4.とつぜん暴力エンカウント


 未知への恐怖と突然の騒音で心臓が煩いくらいに高鳴ったが、森では聴こええることはない異音を、嫌に研ぎ澄まされた俺の耳は聞き逃さなかった。木々がざわめく音色の後ろで硬質な物がぶつかり合う音が鳴っている。

 人が居るのか? なんて、期待と不安が入り交じるなか、ゆっくりとそちらへ視線を移した刹那、今度は大砲の発砲音のような轟音が夕暮れの空に轟いた。

「ッ――!?」

 驚いた小動物のように身体をビクリと反応させながら、乾いた喉を鳴らし、おそるおそる音の方向に目を向ける。すると、全てを疑いたくなるような光景が両のまなこに飛び込んできた。


 今、自分の視覚が異常でなければ、そこにあるのは薄紅色をした燃え盛る炎だ。


 まるで意思を持つかのようにゆらめいて、秒刻みで勢いを増す炎は手当たり次第に周囲の木々達を燃やしていく。

 ごうごうと、燃え盛る炎はあっという間に山火事の完成……なんて冷静に考えている場合じゃない。はやくここから離れなければあっという間に巻き込まれて焼死体にクラスチェンジ案件だ。


 だが、大砲の発砲音のような轟音の正体は眼下に広がる炎ではなかったようで。薄紅色の炎の壁を突き破ってソレは現れた。

「う、おぉお!?」

 大地が揺れ、地面が弾けて土煙が舞い散る。勢いよく地面に叩き付けられたソレは俺から2m離れた位置で静止――音の正体はコレだ――いったい何なのかを確認しようと恐る恐る近づき、目を細める。ゆっくりと土煙が晴れ、シルエットだった物の正体が瞳に映る。


 其処にあったのは、だった。


 頭部から生えた巨大な一本の角は天を穿つかのように力強くそそり立ち。大きな顔面には印象的な赤い瞳と裂けた口から覗く鋭利な牙がこの生命が異形であることを知らしめる。

 パンパンに膨れ上がった筋肉に守られた玉のような上半身、逞しい腕の先、その指先には血がこびり付き固まって赤く滲んだ爪が怪しく光る。筋肉の鎧を隠すように青い毛がびっしりと生え、それを更に覆う様に黒い靄のようなものが巨体周辺を漂っていた。

 この生命体に名称があるとしたらきっと。


「鬼……」


 幼いころ読んだ絵本でみた鬼という空想上の生物が正にこのような外見だった。

 そんな記憶と共に冷や汗が額を流れていく、その圧倒的な存在感にただ立ち尽くすことしかできなかった。


 鬼が動き、目と目が合う。


 自身の顔くらいの大きさはあるであろう赤く光る瞳に、飽きるくらい見てきた自分の顔が映っているのが判る。

(あぁ、なんて間抜け面だ)

 途端、体内の時間が薄く、引き伸ばされていくようなぼんやりとした何かが身体の奥底から這い出てきて。思考が一時停止と、再生を、繰り返す、かのように。

 刻み、刻み、に流れ、ていっなん、だ。これ、は。


 瞳の、色が、あか?


 ビー玉みたい、綺麗。あたまにつの、くち、にきば。うでにつめ、びっしりと、垢みたいにこびりついた血……あ? 血? ……。

 血ィ? は、はは、ははは? ははは、は。は。ダメジャナイ? 逃げッ。

 逃げろ? 逃げ、逃げろ? 逃げたほうがいい? にげ、ろ。にげなぎゃ。にげおrにgろにげげげげげげ。

 【死ぬぞ】

 それは一秒にも満たない時間だった。

 肉体は迫りくる命の危険を前に身体機能をフル稼働させて、その一秒を薄く長く引き伸ばし、全神経と全細胞は自分に危機を告げる。

 【死ぬぞ】

 直感する死の予感に、呼吸のリズムが乱れる。それを強制的に修正するように、沢山の酸素をめいいっぱい肺に詰め込んで。今度は逃げるために、全速力で走り出した。

「はぁ――ッ。はぁッ、はぁ……!」

 鬼に背を向け、走る走る走る。背中に汗でべったりと張り付いたシャツの感触の気持ち悪さを感じてる、感じている。この気持ち悪さを感じている間は生きている、生きている、生きている。

 縋るように、見逃してくれと懇願して、ひたすらに走る。けれど、腹をすかせた動物が餌を前にして飛びつく様に、鬼が俺みたいなひ弱な肉を逃がすわけがなかった。


 鬼は何処か苛立っているような感情を唸り声に乗せ、何処からともなく吹いた烈風が俺の毛髪を靡かせる。

 それを毛先が感じ取った瞬間、生温かな何かが肌を渡り。何、と判断する間もなく俺は自分でも驚くほどの反射神経で右へ方向転換し、その先へ頭から飛び込んだ。あの烈風は間違いなく鬼の吐息だ。何故なら飛び込んだ瞬間に視界の端が確かにとらえていたのだ。至近距離に迫る鬼の顔面を、確かに、しっかりと。


 コンマ数秒遅れて鬼の巨大な手が振り下ろされて、少し前まで居た空間を抉り取った。

『GAAAAAAAAAAA!!』

 空間と共に抉り取られた大木がバキバキと音を立てて、ゆっくりと重力に従い横たわる。怒号のような叫び声が響く。

 そして。

「え――?」

 凄まじい衝撃が自分の足元から上昇気流のように吹き荒れ、身体を浮遊感が包み込んだと思えば突然、鈍器に殴られたような衝撃が全身を襲った。

 身体が回転している。縦に、横に。脳が揺さぶられ、三半規管が現状把握を放棄する。視界はぐちゃぐちゃに乱れ、四肢を風が駆け抜けていく。

 自分がどの方角を向いて、どういう体勢で、どうなっているのか、全ての現状が把握できず、為す術もない。

 はやくおわってくれと祈るようにぎゅっと瞼を閉じて、息を止めて、身体を襲う強い衝撃に耐え続けた。

「――ぁッ」

 やがて、重い振動と強い痛みが背中から全身に広がる。あまりの激痛に、閉じていた瞼は強制的に開かれ、肺から空気が漏れ出ていく。


「ご、ほっごほっう、おッ……!! げえぇ、かはっ、はっ」


 少し遅れて、自分と同じように宙を舞っていた土埃が降り注ぎ、息を大きく吸い込もうと開いた口に、容赦なく入り込んできた。

「げ……ッお。かっ、かへッ」

 舌にまとわりつく土を吐き出しながら、眩暈を起こした視界で周囲を把握し、揺さぶられた脳で状況を理解する。今、俺は鬼に身体を吹き飛ばされて、地面に叩き付けられたようだ。背中を刺激する痛みに顔を歪ませながら、上体を起こす。

 そして、視界に映った鬼を見上げて己の最後を悟った。


(案外、声って出ないもんなんだな)


 狙いを定め、鋭い爪を振りかざす鬼。その距離はもう数センチしかなく。鬼の獣のような体臭が鼻孔を刺激する。力んで閉鎖された喉からは何の音も出ず、空気だけが抜けていく。己の末路を想像し、少しでも恐怖から逃れようと瞼を強く閉じる。


 けれど、五感が感じたのは死の感触ではなく上空から放たれる熱気と何かが燃える音と遠ざかっていく重低音。恐る恐る瞼をうっすらとひらいて、眼前を窺うと、轟々と燃え盛るが鬼の上半身を包み込んでいた。

 

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