やさしいうそ

春嵐

01 ENDmarker.

 図書館の中庭が、好きだった。


 吹き抜けで、風が入ってきて。たぶん近くのサッカー場のものと同じ材質のゴムが敷いてあって。


 日が暮れるまで、だいたいは、ここに座って、本を読んでいる。


 学校には、どうしても馴染めなかった。


 みんなでゆっくり大声で音読しようというのを拒否したことに怒って頬を張ってきた先生を、奥歯ががたがたになるぐらい張り飛ばしてからは、ずっと、図書館。


 自分より頭のわるい人間から学ぶことは、なかった。


「あら」


 また、彼女が来ている。


「また、休んだの?」


「保育園だし。家も近いし」


 おそらく、中学生。近くにある私立校の制服。


 彼女には、保育園児ということで通している。小学二年生だけども。この程度のうそは、まあ、なんとか。身体もまだ第二次成長期ではない。


「今日は、どんな絵本を読んでるのかな?」


 彼女が、絵本に顔を近づけてくる。


「いやまあ、いつものですよ。いつもの」


「泣いた赤鬼?」


「ええまあ」


 危ない。開いているのは絵本だけど、頁の間に普通のビジネス書を挟んで読んでいた。


「字が読めるだけですごいのに、絵本まで読むんだもんね。すごい」


 彼女。笑顔。


 この笑顔は、うそだった。


 手首の赤さ。化粧で隠してるけど目の下に隈。口紅で隠しきれない、唇の傷。


 あきらかに、人生に躓いている人間の容姿。それを、長袖とメイクでひっしに隠している。


「中学校は今日も休みですか?」


「ええ。なんか流行ってて。あなたはテレビでニュースなんて見ないでしょうけど。全国的に流行ってるの。こわいウイルスが」


 これもうそ。深夜のニュースを録画して毎朝見ているが、今日も平和だった。


「そうなんだ。帰ったらちゃんと手を洗おうっと」


「うがいもね」


 うがいに科学的根拠はない。突っ込むのもおかしいので、黙っていた。科学的根拠だけが全てではないし、うがいの励行で実際にうまくいってる学校もある。制度と施行の問題だった。


 彼女が、本を開く。


 漫画。


「今日も漫画?」


「今日は小説です」


 うそ。挿し絵を見ているだけ。


 彼女には、識字に難がありそうだった。文字が読めている感じが、しない。おそらく、文字列から意味を取り込む認識がうまくいっていない。だから、判る文の文字と絵を使って、なんとか漫画を読み進められる。


 そんな彼女が、図書館にいる。


 おそらく、自分と同じ理由で。居場所が、ほしい。誰にも邪魔されず、それでいて、綺麗で、いつまでもいられる場所が。


 それが、たぶん。この中庭。


 彼女を生きにくくさせる原因のすべてに殴り込みをかけて、小さな身体を駆使して奥歯ががたがたになるぐらい張り飛ばしたいけど。それはできない。


 ビジネス書を、彼女に気付かれないように、絵本から抜き出して中庭の端に置いた。


 彼女は、自分とは違って、人との関係で拗れているわけではない。文字が認識できない自分自身を、自分で許せなくて、つらくなっている。


「また、読んで。音読して」


 だから、せめて。


「仕方ないねえ。おいで」


 彼女の、思春期の母性欲だけを、満たしてあげる。


 彼女の膝に座って。


 彼女が音読するのを、聞いてあげた。


 彼女は、ひらがなと絵の占める比率の多い絵本なら、読める。


 せめて、読書の経験と、人と交流するたのしさだけは。


 それが、自分のできる唯一のことだった。第二次成長期に入らなければ、そもそも人という区分けにすら入らない。歯がゆいけど、しかたなかった。時間は誰にとっても平等。


 彼女。音読しながら、泣きはじめる。


 もともと、物語に対する耐性が低いんだろう。よく泣く。


 そういうときは、発育に配慮して胸を避けて、おなかの辺りを、ぎゅっと、抱きしめる。


 そうすると、彼女も、抱きしめてくる。


 これだけが、唯一の、本当のコミュニケーションだった。


 どれだけ考えて、アタッチメントに対する書物を読んでも、結局は、これに行き着く。


 心から、愛する。抱きしめてあげる。それ以外には、方法がない。


 そうやって、毎日を過ごした。第二次成長に備え、毎日の運動と食事、そして読書と勉強は欠かさなかった。


 彼女は、二日から三日に一度の頻度で来て、その度に、本を読ませて、抱きついた。彼女には、たぶん、それが唯一の、人との繋がりなんだろう。


 かなしいことだった。自分にはメールがある。匿名なら、SNSもある。他者との繋がりは、たくさんあった。


 それでも、彼女だけは。特別に大事だった。思春期が来てないので恋愛という感情が判らないままだけど、たぶん、かなり近いと思う。


 そういう日々が一年ぐらい続いて、ある日。彼女が、泣きながら中庭に来た。


 その日は雨だったので中庭が解放されておらず、油断していた。


 いつも通り中庭が見える位置にラップトップを持ってきて、メールで海外に送った読書感想文と研究の内容をまとめて送信していた。どこからどう見ても異常知能なので、海外の学者とは懇意にしている。今のところ、脳の肥大化も頭痛も起こっていない。すこぶる健康な異常。


