるが。
それで放課後である。
HRが終わり、生徒達は部活動なり、帰路につくなり、それぞれ違った放課後の過ごし方をするのだろう。俺はというと、謎めいているのかいないのか、どうもはっきりしない「相撲チェスクリケットバトル」によってアメリカンフットボール部と放送枠を争うらしい。あらすじにしてみると意味不明だ。
俺は嬉し涙を浮かべながら荷支度をして、万感の思いで校舎の裏口を目指した。
廊下のスピーカーからはラーメン部が昨年、ビックサイトの即売会で販売した『さいたまラーメンマップ』なるムック本を宣伝している。なかなか実用的で欲しくないこともないが、よくよく考えてみると『ラーメンウォーカー』だなそれ。寄り道して大宮のジャンク堂にでも向かおう。
「早かったな」
非常階段の緑い光が薄暗い廊下とラジオ部の部員達、黒川、嬉野、赤井の三人を照らしていた。ジーッと漏電の音がする以外は、驚くほど静寂に包まれている。
「ふう、それじゃあ行きましょうか」
俺は裏口から外へと出ようとする。
「九条、『アレ』が行われるのは格技場だ。正面玄関から出た方が早いぞ」
「こいつ逃げるつもりでしたよ。私の言った通りだったでしょ」
「まあまあ、こうして集まれたんだから良しとしようよ。どうせ逃げられても、小一時間あれば捕まえられるんだし」
はっはーん。こいつらヤバいな。ここは大人しく捕まっておこう。踵を返すと三人とも俺の後ろに、付き従うように歩き出す。俺がリーダーみたいだからやめてくれ。
「俺は決して、決してですけれど、あんたらの仲間に入りたいなんてことはないですから」
「そうなのか。てっきり俺は腹を決めて残りの高校生活を謳歌する気になったのかと思ったんだがなぁ」
「ラジオ部なんてものへの入部が学校生活に活力をもたらすといった虚偽の言説は控えてくださいね」
「それじゃあどうして入部してくれたの?」
「それはそこの悪魔にでも聞いてください」
「女が土俵入りすんのってすげぇセンセーショナルですよね。デーモン閣下に夕方のワイドショーで語られちゃったらどうします?どすこいどすこい」
「話を逸らすな」
つい聞き流したが、よりによってアメフト部に相撲で挑むのかこの女。赤井は腰の入った摺り足の突っ張りで俺の背中を殴打している。
「ついたぞ、ここが決戦の地だ」
一同は特に言及する点もない、普通の格技場へと降り立った。両開きの扉を引こうとすると中途半端に開いた隙間から、場内の熱気が漏れ出してきた。俺はそっと扉を閉じる。
「先輩方からお先にどうぞ」
2人に先陣を譲る。
「いやいや、どうぞどうぞ九条君」
「そうだな。ここは期待の新人、スーパールーキーの出番だぞ」
お互いに肩を押し合って、扉からどんどんと遠ざかっていく。それを尻目に、赤井は格技場の扉を両手で勢いよく開いた。
「たのもー!!」
道場破りかよ。
「どうれー!!」
成立してしまった。どうやら返してきたのは坂東先輩のようだ。なんとも微笑ましいやり取りをした両者は自然とお互いに歩み寄り、鍔迫り合いのような間合いでガンをつけ合う。
「随分と早いんですねぇ。もしかして会場に変な小細工とかしてないですよねぇ」
赤井はニシキヘビのように体をくねらせながら、コブラのような毒を吐いた。いや、気取った言い回しだったかもしれない。我ながらちょっと恥ずかしい。
「…。」
「あれぇ、後輩たちみんな連れてきちゃって。そんなに不安で仕方ないんですかぁ?」
すかさず追撃をかける。
「…。」
「今更後悔しても」
「ストップだ赤井。ストップ。これ以上続けてもこちらが情けなくなるだけだ」
俺は赤井の腕を取り、引き下がらせようとする。その間も先輩は微動だにしない。流石は三年生といったところか。赤井の腹立たしい挑発に乗ってくる気配がない。
「あとちょっとだったのに」
赤井が負け惜しみのように呟いた。それを聞いた坂東の後輩たちは鼻で笑うか、馬鹿馬鹿しくて白けたようなため息をする。
そんな様子を見かねてか、黒川先輩が腕につけたアップルウォッチを見ながら俺たち2人の前に出る。
「ラジオ部の黒川だが、予定どおりならそろそろ『アレ』を始めさせてもらいたい。校内放送の枠は今から1時間後だからな」
確かにそうだ。忘れていたが、この勝負は校内放送の枠を取り合って起こったのだ。まぁそもそもなぜ枠の取り合いになんてなったのか深堀りされると、おそらくは赤井の悪行が顕になるのだが。
「待ってくれ」
そこに割って入ってきたのは、スーツと呼ばれていた、青山。いや、春山だったか。とにかくスーツの人。スーツの人というと非合法な匂いがするが、見た目はイガグリ高校生である。
そのスーツくんが何やら言いたいことがあるようだ。仕方ないから聞いてやりましょうか。
「この勝負、公平を期すために第三者の審判を依頼しています。正直な話、あんたらのことはこれっぽっちも信用していません。ですから」
「だから私の出番ってわけ!」
どーんというか、どっかーんと現れたのは長身の女生徒。それも制服ではなく、自前なのだろうか、紺色のフォーマルなスーツを着ている。
また新キャラかよ。そろそろ名前も覚えきれなくなってきたんだが。キャラが濃そうだしいけるか?
