第15話 人間
角を曲がる。なるべく、物影になっている場所を選ぶ。走り続ける。
景色は住宅街から、森や田んぼの自然に変化していた。
振り返って影がないのを確認して、茂みに腰を落とす。
待ち伏せするようにバス停に奴らは現れた。なら、自宅も見張られているだろう。
じりじりと痛みが蘇ってきた。電気での麻痺はそうもたないらしい。
とりあえず、件が戻ってくるのを待って、そうしたら次にするべき行動を、件が……。
そうして、件に守られるままなのか。
いくら件が死んでも戻ってくるからといって、傷を負い、苦しむのは一緒だ。
件の犠牲を許容しなきゃいけないほど、世界を安全な場所から守ることは価値のあることなのか。
両親には生まれたときから育ててもらった。星野や吉とは時間をかけて気の置けない仲になった。慧は気づく。その位置に、会って二週間も経っていない件が存在している。
続いていく日常に、件がぼろぼろの姿で存在しているのは死んでも嫌だ。
それに。
頭が、発狂しそうなほど痛い。
この痛みも、あのスレンダーマンとかいう奴も、慧を襲っているものだ。
慧がどうにかしなければいけないものだ。
慧の視界に、田んぼが入った。夏なので水が張られている。
これなら、とりあえず額と目に入った何かは流せるはずだ。肌を溶かすような何かより、泥の方が何倍もマシだ。
慧は田んぼの前に座りこむ。ぼやけていたけれど、水面には慧の顔が映っていた。
慧はその像を崩すようにして、左手を水の中に入れる。傷口にしみて、うめき声をあげそうになるが、先程までの痛みよりはマシだったので、こらえる。
まず、目に水をかける。
「ふぅうううッ」
歯の隙間から息が漏れる。こちらも、尋常じゃないくらいしみた。ぼたぼたと垂れる水が、田んぼの中に戻っていかないように気を付ける。あらかた目に入ったものを洗い流したと思ったら、今度は額にかけていく。
アスファルトに滴る液体が、赤黒く染まっていることに眩暈がしそうになる。
それでも、ずっと浸食されるよりはいい。痛みも、神経が空気にさらされたものだけだ。
一個問題は片付いた。
次は、スレンダーマンだ。
スレンダーマン。あの姿に慧は見覚えがあった。アメリカの都市伝説だ。瞬間移動をし、数多の触手を伸ばし、子どもを連れ去る怪物。実際にアメリカでは、スレンダーマンの教信者である少女が同い年の少女を殺害する事件が起こった。ホラー映画でも主役として出てくる怪物だ。
そんな化け物に慧ひとりで勝てるのだろうか。
ジェフという人間の殺人鬼でさえ、複数人で苦労して倒したのに。
ふと、慧は思い出す。
確か、スレンダーマンの他にもアメリカの都市伝説にジェフ・ザ・キラーという怪談があったはずだ。夜な夜な子供達の家に忍び込み、惨殺する殺人鬼である。自らの瞼を切り取り、頬を笑みの形に割いた顔が有名だ。あのジェフはそんな顔をしていなかったけれど。
スレンダーマンは言っていた。
『仕方ナいね。君、中途半端なんだモの。仮面なんかでゴマカして』
話の中、枕元で子供達に殺人鬼はこう囁く。
Go to sleep.
『おやすみだった台詞間違えた』
あの不可解な言動は、ジェフ・ザ・キラーの真似をしていたのだ。だから、あいつの仲間であるスレンダーマンも化け物じゃない。
人間だ。
慧は這いつくばるようにして、アスファルトの、その上の液体に顔を近づけた。
嗅ぐ。
血と鼻につくような酸の匂い。土。そしてそれらに隠れるようにして。
炭の香りがした。
ラグナロク現象。無重力地帯。
そこで、複数人の工事業者が作業していた。フェンスを設けるためだ。この場所は住宅街から近く、バスも脇を通っている為、早急な対策が求められていた。
そこに、ひとりの男が入ってきた。
男は、立ち入り禁止と書かれたパイロンを普通に踏み越えてきたようだ。工事業者のひとりが声を掛けようとして、一瞬、躊躇する。当然だ。
だって、その男はガスマスク姿に全身真っ黒という妙な出で立ちなのだから。
だが、その一瞬が命取りになった。
男は何かを、工事業者に向かってぶつけた。真っ赤な煙が広がる。業者の人は顔や目を抑えると、大きな悲鳴をあげた。
「ぁ! 痛い痛い痛いぃ!」
そのまま地面に倒れ、のたうち回る。辺りが騒然となる。ただ事ではないと、ひとりが警察を呼ぼうとする。残りの人間は、協力して男を取り押さえようと、集団でにじりよる。
男はそれに再び、赤い煙で応えた。
先ほどとは比べものにならない威力だった。慌てて彼らは目鼻を抑えるが、もう遅い。鼻水は止まらず、激痛に枯れた声では助けも呼べない。
男は苦しむ集団を踏み越えて、より奥に進んでいく。
そこには、トラックがあった。
車内では、若い青年がひとりご機嫌に鼻歌を歌っていた。休憩中らしい。スマートフォンで動画を見ていて、騒動には気づかなかったようだ。
バン、とその扉が開かれた。
青年は顔を上げて、明らかに同僚ではないガスマスクがいることに、息を呑んだ。そこに他の人達と同じように煙が振り掛けられる。悲鳴をあげる青年を、男はトラックから引っ張りだす。
男は扉を閉めなおすと、車のキーを捻ってエンジンをいれた。アクセルを踏み込む。
タイヤが回転する。トラックはふらつきながらも前に進みだした。
眼前、フェンスが迫っていることに気付くが、無視して突っ込む。流石、国連の規格によって作られたフェンスだ。トラックはフェンスを突き破れず、へこましただけで止まった。
男はトラックから降りると、今度は荷台の上に登った。
そのまま、全身を使い運転席の上に上がる。
目と鼻の痛みから復活した工事の人達が、ぞくぞくとその下に集まってくる。顔は憤怒と焦りに染まっている。
男はそんな彼らを見下しながら、両手を広げ、叫んだ。
「吾輩は牛鬼! 諸君らの恐れる大妖怪だ!」
沈みゆく夕日が、彼の背を照らしていた。
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