櫻ノ拾『満開』

 思えば、私がここを訪れたのは全くの偶然だった。

 たまたま知り合いの画家に凄い桜があることを聞かされ、それなら見てやろうじゃないかと思い立ってやって来ただけだ。

 最初はその程度の思いでしかなかった。


 だが幸子に出逢い、実際に滝桜を目の当たりにし、自分の処女作と再会し──そうしたことが積み重なって、現在の私が居る。時間が経つのも忘れて、がむしゃらに絵を描いている私が居る。三春から離れられなくなっている私が居る。


 約束が無くてもきっと、私は残ったことだろう。私は幸子が好きだ、滝桜が好きだ、そして三春が好きなんだ。その想いを、カンバスにぶつけていく。


 筆を入れる度に、滝桜が大きくなっている気がする。そしてその度に、どっと疲れを感じるのだ。恐らくもう既に、私の魂は食われ始めているのだろう。満開を待たずして、力尽きる可能性もある訳だ。


 しかしそれでは困るのだ。

 私達の目的は、滝桜を描き切ることにある。満開の滝桜を見ずに、この絵の完成はありえない。


「先生、大丈夫ですか?」


 心配そうに幸子がそう訊いて来る度、私は大丈夫だと応えた。


 本当は右腕が肩より上に上がらなくなっていたし、指先が痙攣して真っ直ぐな線が引けなくなっていたが。眩暈と頭痛も酷い。吐き気もする。加えて、瞼も重い。疲労感は眠気に似ていた。多分このまま眠ってしまえば楽になれるのだろう。


 分かっていた、死は永遠に続く快楽だ。だが私はどうしても、それを受け入れる訳にはいかなかった。目の前に居る彼女の為にも、そして私自身の為にも。目的を果たすまでは、私は死ぬ訳にはいかなかった。


「まけないで、おとうさま」


 ふと、愛姫の声が聞こえたような気がした。そうだ、可哀想なあの子の為にも、私は死ぬ訳にはいかないのだ。

 ぐらぐらと揺らぐ頭に喝を入れ、私は新しい色を練ろうと絵の具を手にし──いきなり足の力が抜けて、前に倒れた。


 この急激な脱力感、まさか。


「……これが、満開の滝桜」


 重い頭を無理矢理起こし、私は遂に「それ」を目撃した。

 呆然と、呟きが漏れる。


 幸子もまた同様だった。呆気に取られて、目の前で起こっている異常を見つめている。目を離すことすらできない。網膜が桜に吸い付けられているように感じた。


 薄明るい月光を浴び、燦然と輝く数億もの花達。垂れていた枝は隆起し、その様はあたかも天に向かって両腕をかざす巨人のように見えた。美しい。これ以上無く美しい。そして、これ以上無く醜い。これが、満開の滝桜。私が描きたかったものの正体なのか。


 落花の洪水は既に始まっている。あちこちで土砂崩れのように花の塊が流れ落ち、水溜りならぬ花溜まりを作り出しているのが見えた。あれに押し潰されたら即死だろうな。何となく思って、幸子がその危険に晒される位置に居ることに気が付いた。


「逃げろ、幸子!」


 叫び声は滝のように轟く落花の音に掻き消され、彼女の耳には届かない。走って連れ出そうとするも、もはや私には立ち上がる力すら残されてはいなかった。


 幸子はまだ滝桜に見惚れている、恐らく自身に迫る危険に気付いてはいないのだろう。どうする、どうすれば良い? どうすれば彼女に、私の声を届けられる──?


 混乱した頭に咄嗟に浮かんだのは、聞き慣れたあのフレーズだった。


「一つ、三春に花が咲き


 二つ、桜の滝の音響き


 三つ、泡沫の春のご到来でございます


 四つ、三春に四度の春鳴かず。来ず方哀しき御座候。嗚呼、南無南無」


 三春四文詞。私が唄うのは、これが初めてになるか。


 感情が迸るままに、私は歌い上げていた。

 唄い終わった瞬間、喉がぐしゃりと音を立てて潰れる。どうやらいよいよ死期が近付いているようだ。


 地面に仰向けに寝転がり、逆さになった滝桜を見上げる。徐々に息が苦しくなって来た。死ぬのか、このまま。満開になった滝桜を前にして、何も成し遂げられないまま死んでしまうのか。幸子を助けられないまま、死んでいくのか。所詮私は画家としても男としても三流以下だったと言うことか。


 情け無さ過ぎて涙が出て来る。

 涙で滲んだ瞳にぼんやりと映ったのは、こちらに走って来る幸子の姿だった。


 ……ああ良かった、気が付いていたのか。届いていたのか、私の最後の声は。


「先生、しっかりして下さいっ」


 助け起こす彼女に、私は何も返すことができなかった。全身の筋肉が弛緩を始めている。いずれ心臓も止まるのだろう。それで終わりだ。


「駄目ですよ。まだですよ。先生はまだ、何もしていないじゃないですか。完成させるんでしょう、この絵を? ほら見て下さい。先生の見たがっていた、満開のお滝様ですよ? 描かなきゃ駄目です。このまま死んじゃうだなんて、そんなの私認めませんからねっ」


