ワールド・リベレーション

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第1章

第1話 家宝の剣が折れた

 耳の奥に響く甲高い音が手元で弾け、風切り音が遠ざかっていく。


 輝かしい陽の光を照り返す鉄屑と化した剣身が、風車のように回転して地面に突き立った。草原の鮮やかな緑を押し潰す鈍い音が届く。


 柄より先を失ったブロードソードは、もはや武器と呼べる代物ではなくなっていた。ほとんど根本から折れており、それを構える姿は滑稽そのもの。


 黒髪は汗で額に張りつき、顔は土まみれ。まだあどけなさの残る顔つきには焦りの色が浮かんでいた。肩で息をし、滴る汗を汚れた袖で拭う。鎧の類は身につけておらず、衣服は傷や擦れが目立った。所々にくすんだ赤が滲む。


 ラインボアと呼ばれる大猪のモンスターを睨みつけ、エイルは数日前に泣きながら送り出してくれた両親を恨んだ。


 我が家に伝わる家宝だと渡された、鏡のように曇りのない剣身のブロードソード。それはたった一振りで役目を終え、大地に突き立つオブジェとなった。


 それはまるで墓標のようで、エイルはぞっとしながらも気を取り直して敵に意識を向ける。


 ラインボアは全長二メートルが標準と言われているが、エイルの目の前にいるのは一メートルほどで、まだ子供だった。全身を覆う焦げ茶色の毛は成長すると硬い剛毛になるが、子供のそれはまだ柔らかく、下顎から生える二本の牙は小さく細い。それでも、男性にしてはやや頼りないエイルの薄っぺらな肉体を貫くには十分だろう。


 ここまでエイルが手こずっているのは相手が子供だから攻撃しあぐねているとか、侮っていたとか、そういう理由ではない。


 ただ純粋に攻撃する隙がなく、避けるだけで精一杯なのだ。


 つまるところ、幼いラインボア相手に一方的に押されるほどエイルは弱かった。


「おかしい……あの人と同じように戦ってるはずなのに」


 無くなった剣身を見つめ、エイルは過酷な現実に押し潰されそうになる。


 ラインボアは直線的な攻撃が特徴で、慣れていない者でも非常に戦い易いモンスターだった。


 だが、エイルの攻撃はまったく当たらない。相手の攻撃は辛うじて横に跳んで避けている。一回一回地面を転がるという無様な回避方法はいい笑いものになるだろう。それくらいには恥を晒していた。そうして、ようやく攻撃が当たったかと思えば剣が折れた。


 万事休す。あと少しで目的の街だったというのに。


 ラインボアが前足で地面をひっかき砂埃が舞う。鼻息を荒くして、大地を踏みしめる四足に力が込められる。一瞬の溜めの後、ラインボアは跳ねるようにして駆け出した。


 エイルは柄だけになったブロードソードをラインボアの頭目掛けて投げつけた。運良く直撃し、鈍い音が鳴る。だが、ラインボアの足は止まらなかった。それどころかさらに速度を上げる。


 間一髪のところでエイルは横に跳んだ。地面を転がり、その勢いを借りて立ち上がったものの、勢い余って止まり切れずにまた転んだ。


「カッコわる……」


 不満気味に立ち上がろうとしたとき、異変に気づいた。遠ざかるはずの足音が近づいて来る。そんなまさかと顔を上げると、ラインボアはもう目前に迫っていた。


 今までに無かった攻撃パターン。突進途中での方向転換。


 エイルは悲鳴を上げつつ慌てて立ち上がり、あろうことか背を向けて逃げようとする。


 一歩踏み出したところで背中に強い衝撃が走った。直後、身体が浮遊感に襲われる。回転する視界。何が起きているのか理解が追いつかない。


 すぐに重力によって引き戻され、今度は全身に衝撃が襲った。身体がバラバラになったと思うほどの痛み。肺から空気が絞り出され、喘ぎながら呼吸を繰り返した。涙で滲む視界を拭い、苦しみに耐えて身体を起こす。今度こそ逃げようと膝を立てた。


 だが、もう遅かった。


 三撃目。ラインボアはまたしても途中で方向転換を図り、エイルにとどめを刺そうとその矮躯で大地を踏み鳴らす。草花を散らし、猛突が迫る。


 ああ、ここまでか。エイルは起き上がるのを辞めた。


 どうせ死ぬのなら惨めなのは嫌だ。潔く死のう。


 その思いとは裏腹に恐怖で顔が引き攣る。身体は死を拒絶していた。


 ラインボアが、その牙が、視界を埋めるほどに肉薄する。


「うわあああああああああああ」


 衝突の刹那。エイルは瞼をきつく瞑り、腕を顔の前で交差して防御する。それが咄嗟に出た行動だった。


「――しっ」


 鋭い吐息とともに、ヒュンッという風切り音が鳴った。直後、嵐のように荒れ狂う風が吹き抜ける。


 目を開こうとしたが、あまりの風圧に開き続けることができなかった。


 寸刻の間に見えたのは下から振り上げられた剣と、それが辿っただろう軌道上で幾本もの血筋を噴き出しているラインボアだった。


 見ていたはずなのに、その剣筋をまったく捉えることができなかった。


 暴風が過ぎ去り、ようやく目を開けた頃にはラインボアの姿は跡形もなく消え去っていた。


 エイルは唖然とした。次元が違う強さ。


 陽の光をまったく反射しない黒色の片刃剣を持った女性が、それを鞘に収めてエイルに向かう。ファルシオンと呼ばれるその武器は剣身にわずかな反りがあり、切っ先だけが両刃になっていた。


