雨の日に、また。
湯々
第1話 こうして僕は、君に出会う。
またひとつ、ため息をついた。
空いて久しい僕の左手は、これまでのことなど、何もなかったかのようにその温もりは消えていた。電柱に、明らかに壊れた傘が立て掛けられたいた。空ははっきりしない灰色で、もしかするとまた雨が降るのかもしれない。雨上がりのアスファルトの焦げたような匂いが鼻腔をくすぐる。この匂いは、物心ついたときにはもう既に知っていた匂いだった。そしてそれは好きでもなく、嫌いでもない、自分がどんな風に感じているのか、言葉では何とも言い表せない、雲を手でつかむような感覚、そんなものだ。いつそれを始めて嗅いだのかは分からない、しかし、それは幼い頃に雨上がりの河川敷を母親手を繋いでいた時の思い出がとても強い。母親との記憶はそんなもの、と言ってしまってもいいような思い出しか残っていない。
そして、「お母さんは少し遠くの旅に出ているんだよ」と父親が僕の小さな背に合わせてしゃがんでにこやかに、僕に告げたその本当の意味を知る頃には、雨上がりのアスファルトの匂いが、どこか奥ゆかしいものに変わっていた。
昼下がりの、少し冷たい風が流れる。
そしてそれは、唐突に僕の胸の奥を締め付けられるような感覚に陥れた。
何だろう、と思って辺りを見渡すと、20メートルほど向こうに、花屋さんがあった。店員と思われる女性が道を歩く人にひとりひとり挨拶をしていた。
そうだ、この花の匂いだ。
4月から、5月になった。
大学生活を半分終え、残りのもう半分を消化するように過ごしていた僕にとって、この一ヶ月など、空虚なものでしかなかった。
「ごめん、他に好きなひとができたから……」
そう言って、彼女は僕が誕生日にプレゼントしたキーホルダーを僕の部屋の合鍵につけて返すと、目もあわせずに追い越していった。
しばらく呆然として、ふと我にかえって後ろを振り向いても、そこにはもう彼女の姿はなかった。
彼女は花が好きだった。良い香りのする、名前のよく知らない花を、よく家に飾っていた。
その花は、来る度に変わっていて、その度に新鮮な空間を彩っていた。
それも今となっては、複数の男の匂いを消すためだったのかもしれないが。
僕の全身を包み込むように風に乗ってきた匂いは、僕が最後に彼女の部屋を訪れた時の匂いだった。
振りきるように首を左右に振って、僕は気づけば息をとめながら駆け出していた。
正直、もう忘れてしまいたい。
でも、そんな思いとは裏腹に、僕になかに空いた心の穴は塞がる気配を一向に見せない。
朝おきて、テレビをつけて、歯を磨く。
朝食を、済ませたあとは、大学へ。
僕は、心の穴を埋めるように、とにかく大学の授業のコマをどんどん埋めていった。入れられるところは全部いれる。バイトのシフトと被らないように慎重に確認しながらも、とにかく希望表に書き込んだ。
でも、授業が始まっても、結局はただの授業に過ぎなかった。受けてみても、当初思っていたのとは違い、退屈なものばかりだった。1週間もすれば大学の授業には飽きて、通う気もなくなってしまっていた。
この2週間ほどは、もう大学にも言っていない。ただ、自分のすむ街を、どこかへと、まるでなにかに救いを求めるように徘徊していた。
ある日は猫がたくさんいる廃屋を見つけた。
でもそんな場所も、次の日に行けばもう、そこには猫はいなかった。もう少し時間がたてば、猫たちも戻っているかもしれない。
この街は、海が比較的に近いところにある。だから、歩いて行ったこともあった。
昼頃に目が覚めて、コンビニへと昼食兼朝食を買いに行ったときに、ふと海を見てみたいと思ったのだ。
なんとなく、そこに行けば彼女を忘れられると、あの永遠にも目の前に広がる大海なら、こんなちっぽけな記憶なんて捨てられるんじゃないかと。海が、呑み込んでくれることを。
まあ、結局無理だったけれど。
夕方、太陽もまだ沈みそうにない中途半端な時間だった。
他に誰もいなかった。目の前で打ち付ける波と、浜風だけが僕に感じられて、靴を脱いで裸足で浜辺をあるいた。疲れたのか、1時間ほどそこで寝ていた。さすがにあたりは暗くなっていて、幸い靴だけはそこにまだ残っていた。夜の冷えた風が僕の体を擦る度に結局は彼女のことを思い出していた。口のなかはしょっぱく、からからに乾いていた。目の前にひろがる海は、決して僕の心を潤わしてくれることなんてなかった。
