燃える海、波打つ心

松竹梅

〇〇君へ あなたの

焼けるような海だった。


青く澄んでいた海の色は、太陽の輝きを受けて朱に染まる。

寄せては返す波の白は、オレンジ色になって迫る波に続いている。


海は私のあこがれだった。

私がどこにいようとそこにいてくれて、毎日違うはずなのに、いつも同じように映る。


日の光、風の音、波の声、潮の香り。

どれもが新鮮で、輝きに満ちている。

力強くて、少し臭くて、命の生まれと終わりが循環している成り立ちを伝えてくれる。


いや、伝えようとして伝えているわけではないのだろう。

勝手に私が感じているだけだ。

そうであってほしいと願っているだけ。

自分勝手な願いでも、海ならこのわがままも届く気がした。



少しだけ、風が強くなった。

オレンジ色の濃くなった波が、私の立つ浜辺に寄って来る。

足元まで近づいて、私の足に触れる前に、元の場所に戻っていく。

それはまるで私を取り込もうとしているようで、遠くで海を染める朱色が濃く見えた。


私はそれ以上踏み出せなかった。

焼けるような海に飲まれるのが怖かったから。

海から吹く風は冷たいのに、足を踏み入れたら燃えてしまいそうだった。


海と違って火は怖い。

昔から何もかもを燃やしてしまうから。

木も、服も、日常も、色鮮やかな思い出も、黒く焦がして消してしまう。

海は好きだけど、夕暮れの海は苦手だった。


でも、今はそれさえどうでもいい。

海を焦がす太陽が、淡く輝いて目に残る。


日の光を照り返す階段を上っていく彼の姿が、シルエットになってこちらを見ているのを思い出す。

届くことのなかった瓶を、預けるように海に投げた。


学生のころ、少しだけ話した彼を私はほとんど知らなかった。

きっと私のことなんて知らないだろう。

私の知らないところで生きて、あの時と同じ笑顔で、笑っているだろう。

彼の名前を私は今でも知らないままだ。


 +++


東京、港区。


高級マンションが立ち並び、人生のすべてが許された至高のエリア。

誰もがうらやむセレブリティの坩堝。

人の欲望と尊崇の視線を集めてできた憧憬の地。


憧れていた港区女子、になったはずだった。


港区に住み始めても、生活が劇的に変わることはなかった。

リッチな場所に住めば、輝かしい生活が私を待ってくれていると思っていた。


大手証券会社は私にとって勝負の場所だった。

特段優秀な成績ではなく、特別美人というわけでもない私は、どんな所でも生きていける強さが欲しかった。


人の自由が解放されているように見えて、社会と会社に縛られないと生きていけないいびつなこの世界。

決意も、決断も、迷いも、葛藤も、すべて私の力でなんとかしないといけない。

体はもちろん、意志の強さ、気の強さが生きていくうえでの絶対条件。


女性に対してもオープンな社風をうたっていても、基本的な骨子は変わらない。

社会の成り立ちを考えれば当然の事。

男中心のこの社会はまるで獣の生きる野生そのもの。

力の強いものが得をし、弱者はいいように利用され、犬のように這いつくばって生きていくことになる。


そうなってしまった同期を何人も見た。

そうなる前から諦めた後輩を何度も見送った。

そうなるまいと、私は努力をし続けた。


営業成績を上げるために、ノルマ達成に力を入れた。

先輩の技を盗むために、上限ギリギリまで残業に付き合わせた。

早く出世するために、会食でのセクハラも我慢した。

生きる強さが手に入るなら何だってやった。


私にはそれができる気の強さがあるという自負があった。



でも、もう疲れた。

私はこの世界で生きるのに疲れた。


昔の写真の私はこんなに笑顔なのに、今の私の笑顔はなんだ。


成績が上がって喜んだときは笑顔。

企画を発表するときも笑顔。

挨拶するときは誰に対しても笑顔。

何かに失敗した時も笑顔。

家に帰っても常に笑顔。


笑顔、笑顔、笑顔。


笑顔ってなんだ。

笑うってなんだ。


最近同僚は私を見るとひきつった笑顔を見せてくる。

別に私は笑っていないなずなのに。

私は誰に対して笑っているのか。


中の上くらいの今の生活に笑っているのか。

それとも理想と違う生活を憂いているのか。

それとも、仕事以外に何のやる気も起きない自分自身に対して絶望しているのか。


意識していた食生活も、好きだったファッションも、全然興味がわかなくなってしまった。

渇望していたはずの出世さえ、どうでもよくなってしまった。


何に対しても笑顔を向けている私は、ひどく脆くて、壊れそうだった。

きっと今喜びを見出しても、それは無理やりの笑顔に違いない。


私が心から喜ぶことはあるのだろうか。


誰でもいい、嗤ってほしい。

そうすればきっと私も嗤えるから。

何もかもを捨てて、投げ打った自分を嗤うことができるから。


誰か、誰かいないの?