「この勝負、審判部の森垣内ネモが取り仕切らせていただきます!」
これはいけそうである。
「もしかしなくても、有名人か?」
そも審判部とはなんだ?という至極当たり前(伊音学園高校を除く)の疑問を耳打ちで赤井に尋ねる。
「いや、知らないけど。先輩たちは知ってる?」
赤井はさして興味を持てていないようで、腰の後ろで手を合わせて肩甲骨をストレッチしている。俺は嬉野先輩に耳打ちする。
「うーん、僕も存じ上げないなぁ。2年生じゃないの?クロちゃんは知ってる?」
「森垣内か…。知らん」
「みなさんご存知の」でないと許されないような登場だったのだが…。あと嬉野先輩は黒川先輩のことをクロちゃんと呼ぶらしい。ほんのりと面白い。俺は含み笑いを噛み殺して、気になっていた疑問をスーツくんに投げかける。
「その森垣内さん?は俺たちにとってもフェアな人物なのか?」
「失礼な!?私のジャッジを疑っているの?こう見えても私、ありとあらゆる競技の審判ライセンスを所有しておりまして」
「ってことだ」
スーツくんはというと彼女を連れてきた張本人というのに、なぜか苦い顔をしている。
「慣例ならば生徒会の奴らに審判をやってもらうはずなんだけど。坂東、なんかあったのか?」
坂東先輩。そういえば赤井とガンつけあった後からやけに静かだ。彼はその場で仁王の彫像のように、立ち尽くしたまま動かないでいる。もはやその姿は、神々しさすら感じる。
そうして硬直したまま、ゆっくりとうつ伏せに倒れた。
「やばい!坂東さんが息してねぇ!」
「赤井のディスがかなり効いてたんだな」
「リンちゃんを呼んできてくれ!」
先程まで鷹揚と構えていたアメフト部員達は蜂の巣を突いたように格技場を走り回る。すっかりパニック状態だった。
「わたくし森垣内、ライセンスだけでなく救命技能の講習も修了しております」
「回復体位をとらせるぞ。膝を持て、せーの」
「脈はある、なんだ息もしてるじゃないか。とりあえずリンちゃんを早く呼んでこい」
「気付け薬あるよ」
「今時珍しいな」
「よし、嗅がせろ」
「わたくし森垣内、ライセンスだけでなく救命技能の講習も修了しております!」
しばらくすると小柄なマネージャーらしき女子生徒がキャスターのついた台車を引き摺りながらやってくる。部員たちは10人がかりで、手際よく坂東先輩を載せて搬出していった。アメフト部員は引っ越し業者でアルバイトでもしているのだろうか。
それにしても、その一連のゴタゴタで気がついたがこの格技場は随分と広い。近隣の建物の陰に隠れて外からでは分からないが、バスケットボールのコートが4面つくれるほどの広さだった。少なくともここに集まった十数人で使うには勿体無いほどの設備である。加えて俺たちがやるのは相撲とチェスとクリケットである。普段ここを使っているであろう柔道、剣道、諸々の部員の奴らがこんなことのために練習が休みになったのだとしたら可哀想でしかたがない。
そんなことを考えていると、視線の端にジャージに着替え、制服を脇に抱えた赤井が見えた。
「お前、この騒ぎの中で何してたんだよ。あれ、いつの間に着替えたんだ?」
「あそこの陰でな」
そういって赤井は立て掛けられた器械体操用のマットを指差す。
「あそこでか?」
確かに視線は遮られるが、よくそんなところで、しかも周りは男しかいないというのに。呆れた顔をしていると、赤井はそのマットに近づいていく。
マットの右側から陰に入ると、数秒も経たずに左から制服姿で出てくる。しばらくこちらに向けてファッションモデルのようにポーズをとる。今度は左から入り、右側からジャージ姿で登場する。その様はさながらマジシャンのようだ。
「どうなってんだ…」
「ちなみに衣装はジャージだけじゃないぞ」
「へぇ、他にもレパートリーがあるのか?」
「そうだな。試しに、おまえが頭の中で想像した衣装で出てきてやろう」
