第壱部 神に『魔人』と畏れられし教皇

第壱章 慈母豊穣会

 勇者アルウェンと淫魔王クシモの死闘から百年余りの時が過ぎた。

 クシモを崇める慈母豊穣会の神官見習いトロイは先輩神官に呼ばれて教会の応接間へと出頭した。


「お、お呼びでしょうか? あ、あの……ボク、何か仕出かしちゃいましたか?」


「うむ、仕出かしたと云えば仕出かしたな。お客様への挨拶を忘れておるぞ?」


 トロイを呼び付けた本人である枢機卿が笑い混じりに指摘すると、ソファに腰掛けている人物に漸く気付いた。

 見れば艶やかな銀髪を後頭部に纏めてシニョンにし、タキシードに身を包む美丈夫が優雅にティーカップを傾けている。

 トロイはしばし目の前の人物に呆気に取られ、はたとした瞬間に血の気が一気に引いた。

 全身の毛穴から冷や汗が滲み出し、膝がガクガクと震えてくる。


「ごごごごごご無礼を致しましたぁッ!! お、お許し下さい!!」


 頭を下げるどころか平伏するトロイにタキシード姿の美丈夫は鬱陶しそうに手を振った。


『構わぬ。どうせこの悪戯者のことだ。余がいる事を敢えて伝えておらなんだのであろう?』


 親指で差された老枢機卿は呵々と笑ったものだ。


「この老骨唯一の道楽ゆえ、どうぞ目溢しを」


『何が唯一だ、この破戒僧が。己の身分を笠に民を嬲る貴族の跡取りを叩きのめした時や自分の力量に酔って傍若無人振る舞う若き騎士の鼻をへし折った時も、口よりまず先に手が出るのが唯一の欠点で御座ると宣っていなかったか?』


