そらのかなた

厚伊めると

はじまり

 白峰しろみね 空乃そらのは目に映る全てが崩壊した街の中にいた。


 空は不気味なほどに赤く染まっている。

 道路には瓦礫が積み上がり、所々崩落して深い穴が口を開ける。


 ビルだったものはまるで異常な質量をぶつけられたかのように崩壊し、所々から鉄筋を覗かせている。


 死体がそこにいて当然と主張するように転がっている。


 生きている者がいないわけではない。

 しかし、五体満足な人間は見当たらなかった。

 体の一部が欠損している者はまだましな方だ。

 頭蓋が砕け、中身を覗かせている者。溶解した体をボトボトと垂らしながら歩く者もいる。


 その全てが血や臓物にまみれ、その眼に狂気を宿している。それでも生きている。


 血の気が引いた。胃液がこみ上げてくる。膝をつき、砕けた道路に胃の中身を戻してしまう。


「ねえ」


 いつの間にか正面に何者かが立っていた。心臓が早鐘を打つ。

 妙に聞き覚えのある、けれどありえないはずの声。


 恐る恐る顔を上げる。


 そこには、空乃自分がいた。


 唯一五体満足で。しかし他と同じように目に狂気を宿している。

 それはゆっくりと空乃に手を伸ばし――




 

「そら姉?」

 

 こちらのことを心配するような、聞き慣れた声。彼方の声だ。

 一気に現実に引き戻される。

 その一声で空乃は映画館にいたことに気がつく。

 既にスクリーンにはエンドロールが流れていた。




 次第に劇場内はざわざわとしてくる。

 空乃には呆然としている人が多いように感じられた。


 それにしてもあれはなんだったのだろうか。

 不安になり周りを見渡す。けれど、非日常の住人はどこにも存在しなかった。


 しかし夢にしてはリアルすぎる。

 細かいところはもう朧気にしか思い出せないが、未だに心臓が激しく鼓動している。


 不安な気持ちに反するように劇場内が明るくなっていく。

 思案するうちにエンドロールは終わっていたらしい。



 シアター内から出て売店前。


「そら姉すぐに寝ちゃってたよ? 流石は立てばちびっ子座れば幼女、歩く姿はただのロリ」


「うるさい」


 いきなり姉に向かって失礼すぎる。


「それはそれとして映画の感想だけどさ……この映画、控えめに言ってクソだよ」


 彼方はきっぱりと、しかし無駄なトラブルを生まぬよう、空乃にしか聞こえないような声量で、そう言った。

 

「そ、そうなんだ」


「そうなんだよそら姉、あれは酷すぎる!演出は安っぽいし演技もダメダメ、セリフに至っては棒読みだし!」


 彼方は饒舌に不満を訴える。ここまで不満を訴える彼方はなかなかに珍しい。

 この映画を一番楽しみにしていたのは彼方なので期待を裏切られたのだろうか、と考えると理解はできた。


 しかし、眠っていたのか。

 それならあれは夢ということでいいだろう。

 夢ということにして早く忘れてしまいたいというのもある。

 それに、あれこれ考えるのは彼方に心配をかけてしまうからよくない。


 彼方は映画への不満がますますヒートアップしていく。一日中、下手すると翌日までも不満を言い続けるかもしれない。 


「まあまあ、嫌なことは美味しいものでも食べて忘れちゃおうよ」

 

 だから、食べ物で釣ることにした。


「美味しいもの奢ってくれるの!?」


 彼方は食べ物に釣られやすいというのを加味しても予想以上の食いつきだった。

 目が輝いて見える。先程までとは大違いだ。


「流石に一日中不満言い続けられても困るしさ……」


 そう言うと彼方は少し申し訳なさそうに苦笑いをした。

 けれど食欲には逆らえないのだろう。

 すぐに「そら姉、早く行くよ」と主張する。

  

 だから、「今行くよ」と言おうとして、ふと何か重い物が動くような音が聞こえた。特別気にするようなことではないはずだ。


 もしかしたらスタッフが何か物を運んでいる音が聞こえたのかもしれないし、そうでなくても空乃にとっては関係のないことなのだから気にする必要はない。

 けれど、妙に引っかかる。今すぐに急いでここを離れなければいけないような。そんな嫌な予感がした。

 そのなんとも言えない感覚は気味が悪かった。

 