それは流石に無理だろ。
だが赤井はそう言い残して、また陰に隠れた。俺は試しに頭の中で真っ赤な総レースの際どい下着姿を想像してみる。すると赤井はジャージ姿のまま、入った側から出てきてこちらに近づいてくる。
「私は『衣装』って言ったんだけど?」
なんで分かるんだよ。
「そ、それにしても、早く始めないと間に合わないのにな。放送のタイムスケジュールはずらせないし」
幸運にも先輩方は俺の苦し紛れの意見に賛同し、嬉野先輩が混乱した場を静める拍手をする。屋内だからか、耳を貫くような甲高い音が鳴った。
「はいはい。みんな落ち着いて。時間がないからさっさと始めよう」
「そうですね。まずはメンバーの選出を」
ラジオ部の面々は、坂東先輩が席を外したのをいいことに、それぞれのマッチアップを決めたがっている。
当然、俺もあれの相手をするつもりはない。あの人がどの競技に参加するつもりだったか分からない以上、チェスといえども安心はできない。机を挟んだところで、あの威圧感を受けながら論理的な思考ができる気がしない。
「コホン。ではまず、それぞれ種目ごとに出場者は挙手していただきます。えー、種目は先鋒の相撲、次鋒のチェス、大将のクリケットとなっています。両方とも意義はありませんね」
審判部の審判、森垣内がここぞとばかりに場を取り仕切る。
「意義なし」
「意義ないよ」
先輩達は高らかに表明する。
アメフト部も坂東先輩の搬出によって、混乱が小康状態となり、一応のまとまりを取り戻している。
「こちらも意義なし!」
どうやらあの中でのリーダーは青山もといスーツくんのようだ。こころなしか表情は精悍で、恐怖の対象である先輩がいなくなったことで普段の振る舞いができるようになったようにも思える。 分かるわぁ、上下関係の厳しい体育会系は先輩いないときが一番のびのびできるんだよな。
「それでは両団体の先鋒、出てきてください」
森垣内が溌剌とした声で呼びかける。
「うぃー」
「うす」
それに応えるのは、ラジオ部より赤井、アメフト部よりモンブランと呼ばれていたツーブロックの男。それぞれ両陣営から一歩前に出る。
「それでは両者、土俵入り」
森垣内の合図で2人は格技場に敷き詰められたパステルカラーの畳をひっくり返し始めた。
「なにやってるんですか、あれは」
「まぁみてて」
嬉野先輩の相槌に従いしばらく様子を見る。すると、ひっくり返した畳の裏には白いテープが貼られていて、きれいな半円になっていた。
「あれが土俵の代わりね。体育のシラバスを読めばわかるけど、1年次に相撲の授業で使うんだよ。九条くんは2年からの編入だから知らないだろうけど」
なるほど。
「でも、あれだと土俵際の攻防は出来そうにもないですね」
通常ならば土俵際は縄で盛り上がっているはずだ。それによって簡単に押し出されずに、押し合いが膠着した土俵際で様々な駆け引きが行われる。
昔、地元のちびっこ相撲大会で準優勝した俺が言うのだから間違いない。
即席の土俵を挟んで向こう側ではツーブロモンブラン男がTシャツを脱いで、短パン一丁になった上にまわしを付けている。ツーブロモンブラン短パンまわし小僧は土俵脇に並んだ部員たち一人一人ととハンドシェイクしながら仕切り線へと向かって行く。
流石アメフト部。ノリもアメリカナイズされている。アメリカ行ったことないけど多分あんな感じなのだろう。
それよりも。赤井とアメフト部の部員とではあまりに体格差がありすぎる。三番勝負で初戦を落とせば、次鋒で早々に決着がつくこともありえる。そんな中で昨日覚えてきたばかりのチェスを打つとなると。
「赤井に勝ち目はありそうですか?」
「どうだろうねぇ」
「ま、落ち着いて待っていればいいさ」
勝算があるのだろうか、2人とも心配なんて微塵も感じさせない頼もしい表情をしている。
赤井。信じていいのか?