「取り返しのつく若い時期に大失態を経験すれば向後の人生において良き教訓となると思えばこその警策、愛の鞭で御座るよ」


 暖簾に腕押しの枢機卿に呆れた様子で銀色の頭を掻くのをトロイは呆然と見るしかなかった。

 その様子に気付いた枢機卿は、いつまで這い蹲っておるつもりだ、と睥睨する。

 トロイは慌てて立ち上がると改めて目の前の人物に跪く。


「お初に御目文字いたします。トロイに御座いまする」


『知っておるわ。そなたを名指ししたのは余であるのだからな』


 その言葉にトロイは激しく動揺する。


「ぼ、ボク、あ、いや、私をですか?」


『普段通りで良い。何、この悪戯者からなかなか見込みのある新入りがいると聞いてな』


 初めて聞く評価だった。

 地母神クシモとその右腕である教皇の伝説に憧れて修道院に入ったは良いが、人より物覚えが悪ければ要領も悪い。

 更に天涯孤独の孤児院出身である事から貴族や騎士の家系出身の同期は云うに及ばず、先輩からもどやされ、莫迦にされる毎日だ。

 それでも歯を食い縛って修行や布教に明け暮れているのは偏に憧れの教皇さまのような人物になるためだ。

 かつて世界二大宗教であった星神教とプネブマ教によって淫魔に貶められた我らが地母神を救ってきた伝説の数々は今なお信徒の心を奮わせている。

 『淫魔王』などと不名誉な称号を与えられ、封印されもしたが、その眠りから覚ましたのが教皇ミーケであり、その当時はなんとまだ幼い子供であったという。

 地母神復活後も勇者を名乗る無頼共が二人を襲ったがミーケはその悉くを退けクシモには掠り傷の一つもつけさせなかったとされている。

 やがて健気に己が神を護り続ける少年の元に多くの仲間が集い、それが自分達が所属している慈母豊穣会の前身となった。

 その後、何度も苦難がクシモとミーケ、その仲間達を襲ったが、固い絆で結ばれた彼らはそれを物ともせずに進み続け、ついには星神教にもその存在を認めさせたという。

 彼らは自らを慈母豊穣会と名乗り、偉大なる地母神クシモを崇め奉る宗教団体として動き出す事となる。

 そして幼き頃より地母神を護り続けたミーケを教皇に据え、今や星神教やプネブマ教にも並ぶまでの勢いだ。

 その偉大な地母神が一体全体どういう経緯があって自分に会いに、しかも自ら足を運んで来たのか、トロイには見当もつかなかった。


『そなた、借金の取り立てをしておったオーキに意見したそうだな?』


 オーキ、その名前は忘れようにも忘れられはしない。。

 トロイには秘やかな趣味があり、手先の器用さを生かして玩具を作っては布教活動のついでに子供達と一緒に遊んでいる。

 元々子供が好きであったし、何より人の笑顔を見る事を喜びとする温厚な人格の持ち主であったのだ。

 そんな折り、とある路地裏から子供の泣き叫ぶ声を聞いた。

 急いで駆け付けると、そこには借金の形にと親から存じ寄りの幼い子供を取り上げようとする男の姿があった。

 泣く子供の腕を掴み無理矢理立たせて連れて行こうとする男の前に立ち塞がり、慈悲を乞うも関係無いヤツは引っ込んでいろと一蹴される始末だった。

 それでも尚縋るトロイにオーキと名乗る男は冷たく云い放つ。

 曰く、この父親はろくに働きもせず、酒色に溺れ、妻子に暴力を振るった挙げ句に女房に逃げられたクズである、と。

 どうせ生きながらの地獄にしか居場所がないのなら、ろくでなしに嬲られるよりは苦界で金を稼いだ方がこの餓鬼共の為になるとまで云った。

 最早、父親に働く気概は皆無であり、飢餓と暴力で潰されるくらいなら客を取らせた方がまだ餓鬼にも産まれた甲斐があるというものだそうな。

 何よりトロイにとってショックだったのは、子供をオーキに売ることを持ち掛けたのは父親からであったと云う。


「それともお前が代わりに金を返してくれるのか?」


 と凄まれて、トロイは慈母豊穣会から斡旋された仕事でお金はいくばくかあると答えると、オーキからの返事は鉄拳であった。

 巫山戯ふざけてろと云い捨てるや、オーキは僅かな銀貨を父親に投げつけて去っていった。

 頬の痛みを堪えて立ち上がったトロイが見たものは、これで借金が無くなった、これで酒が呑めると嬉しそうに銀貨を拾う父親だった。

 その姿にトロイの胸に去来したものは失望と絶望であり、何故か怒りは湧いてこなかった。

 浅ましい父親から目を反らすように俯いたトロイはふと足元に一枚のカードが落ちている事に気付く。

 名刺である。それには『慈母豊穣会・直参・三池組・若頭補佐・大木直斗』と書かれていた。


『そなたの知る通り慈母豊穣会は、淫魔に陥れられ勇者に斃されたこのクシモを復活させ、地母神として祀る為に教皇ミーケが立ち上げた組織……表向きは善良な信徒を纏める宗教団体である』


 が――地母神クシモは一口紅茶を啜る。


『本来、慈母豊穣会は余の為の組織ではない』


「えっ?」


『慈母豊穣会とはミーケが商売の手を広げる為、人を集める際に付けた団体名だ。淫魔の名では誰も来ないから昔取った杵柄で地母神をやれと云ってな』


 崇めれば農作物が善く育つ、子宝に恵まれるという現世利益を武器に人を集め、忠実な労働力を確保する為のシステムに己が主を組み込んだのだという。

 集まった人々は勿論善良な人達ばかりではない。当然、御零れに与ろうという不逞の輩や利益を略奪しようとする無頼の徒も現れた。

 そこでミーケは慈母豊穣会を、クシモを頂点とする宗教団体としての体裁を整え、その管理を直属の部下や弟子に任せるようになる。

 自身はといえば、無頼の者を力とカネで纏め上げ、直参・三池組を組織し、裏から慈母豊穣会を操る影の支配者になろうと画策した。


『嗤うが良い。最早、余は飾りでしかない。余が何かを頼むとしよう。だがそれがミーケの命令と相反する時、余の言葉は聞かなかった事にされてしまうのだ』


「そ、そんな」


 それからもミーケは慈母豊穣会をフロント企業として暗躍を続け、世界各国の暗部との密貿易で得たカネに物を云わせて組織を拡大させていった。

 そればかりか、クシモ配下のサッキュバスらに命じて貴族や高官、富豪しか利用できない会員制の高級娼館を世界中に建造し、カネは勿論のこと高位の者達しか知り得ない情報も吸い上げることで各国の弱味を握るようになる。

 情報を制し潤沢な資金を持つミーケに敵は無く、あらゆる商人ギルドや犯罪結社が彼の手に落ち、貧しい国に至っては国ごとミーケの支配下に収まった。

 当然ながら星神教の神々も黙って指を咥えていた訳ではない。彼に自重を求めたし、何よりクシモが今なお籍を置いている魔界にも働き掛けたのだがミーケの耳には届かなかった。