走るのもいい加減疲れた。30秒ほども全力疾走をすれば人間誰でも疲れるものか。
路地裏に入り、ひと目につかないところで膝にてをついて肩で息をする。路地裏はあまり良い匂いではなかった。建物と建物の換気扇から漏れだした匂いが混ざりあっていて、少し嗚咽感を怯えて、僕はそそくさと抜け出した。急に立ち止まったからなのか、倦怠感を覚えてきた。今日はもう帰ろうか、、、
そう決めて僕はいつもより大分早めに切り上げた。
少しあるいていると、ポケットの中のスマホから通知音が久しぶりに鳴った。
僕は少し億劫になりながらも、確認する。
「最近どうしたの?大学にも来ないで……健ちゃん、具合悪いの?風邪なの?」
2週間も風邪が続くとか、それはもう風邪ではなく他の重病だなぁ……
だからこそ、彼女は心配して連絡してきたのか。
連絡をしてきたのは僕の存在を心配してくれる数少ない幼馴染み、
幼稚園のときに、僕が知らない街に転校したときに、僕に始めてできた友達だった。
彼女は少し強気な性格で、それでいて面倒見が良い姉御肌だ。それゆえに僕が小学校高学年から中学校にかけて思春期になると、一緒にいるのが恥ずかしくなったりもした。昔は一緒にお風呂にはいることもあったけれど、今はもう精神的にも入れない。
そんな彼女だから、今回だって見逃してはくれなかった。美嶺は、僕がまえの彼女と分かれたことはすぐに気がついた。だから心配していたのか、春になって最初に大学に行った日に顔を合わせると、安心したようにとびきりの笑顔を見せて、僕の方にかけよってきた。
大学の授業がつまらないからサボっている、だなんて言えないなぁ……
美嶺と僕は、同じ経済学部だ。僕が経済学部にすると、心配だからと言って彼女もついてきた。
彼女は僕よりも1ランク上の大学の文学部にも受かっていたのだけれど。
まあ、そんな昔話はよしとして、今はそんな彼女の通知も無視を決め込むことにした。
なんだか、ここから直接引き返して家の方に戻るのも違う気がして、もう少し進んでから1週して帰るようにしてみよう、と考えた。
しばらく、なにも考えることなく、顔を少しあげて、ただ空だけを眺めながら歩いていた。所々目の前にも注意をする。とはいっても、車が通るような道でもないし、自転車ならベルを鳴らしてくれるし、人なら視界にうつってからでも反応はできるけれど、一応はそうした。
ぽつん。
肌につめたい何かがあたった。
ぽつん、ぽつん。
水だ…液体か……というか雨か。
ああ、めんどくさい。せっかく、雨が上がってから出掛けたのに。もう帰ろう、というところで雨が降る。
ツいてないなぁ。
僕は傘なんて持っていない。両ポケットに財布とスマホだけを入れて手ぶらで歩くのが至高だと考えている。
しかたなく、雨宿りをしようと足早に進む。幸いまだ雨足は弱い。
少し歩いて道を曲がると、カフェがあった。こうなってしまってはしょうがないと、そこによろうと僕は向かう。
そして、
いざ店内に入ろうと扉の方を見てみると、そこには女性がたっていた。その女性は、しきりにお店のなかを覗いていた。
どうしたんだろうか……
しばらく様子をうかがっているけれど、彼女は一向にお店のなかに入りずらかった。両手はぎゅっと握られていて、力がこもっているのが分かる。
もしかして、お店のなかに入りたいのか?
僕は声をかけてみようか少し考える。
声をかけてしまっても良いのか?普通に考えると明らかに怪しい人だ、店内のようすをみてみると、何人かのお客さんが彼女のことを不審そうに見ているのが分かる。
ということは、このお店のなかに待ち人はいない?
見たところ空いている席はすぐに見つかる。
なにか困っているんじゃないのか?
僕はその結論に至る。声をかけてみることにする。
なぜか、深呼吸をひとつしてから。
「あ、あの~、何かお困り、、、ですか?」
「ふ、ふえええあ」
彼女は僕に話しかけられると、体がビクッと跳ねて、反射的なのか、振り返り僕の顔を思いっきり叩いてきた。
い、痛い。
声なんか、かけなければよかった……。
そのときの僕は、まだそう思っていた。
雨の日に、また。 湯々 @kisetunoowari
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