俺の視線を感じたのか、すでに仕切り線の手前で肩甲骨をほぐしていた彼女と目が合う。
「確かにまわしをつけるとヒップのラインが強調されて逆にエロいよな」
「存在しない意見に同意するな」
あとお前のその角ばったボディーラインを強調してもたかが知れてるぞ。とは言わないでおいた。あとが怖いからね。
「怪我とかはすんなよ。周りの奴らが困るからな。特に俺とか」
「外野は黙って拍手喝采の準備だけしてな」
その自信に満ち溢れた立ち姿から不思議と期待を抱かされる。あと一言二言、軽口でも叩こうと思っていたが、「おう」というよく分からない返事が漏れ出てしまった。彼女はそれを聞いて満足したのか、対戦相手の方へ向き直り、ゆっくりと四股を踏んだ。その後ろ姿はなかなかに渋みと哀愁が漂い、ベテラン力士のそれと酷似している気さえしてくる。
等間隔に並んだ高い窓から西日が差し込んで、橙色に染まった格技場は、穏やかさのかけらもなく、汗と鉄の匂いに包まれる。まさに今、身体は闘争を求め始めていた。
「それでは両者とも構えてください!」
森垣内がどこからともなく取り出した行司の軍配を二人の間にかざす。立会うとより一層に赤井の体格が、二回りも劣っていることが目に見えて分かる。しかし、ベランダであいつが見せた手前に引き倒すテクニック、そしてこの威圧感。この勝負、何かが起きる。
ツーブロモンブラン短パン小僧は明らかに舐め腐ったような半笑いの顔で、腰も落とさずに軽く屈伸した構えをする。それに対して、赤井は深く体を落として、仕切り線の上に手を置き、今にも飛び出しそうな前傾姿勢をとっている。
確かに相手は屈強なアメフト選手。ラインマンかどうかは分からないが、太ももやふくらはぎにはしっかりと筋肉の盛り上がりが見える。
しかし、しかしだ。赤井の理想的な構えから生まれる瞬間的な力の爆発が、半ば脱力した体勢で待つやつの力を凌駕したならば。いや、それだけではなく、赤井の背の低さ、それを利用した強烈な突き上げによって相手のバランスを崩せれば、小技勝負に引き込むこともできるやもしれん。
「はっけよーい」
森垣内の声が土俵上から室内に響き渡る。赤井の体はその声に合わせてゆっくりと、より深く沈み込む。
嵐の前の静かさ。
「のこった!」
瞬間。縮み切った赤井の体はバネのように前方へと飛び出した。だけではない。右腕を棒のように突き出して、相手の胸部を押し上げる。
これは!