 ああ、そんなことを言われても。

 泣きながら身体を揺さぶる幸子を、私はただ見つめることしかできなかった。もう駄目だ、もう限界なんだ。


 目で彼女に合図するも、彼女は首を振るばかりだった。

 この状況で、まだ諦めていないというのか。


「私は今までずっと、お滝様に言われるままに人間を消して来ました。それが私の仕事だったからです。毎年毎年、何年も何年も続けて来ました。何の迷いもありませんでした。姉は私を説得しようとしてましたけど、私にとってはお滝様が全てでしたから。まるで聞く耳を持っていませんでした。心から尊敬する美しい母の為に、こんな薄汚れた自分にもできることがある。そのことが嬉しくて、嬉しくて。認めて貰おうと、必死でした。

 だけど。今の私には、母と同じ位、いいえ、もしかしたら母以上に尊敬する人が居るんです。その人はどんなに絶望しても、どんなに傷付いても、大好きな絵を捨てることのできない人です。心から絵を愛し、それに命を懸けることのできる人です。

 先生、私は貴方を騙してばかり居ましたけど、先生のあの絵を見て言った言葉に嘘はありません。私は貴方の絵が好きです。そして、貴方のことが大好きなんです。

 死なないで下さい。お願いです。約束、果たして下さい。ずっと一緒に居てくれるって言ってくれたじゃないですか。こんなに醜い、塵屑のような私を、絵のモデルに選んでくれたじゃないですか。私、まだそのご恩返しできていませんよ? お願い、死なないで。大好きな先生。私にできることなら、何でもしますから。だから……逝かないで」


 私は目を閉じた。その言葉だけで充分だった。

 幸子は私を愛してくれていた。あの言葉は嘘ではなかった。その事実を知ることができて、私は本望だった。


「だめだよ。おとうさまはまだ、こっちにきちゃいけないよ」


 真っ白になった頭に、誰かが語り掛けて来る。少し高めの、女の子の声だった。

 誰だったか、思い出せない。だが、私にとって大切な誰かだったような気がする。


「おとうさまにはすべきことがある。そして、あのこがいる。わたしよりもたいせつなひとがいる。たくさんの、たいせつなことがある。ぜんぶ、なくしちゃいけないことだよ。おとうさまは、まだしんじゃだめなんだよ」


 少女の声が頭に響く。彼女は私に言う、生きろ、と。だが私に、生きる価値などあるのだろうか。私にできることなんて、絵を描くことくらいだ。私の絵に、そこまでの意味があるのだろうか。


「それをこれからさがすんだよ。かちとかいみとかは、おとうさまじしんがつくりだしていくものなんだよ。

 さいしょからかちのあるひとなんて、だれもいないよ。

 それに。すくなくともあのこは、おとうさまのかちをしっているよ」


 あの子……?

 脳内に疑問が膨らむ。あの子とは何だ?

 私に価値を見出している存在が、あの世界に一人でも居るというのか?


「いるよ。ゆうきをだして、めをひらいてごらん。きっとそこに、あのこはいるから」


 私に目を開けと。もう一度あの世界に戻れというのか。苦しみしかないあの世界に。憎しみと欺瞞に満ちた、あの世界に。嫌だ、私は嫌だ。もう二度とあの苦しみを味わいたくない。


 一人娘を人身御供に差し出し、家臣に家城を乗っ取られ……挙句の果てがこの様だ。騙され、裏切られ。生きることはそれの繰り返しじゃないか。私はもう疲れ果てたんだよ、生きることに。楽になりたいんだ。頼むからもう、休ませてくれ。


「でも、しんじゃったらもう、あのこにはあえなくなるよ」

「ずっと一緒に。約束、ですよっ」

「──あ──!」


 女の子の声と、もう一つ別の声が重なった。

 金槌で力一杯叩かれたような衝撃が私の全身を駆け巡り、眠っていた意識が呼び起こされていく。


 思い出した。そうだ、そうじゃないか。私はもう独りじゃない。あの世界には、あの子が居るんだ。ずっと一緒に居ると誓った、世界でたった一人のあの子が。あの子が、私の帰りを待っている。


「さようなら、おとうさま。わたしのぶんまで、おしあわせにね」

「せんせい……!」


 それきり、女の子の声は聞こえなくなり。瞼を開いた私の目にまず飛び込んで来たのは、泣きながら微笑んでいる、見知った少女の顔だった。


「おかえりなさい」


 ……ただいま。


 そして。

 季節は巡る。

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