ちんちん

名が待つ

ドクペ

 二酸化炭素を含んだ(本当に含んでいるかは分からない)重いゲップ。鼻がつんとし、涙が浮かぶ。親指人差し指中指、の三本の指で持った缶の中で糖液が揺れている。僕の視線の先、右ポケットには財布、左ポケットには四角い……煙草? が入っている。その形がよく分かる、そんな風にtightなズボンを履いた男性の尻を見ている。車内は静寂に包まれていて物音を立てることは罪だった。青白い蛍光灯が白い人々の顔を浮かび上がらせ、僕は缶のジュース(独特の香りのするもの)を煽って、その目と視線が合った。崎○軒の弁当をぶら下げた皺のある手、齢は六十近いような、やはりおばさんだった。缶で飲む人は車内では少ないのだろうか? そうである気もするしそうでない気もする。

 くしゃり。缶が潰れる。金属の擦れるような音が目を呼び寄せる。僕は次に対面に座る女の白くて綺麗な太腿と可愛い膝小僧に視線を合わせていた。だから人々の視線が集まるのが分からなかった。いや、分かってはいたのだが、予想以上に目がこちらを向くので、注視されているという事実を自分は知らないのだということを自分にも他人にも思わせるために女を見ていたのだ。……そう、思わなくもない。事実は思考の瞬間を過ぎてしまえば本当かどうかなど分かりはしないのだが。

 女の白い肌はやけに艶めかしい。僕は今現在欲情してはいないのだが、自分が欲情している場合もありありと想像が出来、そして同じように他人が欲情するだろうなというのも分かるのであった。だからほら、隣に座る五十あたりの男がその足に視線を合わせたい合わせまいと逡巡しているのが手に取るように分かるのだ。

「辞めんの?」

 隣から声がした。スーツ姿の私の同僚が電子板をスクロールさせながら呟いていた。反射した眼鏡に〇〇新聞とある。そして現首相の演説写真。

 僕は「え?」という顔を同僚に見せる。それを見て察した同僚が「しまった」という顔をして(車内には静かにしなければいけないというような同調圧力が発生している)、車内を軽く目で見渡しながら電子の板に映る記事を僕に見せた。

『潰瘍性大腸炎、首相辞任』

 厳しいフォントが主張している。ものすごく重大で誰もが知っていなければならず今後事態が大きく動く、ようなことをフォント自身が語っている。記者名も「新聞明朝体」とある…………。けれど僕個人、この体にはなんの影響もないような気がするのは気のせいだろうか。僕に影響を与えるものはなんだろうか、僕を動かすものはなんだろうか。同僚に影響を与えるものは? 同僚を動かすものは? 誰にも何も分からず、互いに相互不干渉的世界で誰が誰を実際に動かしうるのか? とてつもなく複雑でとてつもなく難しいことがこの世の因果を決定づけていて、僕たちはルートを辿るように息をしている? いやいや何も難しいことはない。一番に信用できるのはこの僕の下半身の隆起と女の麗しい白い肌に他ならない。何を難しいことを考えている? 実のところ何も考えてなどいない。

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ちんちん 名が待つ @takumiron

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