赤井は蓄えた力の全てを解き放ち突っ張った。シンプルな力押し。この体格差で横綱相撲を取るとはあっぱれであった。
決まり手は押し出し。赤井の負けである。
ここまで長々と解説しておいて申し訳ない。試合は冗長どころか、父親が子供をあやすようなもので見ていられなかったため割愛する。皆さんのご想像にお任せしたい。
「あの、先輩たちはなんでそんなに自信ありげな表情だったんですか?」
「はあ?結果がわかってるんだから、別に不安そうにしてても意味がないだろ」
そうですね。
これで一敗。
「うぅ。オエッ」
戻ってきたら赤井は生まれたての子鹿のように膝を痙攣させて、壁にもたれかかり、嘔吐しかけていた。相手に生殺しされながらも、最後まで戦い抜いた点だけは尊敬に値するような気がしないでもない。
「ナイスファイト」
拍手喝采ではないが、諦めなかった君に、これからの人生に、エールを。
「シッ」
後ろ蹴りが飛び出したが、悲しいかな、空を切って、それで力尽きたのか赤井は格技場の床に倒れた。
「一戦目が無駄に長引いたのでさっさと次鋒戦を始めますよ」
そうだった。こんなことしている場合ではない。次は俺の番だ。
「次鋒戦はチェス。ラピッド、制限時間10分の一回勝負です。それでは選手は前へ」
アメフト部からはスーツの春山が、こちらからは嬉野先輩が一歩進み出た。
「うえっ?先輩がやるんですか?」
「あれ?赤井さんに言われなかったの?九条くんにはクリケットを任せたつもりだったんだけど」
俺は床で伸びている赤井の方へ歩み寄り、便所座りで話しかける。
「お前、競技を決めとけとか言ってたよな」
「ああ、選択するのは自由だぞ。ただし思い通りにいかないのが世の常なんだなぁ」
「お前に語られたくないだろうな。世の中も」
最悪だ。俺はやりもしないチェスのルールを徹夜で覚えてきたのか。ちょっとやる気を出した分、悔しさが相応に生まれてしまった。
「というかクリケット選ぶと思ったし」
「なんでだよ」
「いや、だって」
その時、格技場の扉が開き、ついに彼が地獄から帰ってきた。
「公式戦も近いんですから無理はしないでくださいね」
「うむ」
女子生徒に連れ添われながら入ってきたのは、先ほど赤井の精神攻撃によってブラックアウトしたはずの坂東先輩だ。
「春山、うぬには荷が重かろう。我に任せて下がれ」
「でも」
「相手はあの嬉野だ。力量差が分からない訳ではないだろう」
なんか凄そうだな。
「嬉野先輩ってチェス強いのか?」
「チェスというか、一対一で誰かに負けるとこ見たことない」
「そんなにか」
確かに言われてみれば、彼はいつも物腰が柔らかで、そこに強者の余裕を感じさせる。
「いや、待てよ。ついさっきこの感じで無駄な期待をだな」
返事がない。体力の限界がきたのか、それきり赤井は黙り込んでしまった。単に無視しているだけかもしれない。いや、その可能性の方が高い。
「白黒えらんでもらって構わないよ」
「ぬっ、ならば先手を」
「それでは席についてください」
アメフト部員たちによって手際よく土俵は片付けられ、今度は背の高い机とパイプ椅子が二脚並べられていた。嬉野、坂東の両者が席につくと、森垣内によって机の上に二つ折りのチェス盤とタイマーが置かれる。どこに持っていたのかは謎だが、年季の入ったチェス盤で、美しい装飾の光沢が鈍く光る。2人は手際良く駒を並べていく。駒がチェス盤に触れるとかちかちと小気味よい音が鳴り、周りの者たちも自然と口をつぐんでそれを見守る。
「雰囲気ありますね」
「だいたいいつもこんな感じだよ」
先ほどから手持ち無沙汰なのかスマホを眺めながら、黒川先輩はつまらなそうに答える。信頼しているのか、勝敗に興味がないのか、この人の思考は捉えづらい。
「九条はクリケットのルールでも確認しておけばいいさ」
先輩が負ければ、またしても覚え損な気もするが、そこまでいうなら信じて備えることにする。
クリケットルール、スペース、NAVERまとめっと。あれ、おかしいな。検索の条件を…。
ボウラーはウィケットにめがけてボールを投げ、ストライカーはバットでそれを打ち返す。バウンダリーを超えるゴロは4点で、ノーバンだと6点。
ウィケットは3本のスタンプと2本のベイルからなる。だめだ。知らない用語が知らない用語で説明され始めた。