「すごい難しいこと、してるのね」


 後ろから、声をかけられた。


 彼女。


「あ、これは」


 ちょうど、海外の学者からの返信を読んでいるところ。もはや日本語ですらない。


「なんて書いてあるの。おしえて?」


 逃げられない。


「これは」


「おしえてよ」


 彼女の目に、かなしい気持ちが、映ったような気がした。もう、うそは、つけない。


「海外の学者から」


「なんて書いてあるの?」


「異常知能について」


「いじょうちのう?」


「頭がいいってこと。被験体になって、文章を送ったりする」


「今日は、何を送ったの?」


「読書感想文」


「絵本、じゃ、ないよね」


「うん。まあ」


「どんな本?」


 劉向の戦国策と言っても、たぶん何も彼女は分からないだろう。


「ことわざ辞典を読んでて、それの感想文を」


「そうなんだ。私より」


 そう。それがしんどい。目の前にいる保育園児が自分よりも難しい本を読んでいるという事実が、たぶん、つらいはず。


「ごめん。僕ほんとうは、小学二年生なんだ」


 せめて、年齢で穴埋めを。


「そっか。小学生だったんだ」


「先生に楯突いてから、ちょっと行きにくくて」


「この研究」


 なんとかして、話を逸らせないか。


「ただじゃないよ。ちゃんと、お金ももらってる。住まわせてもらってる養護施設に寄付、って形だけど」


 本当のことを、喋った。どうしようもない人間ばかりの施設だけど、拳で解決できるのが、なかなか小気味良かった。小学校のように、みんなの足並みを揃えようとすることがない。


「住んでる養護施設はね。みんな親も兄弟もいないやつらばかりで、どうしようもないやつばっかりだけど、みんな、いいやつなんだ」


「そうなんだ」


 本当のことだった。


「私も、親がいなければよかったのに」


 親が原因か。参ったなあ。話がどこにも逸れていかない。一本道のコミュニケーション。


「どうしたの?」


「私。引っ越すことになったの。入院。心の病気かもしれないから、って」


「ばかなことを。認識野なら、脳関連だろうに。心の病気なんかじゃない」


 彼女は、ぼろぼろではあるけど、ちゃんと心は正常だ。正常なのに。


「さよならを言いに来たんだけど。必要なかったね。ごめんね。いままで。絵本とか読んだりして。ばかみたい」


「待って」


 彼女。きびすを返して、走り去っていく。


 ひっしに追ったけど、脚のストロークの短さはどうしようもない。


「せめて、名前を。どこに行くのかだけでも」


 叫んだけど、だめだった。


 誰もいない図書室。


 自分ひとりが、残された。司書だけが、こちらを見つめてくる。


「くそっ」


 司書。首を横に振る。


 彼女は本を借りていない。司書に訊いても無駄か。完全に、八方塞がりになってしまった。


 それからの日々は、早かった。


 養護施設を出て、一人暮らしをすることにした。手続きに時間がかかり、保護者の有無や諸々の確認で、図書館にはあまり行かなくなっていた。


 ようやく、自分にも第二次成長が来た。学校に通う必要がなかったので、すぐに就職。一人暮らしが、交渉のとき有利に作用した。


 背が伸び、筋肉が付き、そして、恋愛感情を理解した。


 でも、もう、彼女はいない。


 どこにいるかも、分からない。


 海外の学者にも連絡をとって、どうにか場所を特定できないか探ってみたけど、結局鳴かず飛ばずだった。


 第二次成長前の恋愛だったので、性愛に関するイメージはあまりない。それでも、彼女が、やっぱり、自分のなかでいちばんだった。


 焦りだけが募ったある日、ひとつのタペストリーが、図書館に届いた。


 泣いた赤鬼の、絵。


 いつも読んでもらっていた、絵本の絵。


 中庭に飾られたそれを見て、はっきりと、分かった。


 彼女だ。


 司書に絵の送り先と名前を聞いて。


 すぐに走り出そうとして、司書に注意された。


「見つけたね。ようやくだね。行ってらっしゃい」


 そうか。司書は、ずっと自分と彼女のことを見ていたのか。


「はい。ありがとうございます」


 意外と、近場だった。駅を三つ隔てたところ。子供が心の病気かもしれないと言われても、結局は親の自己満足なのだから、しかたないということなのか。


 海沿いの、小さな、アトリエ。


 中に、入った。


 誰もいない。


 タペストリーが、いくつも飾られている。油絵もあった。独特の、やさしいタッチをしている。


 奥。


 海に繋がる、中庭。


「ここは」


 図書館の中庭と、同じ。


 彼女が、いた。


 吹き抜ける風のなかで、絵本を読んでいる。


 ようやく。見つけた。


 彼女の、隣に。


 駆け寄ろうとして、気付いた。


 絵の具。筆。タペストリーと、油絵。


 そして、コップと、皿。


 二種類ある。


「そっか」


 ちいさく、呟いた。


 きっと彼女には、彼女の、大事な人ができたんだろう。


 心の病気も、きっと、その人が、なんとかしたに違いない。


 この海沿いのアトリエで。風の吹く中庭で。きっと、彼女は。


 彼女。中庭で絵本を読むその姿。少しだけ目に焼き付けて。


 彼女から背を向けた。もう、会うこともない。大事な人。


 アトリエを出ようとして。


「ごめんなさい。気付かなくて」


 彼女の、声。やっぱり。


 振り向いた。


「あら」


 彼女。きょとんとしてる。


 そっか。


 そうだよな。


 あの頃とは、身長も違うし声も違う。


 彼女の目には、あの頃の子どもには、見えないだろう。


「はじめまして。飾られてる絵がきれいだなと思って」


 もう、彼女のなかに、俺は、いない。


「でも、もう行きます。いい絵ですね。応援してます」


 よかった。


 彼女が、普通の日常を手にしてくれて。


 隣にいられないのが残念だけど。そのほうがいいかもしれない。昔のつらいことを思い出す必要は、ない。


 涙が出てきたので、彼女に背を向けた。アトリエを出る。


 よろこんで泣いてるのか、せつなくて泣いてるのか、よくわからなかった。

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