 エイルは彼女を見た瞬間、その類まれなる容姿に息を呑んだ。整った顔立ちと透き通るような白い肌。華奢な体格にも関わらず、強さを感じさせる風格があった。


 風に流れる美しい長髪は彼女の剣と同様に光を飲み込むような深い黒。全身黒尽くめの彼女は鎧や盾を身につけていないが、俊敏性を最大限に発揮するための選択だろう。服装で特徴的なのは、長い足にピッタリと張りついた薄いパンツの上にスカートをひらめかせているところだ。


 切れ長で金色の双眸がエイルの視線とぶつかった。


 エイルはその姿に少しだけ胸が詰まりそうになる。似ていた。エイルが憧れるあの人に。だが、似ているだけで本人でないことは明白だ。


 憧れの人はもっと年齢が上。エイルは数日前に一八歳になったが、目の前の彼女も同年齢くらいに見える。


 彼女はラインボアを一瞬で葬ったとは思えない細腕でエイルの胸ぐらを掴むと、もう片方の拳を握りしめて背中の方へ大きく引いた。そして何の躊躇いもなくエイルの頬を打ち抜いた。


 鈍い音が響き、エイルの身体は数メートル飛ばされた。地面を転がってようやく止まり、その衝撃で飛んでいた意識を取り戻すと、頬を襲う痛みに呻き声を上げて転げ回った。


 一呼吸のうちに移動した彼女は足元で悶絶するエイルを見下ろし、口元を歪ませた。金の瞳が冷たい色を放ち、吐き捨てるように言葉を突き立てる。


「雑魚が。軽い気持ちで勇者の真似事してんじゃねえよ。てめえみてえのが同業者だと思われると迷惑なんだよ。さっさとおうちに帰ってママの乳でも啜ってろ」


 苛立ちの込められた声とともにエイルの腹部へ爪先が突き刺さった。


 またしても数メートル飛ばされた先で、エイルは込み上げたものを吐き出した。息をする度に鳩尾が痛み、いくら肺に空気を取り入れても苦しみは収まらない。


 滲む視界の先で、黒髪の女性に数名が歩み寄る。


「ちょっと、シェリー駄目だよ殺しちゃ。せっかく助けたのに」


「そうですよ。まだ駆け出しの人じゃないですか」


「別に殺そうなんて思ってねえよ。見ててむしゃくしゃしたからぶっ飛ばしただけだ。こんなのに構うこたねえよ。行くぞ」


 つまらなそうに鼻を鳴らし、シェリーは踵を返してその場から立ち去った。


 最初にシェリーに話しかけた、ライトグリーンのポニーテールを揺らす少女がエイルに駆け寄った。


「ごめんね。シェリーったら乱暴で。けど、悪い子じゃないんだよ」


 丸顔で、シェリーよりも幼い容姿をしている。人懐っこい笑顔がエイルの警戒心を解いた。


「私はフーリルって言うの。フーって呼ばれてる。今、治してあげるね」


 フーリルはエイルの身体へ手を翳すと、髪と同じ色をした瞳を閉じて流麗に言葉を紡ぐ。


「我が名の下に命ず。生命の導きをここに。癒やしの光を彼の者へ。解放リリース――癒やしの光サナ・ルクティオ


 柔らかな光がエイルの全身を包み込む。その瞬間からあらゆる痛みが消え、身体が楽になっていく。


 蒸発するように光が消え、身体を起こしたエイルは驚きの声をあげた。


「すごい! 治ってる!」


「ふふふ。魔法も知らないの?」


「知ってはいますけど、僕の村で使われていたのはもっとしょぼかったです」


「そうなの? 以前は魔法を使えなかったり、力が弱かったりしたけど、今は普通に使えるはずなんだけどな。……こう言ったら気に障るかもしれないけど、君、剣士向いてないんじゃない? 魔法使いとか、別のサブクラスに転向してみたら?」


 そう言い残して、フーリルはシェリーたちを追いかけて行ってしまった。


 話し易く、明るい少女だった。素直で良い子なのは間違いないだろうが、包み隠さず真実を話してしまうという無意識の残酷さを持ち合わせていた。


 エイルは彼女の助言を聞くつもりは毛頭なかった。実際、自分に剣士の才能もセンスもないことは先ほどの戦いで十分に実感した。だが、だからと言って他のサブクラスになることはできない。それくらいなら、いっそ勇者になることを辞めて村へ帰る。


 剣士でなければならない。その理由がエイルにはあった。


 すっかり身体の元気を取り戻したエイルは立ち上がり、全身を見下ろした。傷は完治しているものの、服の汚れや破れた箇所はそのままだった。


 治癒魔法は肉体にのみ効果をもたらす。物を治す場合には別の魔法が必要だった。


 よし、と気合いを入れたいところだが、回復した身体とは裏腹に気分は最悪だった。


 自身の弱さと他者の圧倒的な強さを目の当たりにし、さらにはそのことを出会ったばかりの他人に指摘され、心はボロボロだった。


 嘆息し、がっくりと肩を落とす。なかなか盛大に村を送り出された手前、そう簡単に帰ることはできない。ならば、行き先は決まっていた。


 当初の予定通りカイアフロトへ向かう。


 カイアフロトは勇者登録が行える街だ。エイルはそこで登録し、勇者として魔王を倒す旅へ出ようと思っていた。


 だが、少し考える必要があるとエイルは憂鬱を吐き出した。


 シェリーの言葉が思い出され、胸を刺す。


『軽い気持ちで勇者の真似事してんじゃねえよ』


 何も言い返すことができなかった。何故なら、その通りだったからだ。悔しい想いを呑み込み、甘んじて受け入れるしかなかった。



 憧れの人に会って告白するために勇者になる。


 そんなこと、言えるはずもない。

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