エヴァを見始めた後で、裏設定や考察が気になってしまい、軽い気持ちで謎の個人運営のwebサイトを開いたあの時のような後悔を感じる。しかしながら、ここまできたら後戻りはできない。どうにかこの槍でやり直せないかなカオルくん。ついでにこのウィケットとかいう棒もつけるから…。
中央の人だかりからは何度か野太い歓声が響いてきている。その輪の外、それに意を介さない男が一人。黒川先輩は相も変わらずに、スマホの画面と睨めっこしている。
「チェス対決はどんな感じですか?」
「今のところは互角、か?」
黒川先輩は気だるげに、右耳にはめていたワイヤレスのイヤホンを外しながら答える。
「なんで疑問系なんですか」
「そんなこと言っても、やってる本人たちならまだしも、外野で見てる俺らじゃ分からん」
「あの見間違いじゃないなら嬉野先輩のクイーンがすでに死んでません?」
「フレディなら20年前から死んだままだぞ」
「そっちのクイーンじゃ、あ、もしかしてボヘミアンラプソディ観てません?おい」
「いや、トゥームレイダー2だ」
「なぜそんな微妙なところを」
「これ微妙なのか?不朽の名作じゃないのか?」
「どこからの情報ですかそれ…」
チェスの起源は古代インドまで遡ると言われている。遡らなければ、それは雑学をひけらかす世界史のハゲに責任がある。少々描写に齟齬が生じたときても私は悪くない。私にチェスの解説をさせて映画を観てるバカ二人が悪い。
どうもみんなのアイドル、赤井林檎ちゃんです。
序盤は互角のように見えていました。しかし、駒が行ったり来たりしている間に、嬉野先輩のクイーンが取られてしまいました。よくわかりませんがこれはまずいのではないかと私は思います。
「うぬにしては珍しい」
「まだ負けた訳じゃないさ」
負け惜しみのように見えます。なにせ坂東のキングは強そうな駒に囲まれていて手が出せそうにありません。あのいけすかねぇイケメンが狼狽える様は正直笑えます。ただ、負けると私のいままでの苦労が無駄になるので頑張って欲しいものです。
「それにしても黒川とつるんでからというもの、良い噂を聞いた試しが無い」
「それでも中学の頃よりはマシだって思うよ」
「だいたい奴も奴だ。下のものが懸命に戦っているというのに、見向きもしないじゃないか」
「僕は下ったつもりも上るつもりもないけど。そうやって上だの下だのってやってるから上手く回らないんじゃないの?」
「我の部だ。部外者が口を出すな」
「その変な喋り方も必要なこと?」
「お前はいつもいつもそうやって上からものを言う!」
面白くなってきましたね。10分という制限時間があるせいか、たびたび起こる盤外戦と言うなの罵り合い。お互いに相手のミスやタイムロスを誘うために、口汚い言葉が飛び交うのが恒例です。坂東と嬉野は付き合いが長いとは聞いてましたが、ずけずけと。これは見応えがありますね。だんだんと両者の駒を動かす手が速くなってきました。
「チェックだ」
「君がどうして部のみんなに威圧的なのか、教えてあげようか?」
「チェック」
「それは自信のなさの裏返しさ。アメフトの実力はあるし、頭も切れる。だからこそ全部自分でなんでもやってしまう。でも、いざという時に人を信用できない。一選手としてはそれでいいかもしれないけれど」
「チェック!」
「打ち手としては致命的だ」
舌戦とは正反対に嬉野は防戦一方です。キングを動かして逃げますが、ポーンを次々とクイーンに取られています。
「今もそうだね。信頼のおけるクイーンばかり動かす。執拗に合駒を選ばない」
「だから何だと言うんだ」
「チェック」
その手の意味に気がついた瞬間、坂東の顔色が青ざめる。どうやら嬉野のビショップがキングにチェックをかけたらしい。
しばらくの静寂ののち、坂東の盛り上がった上腕二頭筋から力が抜け、両手がだらりと机の下に落ちた。
「坂東先輩…」
私と同じく、状況を呑み込めていない部員たちは心配そうに坂東を見つめている。
「キングを守っていたはずの味方が退路を絶った。クイーンは自分を犠牲にさえできない。ただ遠くから眺めることしか。3手でチェックメイトだよ」
そう言って嬉野は席を立つ。
坂東は悔しそうにゆっくりと白のキングを倒す。
「お前は、いつも俺に厳しいな」
「老婆心さ。僕なりのね」
映画が終わるよりも先に嬉野先輩が勝ち星を携えて帰ってきた。チェスは10分、トゥームレイダー2は1時間58分なので当たり前ではある。