 ついには神々も業を煮やし、あろうことか新たな勇者を勇者の血を引くミーケを討伐するために召喚したのである。

 神から聖なる剣と鎧、そして悪を屠る為の力を授かった勇者も意気揚々と旅立ったまでは良かったのだが、既に情報が筒抜けだったミーケに待ち伏せを受け、スライム一匹斃す間もなく返り討ちの憂き目に遭う。

 勇者も神器と呼ばれる文字通り神の力を宿した剣と鎧を身に着けていたがいかんせん実戦においては素人であり、対してミーケは百戦錬磨のつわものである。

 ミーケが野鍛冶で自ら拵え『無銘なまくら』と名付けた刀を立てて頭の右手側に寄せ左足を出す所謂八相の構えを取ったのが、勇者が最期に見たものであった。

 ぽかんとした表情の勇者の生首と聖剣と鎧を手土産に帰還した際には、然しものクシモも恐怖を覚えたものだ。

 余談だが、残された勇者の胴体は裸に剥かれ『この者、勇者を騙る詐欺師なり』という高札と共に晒された。

 しかもミーケはそれだけでは終わらない。彼は天界にコンタクトを取ると神器を盾に交渉を開始する。

 前述したが、神器には神の力が宿っており、下界に見せる奇跡の一つとして勇者や英雄に貸与乃至下賜されるものである。

 しかしそれは神々に取って諸刃の剣であり、分かりやすい奇跡を人間に示す事ができるが、もし神器そのものを破壊されれば封じられている神の力は永遠に失われる。

 つまりは神としての弱体化が避けられぬという事であり、力が弱まる事は即ち天界の中での地位が下がる事を意味している。

 それを見逃すミーケではなく、彼は神器の持ち主を発見すると必ず奪い取ってソレを天界との外交カードにしているのだ。

 早速、ミーケは神器の主である神を名指しすると、躊躇うことなく力の返却を条件に交渉という名の脅迫を開始する。

 この交渉をそばで聞かされているクシモはいつも辟易させられる。毎度のことながらミーケの要求はえげつないのだ。

 当の神配下の天使を何名か堕天させて魔界の尖兵にしろというのはまだ可愛い方で、位の低い神を相手にした際は、慈母豊穣会の盟に加われと平然と云う。

 こんな事を幾度と繰り返せば流石に新たな勇者を召喚しようという気も起こらなくなり、地上に現存する神器も悉く天界へと回収された。

 こうしてミーケは主であるはずのクシモに己と己が組織の力を見せ付けて発言力を削ぎながら慈母豊穣会を巨大化させていくのだ。


『地上、魔界はまだしも天界にまで影響力を持ち始めているミーケは最早、自分でも止まることが出来なくなっているに違いない。これは余の罪だ。余にはミーケを止めることが出来なんだわ』


「地母神さま……」


 天地魔界に比類無しと謳われる美貌に疲労を隠すことなく自嘲気味に笑うクシモにトロイは返す言葉が見つからない。

 だが、ここまで聞いてもトロイにはクシモが何を云わんとしているのかが読めなかった。

 確かに憧れの教皇さまの正体が欲と野望に取り憑かれた野心家だったのはショックであったし、地母神の疲労も分からなくもない。

 けど、何故それを自分に話すのか? 自分は修道院入りしてまだ一年にも満たない駆け出しとも呼べぬ未熟者だ。

 するとクシモはトロイの疑問を抱いている事が分かっているかのように口を開いた。


『トロイよ。余はそなたに頼みたい事があって参ったのだ。否、そなたに縋るより無いのだ』


「ちょ、ちょっとお待ち下さい!! 話がいきなり過ぎて何が何だか……」


 混乱するトロイに答える事はせず、クシモはタキシードの上着を脱いで見せる。

 するとクシモの腹を幾重にも巻いた大きな布が現れ、それには紫色の血がじんわりと滲んでいた。


「こ、これは?!」


『今朝、ミーケに諫言をした。あの子は完全に暴走している。今や魔界にいる魔王達も天界の神々も精霊ですらミーケの思うが儘。このままでは世界のバランスが崩れるのも時間の問題だ』


