皆さまの講評を受けて

洞田太郎

読んでいただきありがとうございました。

まず、この度のイトリ川短編小説賞に参加させていただいた事への感謝を述べさせてください。評議員の皆さま、参加者の皆さま、本当にお疲れ様でした。初めての作品をこの場で皆さまに読んでいただけたことは幸運でした。ありがとうございます。


謎の評議員の御三方から頂いた講評はどれも素敵なもので、大変ありがたく受けとりました。


謎のかわいいさんのご説明のおかげでこの物語に目を向けてくださった方々も多かったのではないかと思います。選ぶこともひとつの創作だと思いますが、かわいいさんの講評はこの物語を通してひとつの新しい世界を皆さんに伝えた素敵な創作活動だったと思います。読んで、伝えてくださり、ありがとうございました。


謎の夜更しさんの講評を読ませていただいて、この物語の中で自然が上位存在に置かれていないことを思い出しました。謎のネオサイタマさんの講評でも、宮沢賢治世界における自然との相違が指摘されていましたが、それは私と宮沢賢治さんの育った土地の違いによるところが大きいと思います。東北のスケールの大きな厳しい自然に比べて、私の生まれ育った土地は日照時間も長く、海も山も親しみやすく、友達の様な感覚で接してきました。神さまについても、彼らが創造主だったり絶対存在であるような気はしておらず、私と蝶の生きる世界が違い、蝶と魚の生きる世界が違うように、神さまもまた違う世界を生き、存在しているような気がしています。みんな違ってみんないいだけでなく、わるいときもあるし、ただそこにいるんだなぁという感じです。

ネオサイタマさんからも「自然に出会いに行く物語だけれど、自然はすでにここにあるのだから始まった時からゴールなんだね(意訳)」というものすごく素敵な読みを頂きまして、全く感無量です。


この物語の中身について私から付け足すことは避けたいと思いますが、その出自を述べるとすれば、私は志賀直哉の「小僧の神様」という短編が大好きで、何度も何度も読み返していまして、大好きな分個人的にあまり納得のいかないところもあり、自分なりの小僧の神様を書きたいという想いを持って何度かパソコンに文字を打つ間に出来上がったものがこの物語です。


私にとって物語を現すことは、今のところ、この世のどこかにある美を、目の前にある美を集めて現すことです。しかし実のことを言えばこの順序は逆で、目の前にある美に見惚れているうちに物語が現れてくるというのが私の中で起きていることです。

では美とはなにか。この疑問を持つ時、小林秀雄の言葉を思い出します。「美しい『花』がある、『花』の美しさというようなものはない…」

私は陶器などのうつわも好きで、現代作家のものを集めつつ骨董にも目を配っている初心者ですが、小林秀雄が骨董を愛でるようになって書くものが変わったという意味が、最近になって少し分かってきたような気がします。目の前のぼんやりとしたものをぼんやりとしたもののまま愛でる姿勢がなければ骨董を愛でることは難しく、誰も本当にそれを基準づけることはできないながらも、長い年月をかけて美しいものは評価を得ていく、その気の遠くなるような流れに身を置くことの面白さ、そして厳しさ…。


まとまりのない文章となりますが、ものにはそれぞれの得意な分野があると思います。フォークは刺す、箸は挟む、スプーンは掬うことが得意なように、絵には絵の、彫刻には彫刻の、文章には文章の得意な美の形があり、その得意な分野を見極めて活かしていく。そのことに私は意を尽くしたい。もちろんその活かすものには「私」も含んでいますから、私の得意な形はなにか探求して、相性の良いものたちと仲良くやっていけたらと思っています。そのためにできるだけ彼らに、そして私に、正直でいたいと思います。


読んでいただきありがとうございました。

またいつか皆さんに物語をお伝えできたらと思います。

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皆さまの講評を受けて 洞田太郎 @tomomasa77

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