「見ての通り勝ったんだけど、2人はなにしてたの?」
「アンジェリーナ=ジョリーが水中銃を撃たれまくってる」
「だれもアンジェリーナ=ジョリーの現状は尋ねていないんだけど」
「ここでしか見たことないウエットスーツの謎の質感がいいんですよね」
「見どころも聞いてないよ」
「それよか九条。お前はクリケットのルール覚えたのか?」
いつのまにやら復活を果たしていたらしい赤井が、俺の真っ白な体育館用シューズの先を踏みながら問いただしてきた。新品だったのに。
「要するにワンバンありの野球でしょ」
俺は反対の足で踏み返し、そのままつま先に力を入れ、テコの原理で上に乗った赤井の足を持ち上げる。すると踏んだ足を支点にしてバランスを崩した赤井が背中から転げていった。
「合気、これが合気なのか!?」
受け身を取りながらそんなことを騒いでいる赤井は無視するとして。
「両団体、一勝づつのため大将戦を行います。種目はクリケット。特別ルールのアウト交代、三打席制です。代表者は前に」
森垣内は依然として、よく通る大きな声で取り仕切る。部長が敗北を喫したアメフト部の面々は、緩慢とした空気の中、三々五々に散らばっている。
「九条くん、呼ばれてるよ」
「どうした?緊張してるのか?」
黒川先輩は保護犬でも相手するかのように、優しく俺に話しかける。
「するわけないじゃないですか。勝とうが負けようが、俺としてはどっちでもいいんです」
「はぁ?あんま舐めたこと言ってるとぶっ殺すぞ」
赤井はすり寄ってきた野良犬を蹴り飛ばしそうな剣幕で俺を睨んでくる。こういうのも飴と鞭と言うのだろうか。多分言わない。
「最後まで聞けよ」
「じゃあ、なんだよ」
「勝負には勝つ。そのかわり…」
◇◇◇
「今一度、ルールを確認します」
アメフト部の大将は先ほど坂東先輩と交代させられたスーツ君だった。
「チェスで出ようとしたのなら頭脳派なんじゃねえのか」
「馬鹿か、アメフト部は全員が脳筋派だ」
「そんなら馬鹿はそっちじゃねえか」
「確かに…」
「あの、ルール聞いてました?もう聞かれても答えませんからね。まったく。
新学期早々、面倒事を起こすなよな。これだからスポ組は嫌いなんだよ。だいたい会長命令で仕方なしに来てやったってのに。こっちだって暇じゃねえんだよ。塾の体験入校すっぽかしてきてんだよ。校内放送の15分枠だあ?そんなことは多数決かなんかで決めろよ。しらねえのか民主主義をよぉ」
「じゃ、じゃあはじめましょうか。九条もルール分かったよね?」
「う、うす」
「できんなら初めからそうしろよ。では大将戦を始めます。先攻後攻をコイントスで決めるから早くしてくれる?」
森垣内さんめちゃくちゃ怖い人だった。スーツ君も委縮してしまっている。君が連れてきた人ですよね?
「九条くんが表、春山くんが裏な」
彼女はポケットから可愛らしいキャラクターの刻印された銀のメダルを取り出した。それがモーリーファンタジーのゲームメダルであることに気づいたけれど怖いので詮索はしないことにする。
「「うっす」」
メダルは宙を舞い、彼女の手の甲に吸い込まれるように落ちた。
「裏ね。春山くんが選んで」
残念、俺の負け!なんで負けたか、明日まで考えときます。
「後攻で」
どっちが有利とかはなさそうな気はするが。念のためにカマをかけておこう。
「初心者相手に後攻とは大人げがないな」
「関係ないだろ。ホームランダービーみたいなもんなんだから」
ほーん。
「じゃあさっさとグラウンド出て準備して」
「外でやん、お外で行うんですか森垣内さん」
「当り前じゃない。窓ガラス割りでもしたらみんな揃って停学よ」
はは、登校8日目で停学とかセミじゃねえんだから。
「ほら君も」
みな慣れているのか、格技場からぞろぞろと連れ立って外へ出ていく。
「グラウンドっていま外に見えているところですか?」
「違うわよ。この時間に空いてるのはダイリキに決まってるでしょう」
ダイリキ。ヘミングウェイが愛したカクテル。それはダイキリだな。
「そういえば、九条君は転入生か。ダイリキってのは『第一陸上競技場』のこと。運動部の部室はわかる?」
アメフト部のアホに担がれて拉致された苦い記憶が蘇る。
「ええ、一応は」
「そこから中庭を東に抜けるとダイリキよ」
それだけ言い残して彼女も格技場を出ていく。