 クシモの口の端から血が滴ってくる。

 トロイはどうして良いか分からず縋るように枢機卿を見るが、彼は何かを耐えるように目を伏せているばかりだ。


『余は必死に諭したよ。このままで良いのか? お前の理想は、夢は天地魔界全てを繋いで皆と幸せになる事ではなかったのかとな。その結果がこれだ』


 ミーケはクシモの涙ながらの訴えに、そうか俺は子供の頃に抱いていた夢を忘れていたのかと男泣きに泣いたという。

 一頻り泣いた後、彼はクシモの後ろから抱きついてきて、どうすれば償えるんだと再び泣いた。

 クシモは、ああ良かった。この子はまだやり直せる、と安堵したのも束の間、腹部に灼熱が宿る。


「しゃーない。アンタ、俺の主って事で責任取ってくれや」


『な……ミーケ?』


 ミーケの手に握られた匕首がクシモの腹に突き立てられ、それが徐々に横へと割いていく。

 肩越しに振り返ればミーケは嗤っていた。嗤いながらクシモの腹を横一文字に引き裂いていた。


「俺ァ忘れちゃあいねぇよ? 俺の野望ゆめは天地魔界を盟で結びその盟主になる事だ。だからよ? 俺の邪魔をするってンならアンタだろうと容赦しねぇ……」


 クシモの口から灼熱を帯びた血の塊が吐き出される。

 ミーケが内臓を抉るように匕首を何度も捻っているからだ。


「どの道、アンタはもう用済みだ。アンタから地母神の力を継承した色魔イロボケなんざいくらでもいるんだぜ? もうアンタが居なくても慈母豊穣会、否、三池組は回っていく……だからよぉ」


 ミーケは匕首を引き抜くと、今度は下腹部に突き立てて一気に真上へと引き裂いた。


「さっさとくたばれやぁ!!」


 ミーケがクシモの背中を蹴飛ばすと、彼女は膝から崩れ落ちた。

 傷口から零れる臓腑にミーケは、ああ臭ェと嫌そうな顔をして正面に回り込むと腹に突き立ったままの匕首を彼女の手に握らせた。


「おー、立派な切腹だぜ、お見事、お見事」


 茶化すようなミーケの声と拍手をクシモはどこか遠くに感じながら聞いていた。


「んじゃ、そろそろ介錯してやろかい。ったく、大人しくしてりゃあよぉ、どっか辺境にでも押し込んで捨て扶持で飼ってやるつもりだったんだけどなぁ? 余計な事すっからいけねぇんだぜ?」


 もうほとんど意識を失いかけているが、何故か鯉口を切る音がやけに大きく耳を打つ。


「信者にはそうさなぁ……実は地母神としての寿命が尽き掛けていた。だから完全に死ぬ前に自ら命を絶ってその魂を大地に捧げるって感じのシナリオで良いか? よし、それでいこう」


 まさに凶刃がクシモの首を落とさんと唸ったその時、扉を蹴破る音と云い争う声を聞きながらクシモは意識を手放した。


『ミーケにトドメを刺されるその直前、そこにおるトラに救われ今ここにいるというワケだ』


「否、救っておりゃせんわ。臓腑を押し込んで止血するのが精一杯よ。アンタの命はもう間もなく尽きる。すまんの」


 枢機卿の言葉にトロイはもう何もかも思考を停止したくなる。

 何なのだ。自分達のやってきた事はなんだったというのか。

 夢も希望もありはしない。慈母豊穣会とはたった一人の男の野望を隠す為のヴェールでしか無かったのか。


「それで貴女達はボクにこんな話を聞かせて何をさせたいのですか?! まさかボクに教皇さまを止めろって云うんですか?!」


 トロイは自分でも驚く位の声量で叫ぶ。

 最早、礼儀云々以前の話だ。教皇の野望のスケールが大きすぎて現実感が無くなっているくらいである。


『ああ、そなたに頼みたい事はただ一つだ。それは……』


 クシモが云いかけたその時、礼拝堂から先輩達の悲鳴が聞こえてきた。

 続いて癇癪玉が破裂するような乾いた音が連続して起こる。そのたびに怒号と悲鳴、人々の逃げ惑う騒音がした。


「な、何が起こって……」


「クッ! もう来おったか!! 致し方無い。礼拝堂におる者達には気の毒だが今の内に逃げるぞ!!」


 枢機卿がソファの一つを倒すと、その下の床に取っ手が二つ見えた。

 彼が取っ手を引くと床に四角い切れ込みが走り観音開きとなり梯子が現れた。


「トロイよ、行くぞ!!」


 枢機卿に促されるが礼拝堂にいる人達が気になり動くに動けない。

 もっと云えば、この梯子を降りたら取り返しがつかないことが起きるような予感がするのだ。


「行け!! ここでそなたが奴らに捕まれば彼らの犠牲が無駄になるぞ!!」


 犠牲と聞いて助けに行こうとするが枢機卿に押さえ付けられてしまう。

 今は堪えろと再三促されてトロイは罪悪感に苛まれながら梯子を降った。

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