私をわらってくれる人は。


もう、誰もいてくれないのだろうか。



ふと彼のことを思い出した。


嬉しいことがあると必ず笑う、笑顔の素敵な彼。

自分の事だけでなく、他人の事でも笑顔を見せる。

いつか見た笑顔は、この世界の何よりも輝いていた。


まるで太陽のような人を思い出す。

明るくて、あたたかいものを湛えた、希望のような人。


名前はいまだに知らない。

なのに笑顔だけが鮮明に残っている。

強烈で、なのに優しかった。


弾いた糸が音を立てるように、私の心はそのたびに揺れた。

いいことも悪いことも等しく忘れてしまうようになってしまったはずなのに、彼のことだけは忘れられない。


なぜか海を見に行きたくなった。


くぼんだベッドで起き上がり、簡素な外着と羽織に着替える。

それから書き出しで止まったまま、書き終えられない手紙の入った小瓶を持って外に出る。

肌を刺すような風に秋を感じる晩夏。


どうしても今、見に行きたい。

そういう気分になった。


 ***


焼けるような海だった。


空も雲も、海も波も。

遠くにレインボーブリッジも、背後にそびえる高層ビルも。

僕の立つ浜辺の砂一粒でさえ、紅く燃えるように染まっていた。


僕は海が嫌いだった。

自分にはどうすることもできない、圧倒的な力と優しさで僕を呑み込んでしまいそうで。

僕のテリトリーに容赦なく攻め込んできて、自分とは違う何かに染まってしまいそうで。


きっと海にはその気はない。

いつもと変わらずそこにあるだけなんだ。

人間は自然の前では、ただ食われるだけの存在だ。

ちっぽけで、頼りなくて、みすぼらしくて、拙い存在。


学生時代、憧れていた彼女のように強くない僕は、あるがままの自分を受け入れるしかなかった。

受け入れるのが怖くなって、いつしか海を嫌いになった。

見れば自分の弱さが浮き彫りになって、すべてを投げ出したくなるに違いないから。


大きな存在として現れた彼女のことを僕は恐れていたのかもしれない。

もしかしたら、彼女のことを疎ましく思っていたのかもしれない。

なのに見かけると不思議な魅力に引き付けられた。


彼女の名前は、もう覚えていない。



大きな存在を恐れる僕は今、海を見に来ている。


そういう時がふとやってくる。

そういう気分になるときが、月に一度は訪れる。


僕はあえてそれを拒まない。

嫌いな海でも、時々見に行きたくなる衝動を、僕は大事にしている。

気持ちに従い、心に則り、感情より優先して、海に向かう。


それはもはや本能的なもので、僕にもっとも必要なものなんだ。

弱い僕が生きる思いを忘れないための、たった一つ残されたものなんだ。


理性ではわからないところで、僕の心が叫ぶ。


海を見に行きたい。


そこにきっと答えは待っている。

そんな気がするから、どんなに嫌いでも海に行く。

見てしまえば、嫌いなことも忘れてしまうのだから。


焼けるような海。

視界の端が、揺れるようにぱちんと跳ねた。


 +++


システムエンジニアは、基本的に同じことをしているだけだ。

仕事の内容は違っても、向き合うのはいつもパソコン。

決まったプロトコルを打ち、計算処理、情報操作をする基盤を固め、社会という名の世界をよりよくするためのシステムを整備する。


世界のためと銘打って職員を公募するけれど、何のためにこの仕事をしているのか、正直わからない。

会社のためか、取引先のためか、出向先のためか、それとも世に生きる不便を実感している人を救うためか。

自分のためではなく、他人のための仕事。

誰かのために身を賭して働ける人には天職のように映るかもしれない。

やりがいはきっとあると思う。


でも僕は仕事にやりがいを求めてはいない。

他人のために生きるなんて考えられない。


僕は人と話すのが怖かったんだ。


いつだったかなんて、とうに忘れた。

ただ恐怖だけは覚えている。


小学生だったか、中学生だったか、何もかも覚えていない。

しかし心に刻まれ、感情を植え付けられた。

誰かのために生きたかもしれない少年が、ふとしたことで他人を信じられなくなった。

まるで他人事のように感じる出来事は、確かに僕の歴史として、起こった事実として残っている。


それから、誰かと話した覚えはない。

生きた会話を、した覚えがない。

昔の成績のよさだけが残って、仕事をこなすだけの生き物になっている。

無感動で、無感情で、まるでプログラムみたいだと言われたときも、違うとは思わなかった。


だってその通りだったから。


僕はただあるだけの、社会をよくするかもしれないだけのプログラムになった。


そうした日々が過ぎる内に、世界はだいぶ変わった。

世界をネットワークが支配するようになって、僕の会社の仕事も増えた。

若い人が理想の転職先だと望んで入ってきて、人間らしい活気に満ちるようになった。

他者とだけではなく、企業内でも競争が生まれ、ときに協調し、一大企画を成功させようと躍起になる人であふれるようになった。

僕と同じ仕事量をこなせる人間も増えた。

僕の仕事も当然増えた。


でも、僕という存在は変わらずそこにいた。

あるだけだった。

こなす仕事が増えただけで、それ以外は何も変わらなかった。