1人残された俺は、指先を揉みながら考える。昨今の国際情勢についてとか、宇宙開発事業についてとか、新興国の台頭による世界経済、人権問題。
あとはまぁ九条御月のこれまでの人生についてとか。
◇◇◇
九条典雄は鎌倉時代からせこせこと続いてきた由緒正しい九条家の、第何代目かの長男であり、俺の父親であり、ついでに西武ライオンズの現ヘッドコーチでもある。
彼は地方局の看板アナウンサーであった母と恋に、落ちたのか落ちなかったのか定かではないながらも、一姫二太郎三茄子の猛打賞、九条三姉弟をもうけた。
それから十数年がたち、ひとり息子の九条御月は父親譲りのスラッガー、ではなく正統派ピッチャーとして栄光の階段を全力ダッシュしていた。
周囲からは神童、埼玉の豪腕、凡打製造機、自動球投げ機、2世タレント、坊ちゃん、生まれながらの無鉄砲、バカ、などの異名で恐れられ、将来を期待される選手であった。
そんな彼の転機は、16の秋。横浜高校在学中、ロードワークにてトラックに撥ねられ一時は意識不明の重体に陥り、いくらかの神経痛と指先の感覚の喪失を果て、立派な落伍者の烙印を押されて今である。夢破れたり。
ちなみに落伍者とはもとは軍隊において隊列からおいていかれた者を指す言葉であるため、平和主義者の俺からすれば、よくぞ軍国主義の螺旋から抜け出したと褒め称える言葉であり好意的に受け止めるのが自然である。ゼンゼンキニシテナイヨー。しかしながら、急に態度を変えたチームメイトや、価値観の相違とかいうバンドの解散理由みたいな言葉を残して俺をフッた元カノなどは悔いて恥じろ。
そんなことはどうでもいいとして。
人生に起きる事象は複雑に入り組んだ因子のひとつの萌芽である。因子とは何か。生まれ持った人種や性別、身の振り方、度重なる選択。それらは相互に作用して、予想もつかない
人は生きていれば様々な業を背負うものであり、生まれた星のもとを憂うこともあるだろう。 話は逸れるが、みんなはクリケットってやったことある?やったことないよね。俺もそうだった。
でも、まさに今、でかい羽子板のようなバットを握り、打席へと向かっています。俺は知らぬ間にクリケットをする業を背負わされていたようです。
何があるかわからないものである。
人生は冒険や。
「九条、とにかく振ってけ!」
赤井の声援で我に帰ると、勢いよく投じられたボールを掬うようにセンター返しする。いや、センターはいない。というか守備をする選手もいない。それが特別ルールというものらしい。グラウンドにいるのは2人だけ。
正規のルールすら知らないが、打ったボールが、周囲を囲むように引かれた白線を超えなければならないようだ。
「ノーバンなので九条選手、6点です」
「おまえ、実はクリケットやってただろ」
「見たこともねぇよ」
スーツくんにバットを手渡す。俺がやったように白線をノーバンで越えれば6点、バウンドした打球は4点。それが3打席。ここでアウトをとり、尚且つ次の打席で、いや、先のことを考えるのはやめよう。まずはこの打者に集中しよう。
向こうからアメフト部のやつがボールを拾ってきて俺に手渡す。思ったよりも軽い。重さ自体は硬球と大差ないが、独特の肌触りで縫い目が一周しており握りづらく感じる。どこに指を掛けるのだろうか。
「では、プレイ!」
代わってスーツくん打席が始まる。彼は左打ちらしい。
俺の記念すべきクリケット第一投目である。先ほどの打席で彼が投げたように助走をつけて投げようかとも考えたが、慣れた投げ方の方がいい。
弓を引くように肩を後ろへ、胸を張り、左足を前へ。そのまま体に刻み込まれたフォームでその何だかよくわからんボールを打者の向こう、これまたなんだかわからん三本の棒にめがけて投げ込んだ。
ボールはちょうど打者の手前でワンバウンドし、スーツくんはそれを上から擦るようにバットに掠らせた。
ボールはポップし横の回転を保ちながら、打者からみて左へと流れていく。その後、引かれたラインへ達することなく止まった。シャットアウト。我ながら完璧な投球だな。
と思っていたら笛の音が聞こえた。
「反則です。エクストラポイント一点」
「何やってんだ九条!クリケットは肘伸ばして投げんだよ」
「助走つけなきゃ無理だよ〜」
肘?がなんだって?わかんねぇ。クリケットむじぃ。
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