「そら姉?」


 どれほど考え込んでいたのだろうか。彼方が心配するような声色で尋ねる。

 なんでもないよ、と答えようとして。


「うわああああ!」と、恐怖一色に染められた悲鳴が響く。続いて驚愕に染まった甲高い悲鳴も響いた。

 男女問わず恐怖に染まった表情を浮かべながら逃げていく。

 思わずそちらを見やる。

 

 観葉植物の枝が屈強な男性を締め上げていた。

 ただしその枝は男性の胴より太く頑強で、枝の先はまるで人間の腕のように変化している。

 そして、幹は当然枝よりも太い。中心部分は怪物の口のようにギザギザに裂けていた。

 

 締め上げる力が強まっているのか、男性は苦悶の表情を浮かべる。

 ついには泡を吹き始めた。白目を向いている。

 

 気づけば館内には空乃と彼方、締め上げられている男性しかいなかった。完全に逃げ遅れている。


 逃げよう、そう言いたかった。恐怖で声が出ない。体が動かない。彼方も浮かべる表情は恐怖一色だ。

 

 どうか見つかりませんように。そう願ったが、無駄だった。

 

 化物がこちらに気づいた。

 瞬間、根が鉢の底を突き破り、脚を形成する。

 締め上げていた男性をまるで興味がなくなったかのように放り投げる。

 ぐしゃり、と投げ捨てられた男性はぴくりとも動かない。


 化物はゆっくりと向かってくる。

 空乃にはその化物が嗤っているように感じられた。

 男性のものだろうスマートフォンはあっけなく踏み砕かれた。


 そして化物はこちらに向かって、その太い腕を振るう。

 一瞬で腕が伸び、鞭のようになり襲いかかる。

 空乃はゆっくりとそれを見ていた。死の直前には時間がゆっくり感じられると言うが、これがそうだろうか。

 


「ねえ」


 声が聞こえた。思い出したくもない、地獄のような景色の中で聞いたあの声が。

 あの時と同じように、空乃自分が目の前に立っていた。

 いつの間にそこにいたのだろうか。


「助かりたいなら、そして彼方を助けたいなら今すぐ私の手を取って」


 抑揚の少ない、やや威圧的な声で空乃自分はそう言った。

 空乃自分は手を差し伸べている。その目はやはり狂気に染まっていた。


 その手を取れば平穏な生活は戻ってこないかもしれない。

 けれど、彼方を守れないのはもっと嫌だった。


 だから、空乃自分の手を取る。

 空乃自分は微笑んだ、気がした。

 気づけば幻か何かのように、空乃自分はいなくなっていた。


 瞬間、一つの感情が心を塗りつぶす。これは怒りだ。怒りが怪物への恐怖心を塗りつぶした。

 同時に全身に力がみなぎる。

 彼方を抱きしめ後方に跳躍。

 不思議とそうできるという確信があった。そして、それは成功した。

 化物との距離が開く。7、8m程だろうか。

 遅れてさっきまでいたところが横薙ぎに削り取られる。床が砕け破片が散弾のように壁を穿つ。


「そ、そら姉……?」


 彼方が困惑した声色で見下ろす。本当はもう少し話したいけれど。そうしている間に化物は次の行動を開始するだろう。

 彼方に「そこで待ってて」とだけ言い、化物に向かって駆ける。

 化物との距離が一瞬で縮まる。その勢いのままにガラ空きの腹を蹴り飛ばした。

 身体をくの字に曲げ、吹き飛ぶ化物。壁に激突し、空気が振動した。

 けれどこれで終わりではない。追撃をかけようとした瞬間――



 ガラスが砕け散る音。そして鳥の羽ばたくような音。それもかなり大きいように感じた。

 思わず振り向く。


 彼方が、黒い鳥の化物に捕らえられていた。

 その化物は単眼で、屈強な脚を持っていた。

 「ガアアアア!」とカラスを数倍邪悪にしたような鳴き声でこちらを威嚇する。


 空乃は怯まない。

 鉤爪が彼方の首に食い込み、彼方の首元から溢れ出る赤。それを見て、恐怖よりも許せないという怒りが勝った。

 

 距離も高度も関係ない。一撃で仕留める。脚に意識を集中させた。

 飛び出そうとした瞬間――




 背中に衝撃。

 肺の空気が押し出され、硬い床をごろごろと転がる。

 吹き飛ばし、すぐには動けないと思っていた植物の化物が、大した傷もないままそこにいた。

 

「そんな……」


 意識が遠のく中、最後に見えたのは彼方を掴んで飛んでいく化物の姿だった。

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