社会はこんなにも変わっているのに。


社会に蔓延るプログラム、その一つにでも、僕はなりえているのだろうか。

僕は僕として、必要な存在として、この世界にいるのだろうか。

例えば僕が今、いなくなったとして、会社が困ることがあるだろうか。


きっと困らないだろう。


僕と同じ仕事ができる人間は腐るほどいる。

僕以上の仕事ができる人なんて吐くほどいる。


じゃあ僕は、いなくても困らない人間なんじゃないのか。

腐っても、吐かれても、蹴落とされても構わない存在なんじゃないのか。


それははたして、生きていると言えるのだろうか。

僕が存在するべき場所のはずの会社からいなくなったら、僕は生きているのだろうか。


自分に自信がない僕は、その答えを持っていなかった。



ふと彼女を思い出した。

目の前のことに一生懸命で、自分のために生きる力を持つ彼女。

彼女がすることはいつも希望に満ちていた。


暗い夜空に瞬く星を見つけたときのように、誰もが彼女に憧れていた。

願えば叶う理由があるような、進めば道があってあたりまえのような、確信めいた何かがあった。

誰にも負けないために、自分に打ち克つために、彼女は誰よりも強くあろうとしていた。


きっと今も、僕の知らないどこかで力強く生きている。

朝から晩まで机から立つことなく、いつもと同じ道を同じスピードで歩き、決まった時間に寝て起きるだけの僕とは違う。

家でもソファに座って何もしない僕とは違うだろう。


垂れ流しているだけのテレビからは、波の音が聞こえてくる。

彼女のことを思い出したのも、きっとこの音のせいだ。

そうじゃなきゃ、思い出すはずがない。

僕はロボットのように同じことを繰り返すことしかできないんだから。


考え始めると、彼女のことで頭がいっぱいになった。

名前も知らない、かつて誰もが憧れた彼女を。


映像は変わることなく、同じ波を映している。


なぜか彼女に会える気がした。

心の底から、会いたいと願っていた。


海に行こうと唐突に思った。


理由は、考えても無駄だと思った、思い出した。

行けばきっと、そこに答えが待っている。

そんな気がした。


肌をぴりりと刺すような、空気の冷えた夕暮れだった。


 ***


海はやっぱりそこにあった。

歩いて5分、マンションからすぐのところにある公園の砂浜に立つ。

長く見つめていたけれど、海はいつものように波打っていた。


傾いた太陽が水平線の先で滲み始めている。


何度も見たはずの海は何よりも大きな存在で、何よりも生き生きとしていた。

自分に、世界に絶望し、生きることが分からなくなった自分よりも。


自分の中で動き続けてきた時間はいつの間にか止まっていて、何も感じなくなっていた。

自分の時間は止まっていたんだ。

何もかもを、忘れるほどに。

この世のすべてを、どうでもいいと思ってしまうほどに。

自分に何も感じなくなっていた。


そうして絶望した果てに、海を見に来た。


海は、構うことなく流れ込んできた。

静かで止まったままの体を目覚めさせるように、波をいつまでも鳴かせていた。

自分がどれだけ生きる気力を無くしても、生きた実感を失っても、返す波が教えてくれた。


世界が止まって見えたとしても、心の時計は動いている、と。

あなたが壊れてしまったとしても、あなたはそこにいる、と。


波を捉える目が、耳が、確かに自分はここにいると感じさせる。

自分にはまだ存在するための体がある。

体さえ残っていれば、生きていると分かる、世界の一部でいられる。

だとすれば、こんな世界でも存在していいのかもしれない。


穏やかに揺れる海は、熱を感じるほど赤く染まっていた。


久しぶりに見た海は、とても綺麗で明るかった。

闇の中で見る光のように、夜空に輝く星のように、周りを照らす笑顔のように。

とても、とても、綺麗だった。

波がぱちんと、揺れるように跳ねても変わらない。


「「綺麗だ」」


自分の声と誰かの声が重なった。

横を見ると、同じようにこちらを見る人がいた。

どこかで見たような、けれどはっきりしない。

でも不思議と、目を離すことができなかった。


お互いに驚きとも、困惑とも違う、呆けたような表情だったからか、しばらく見つめ合っていた。

そして笑った、心の底から笑った。

何もおかしくないのに、どこも変なところはないのに、どうしてか笑いが止まらなかった。

たしかなのは、自分の体が今までに感じたことのないくらい、脈打っていたこと。


焼けるような色のままの海にこだまする波の音が、妙にうるさく聞こえた。

けれど、今までにないくらい心穏やかな気分になった。


「いい笑顔ですね、素敵です」

「ありがとう。でもあなたの方が輝いているわ」


昔、凛々しい姿を、輝く笑顔を、見たときと同じように。

この人は生きる力を持っている、そう思った。


波が2人の足元に迫る。

押し出されるように、背中を押されるように、2人は自然と歩み寄る。

どちらともなく口を開く。


「「あなたの名前を教えてください、ずっと好きでした」」


焼けるような海に浮かぶ太陽が、2人の影を砂浜に色濃く落としていた。

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