第六話

 この日は六時間目に小テストがあるということを完全に忘れていた。英語表現のテストだ。勉強し忘れて散々な結果だったのは言うまでもないだろう。


「今日、伊東は休みか。珍しいな」


 その言葉を何回聞いただろうか。どうやら僕が選択した月曜日の授業は、彼女が選択したものと全く同じだったらしい。そのため、一時間目から六時間目まで、先生が替わるたびに彼らは同じ事を言った。


 佐倉の「見送り」を終えてから二日経つが、伊東と連絡が取れていない。担任が特に言及しないので、家には帰っているはずだ。帰ってこないのであれば親が学校に連絡するはずだから。


 自殺支援プロジェクトは大体週に一回のペースで開かれる。佐倉を依頼者に含めなければ、そろそろ依頼があってもおかしくない。それに、僕は伊東が心配だった。


 今日こそは伊東の家を訪ねてみよう。


 僕は学校が終わるとすぐに伊東の家を目指した。時刻は午後四時、本来であれば僕が行ってはいけない時間だ。なぜなら、妹が帰ってきているから。


 学校から自転車を走らせ、記憶の中から彼女の家へ続く道を辿る。赤い自販機があって、その角を曲がる。そう、この道だ。まっすぐ行けば、彼女の住むマンションがある。


 駐輪場に自転車を停め、エレベーターを目指す。


 しかし、僕がそのマンションを登る必要はなかった。エントランス付近に、見慣れた長い髪の女性がいたからだ。


「伊東……!」


「え、は、はい?」


 だが振り向いた顔は、僕が求めている相手ではなかった。その女性の怪訝な視線を受け、僕は慌てて弁明を試みる。


「あ……? すみません、間違え、ました。人違い、でした」


 落ち着け、焦りすぎた。途切れ途切れの謝罪に、女性は更に目を細める。


 これだけ行動を共にしたのに、髪型だけで見分けるなよ、自分。仮にも相棒なのだから。


「あっ、もしかして、古谷さんですか?」


「……そうですけど、もしかして、妹さん?」


 突然名前を呼ばれた僕は、一瞬のうちに相手が誰なのかを理解した。


「はい。伊東理乃といいます」


 彼女の妹を名乗る女性は礼儀正しく頭を下げ、僕に挨拶をする。


「えっと、理乃さん。なんで、僕のことを?」


 伊東は妹に自殺支援プロジェクトのことを話したのだろうか。


「お姉ちゃんから聞きました。いい友達が出来たんだって」


 弾けるように笑う妹の様子は、以前の僕が抱いていた印象とは似ても似つかなかった。人に怯え、自分の部屋に引きこもり、誰とも目を合わせない。少なくとも目の前にいる彼女は、明るく活発で、学校にいるときの伊東を彷彿とさせた。


 僕はその様子を不思議には思わなかった。


「ありがとうございます、お姉ちゃんと仲良くしてくれて。昔、事件に巻き込まれてからずっと塞ぎ込んでたんです。まあ、無理もないです。でも、男性のお友達だなんて、ビックリしました。ちょっと前まで、男性を怖がってましたから」


 僕はその言葉で確信した。妹が強姦に遭ったというのは彼女の嘘だ。被害を受けたのは妹ではなく、自分の方だったんだ。僕と妹を会わせないようにしたのは、妹の元気な姿を見せないようにするためだろう。


「女っぽいって伊東に言われたんだよね」


 僕が嘲笑を浮かべると、彼女は吹き出すように笑った。


「ふふっ、なんて失礼な」


「本当だよ」


 伊東に倣って、わざとらしく溜息を吐いて見せる。


 繋がっていく点たちの中で、一つだけわからないことがあった。もし伊東本人が被害を受けたのであれば、佐倉は伊東に対する強姦を止めようとしたことになる。だとしたら、伊東が恨むべきは佐倉ではなく、彼女を襲った犯人たちなのではないか。


「ああ、そうだ。私、お姉ちゃんから預かってるものがあるんです」


 そう言って彼女はリュックサックを探った。


「預かり物? ――って、大きいな」


「よくわからないけど、パソコンらしいです」


「パソコン?」


 なぜパソコンを? そう疑問が浮かんだときには既に、答えを理解していた。


 僕に自殺支援プロジェクトの管理人を押し付ける気なのだろう。


 別に、それでもいいと思った。


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