第10話

誰にも知られず、私と麗子はひっそりと付き合っていました。

春子の事はもう忘れようと私は努めました。彼女は桜の精だった、そうに違いないのです。春子を思い出すのは麗子への裏切りとしか思えない。春子は人でさえないのです。人でさえない精に麗子はどう対処すれば良いのでしょう。嫉妬をすることも罵声を浴びせ掛けることも何もできないのです。

でも・・・麗子は時折思いつめたような目で私を見ることがありました。私が本当に自分を愛しているのか確信が持てなかったのでしょう。

そして時は流れ、やがて春子と最初に出会った季節がやってきたのです。


辺りの桜が咲き誇る頃になっても、あの神社に行くのは怖いような気がしていました。もし春子と再び会うことができても、春子が現れなくても心が傷つくと思いました。ですが、ある春うららの日に、そんな中途半端な気持ちのまま、なぜか誘われるように私は神社の石段を登っていきました。エドヒガンの花はあらかた散っていました。薄いピンクの花びらが小石の上に柔らかく敷かれ風になぶられ、最後の花を惜しむカップルたちが木を時折、見上げ春の訪れを寿いでいました。

時折、神社の鈴がガラガラと鳴ります。そのたびに、一つの願い事が投げ入れられ、天に上って行くのです。私は願いを一つして、春子と出会ったベンチに座りました。

ですが・・・願いは聞き届けられることもなくいつまで待っても春子は現れませんでした。

 「今年は裏の桜の花振りがずいぶんと良いな」

 ベンチに座っていると目の前を杖を持ち、カシミアのコートを羽織った老人が通り過ぎながらとなりの年配の婦人に呟きました。

 「そうね、本当に見事でしたね」

 「あれは艶やかなものだ。年増の女のようだ。この桜はまだ娘っこのようなものだ」

老人は杖を上げ、エドヒガンの枝を指しました。

ほほほ、変な喩えですこと、と婦人は笑い、老人は得意げな顔をしました。春子の桜がいつもの年より花振りが良い、という話が私の心を傷つけました。私が春子を失った時のあの胸を冷たい手で掴まれた時の悲しみや辛さは何だったのでしょうか。一段と花振りが良いという事は、春子が今、幸せにいるということではないか、若しかしたら新しい男を誑かしたのではないか、そう思っている私の心は狂っていたとしか思えません。ですが、その時老人は妙な事を言い出しました。

「だが・・・あの樹はもうだめなのかもしれんな」

「どういうことですの?」

老婦人は不審げに尋ねた。

「昔、あの通りに咲いた桜を見たことがある。だがその年、桜は倒れたんだ。中がうろになっておってな。自らの寿命を知って狂い咲いたという者もおったよ」

「そうですか」

「大きな木だったものだったからな、倒れた時に下敷きになった人がいてな。それは凄惨なものだった」

「あら・・・」

老婦人は後ろを振り返った。

「いやですよ、変なことを言っては」

その時、私はふと夢の中で春子の言ったことを思い出したのです。

「あなた、私はもうすぐ死ぬの。それが定めなの。でもあなたの手で私を殺して。そうして私を転生させて」

その時の夢がくっきりと浮かんできました。夢を思い起こす、そんなことが現実にあるのでしょうか。立ち竦んだ私の目に階段を降り去っていく老夫婦の背中が小さくなり、表通りの中に消えていきました。


その夜、私は片手に荷物を持って神社の石段を上っていきました。懐中電灯の弱弱しい灯りを頼りに、神社の裏手に行くと、春の草の香りが強くしました。まだ冷たい大気の中で、枝垂桜の木は静かに立っています。灯りを木に向けました。濃いピンクの花びらがはらはらと散っています。春子、ごめん、そう呟いて、私は荷物を解き中にしまっていた新聞紙に灯油を染み込ませ、桜の根元に広げました。そして、ライターで火をつけました。

あっという間に火はあがりました。明々とした橙色に立ち上る火の中で桜の花が激しく揺れました。ごぅと風が鳴り、桜の枝が鞭のようにしなりました。そして、私は火に照らされた春子の最期の姿を目に焼付けるように見ていました。その時、突然雷鳴が響き、激しい雨が降ってきたのです。桜の木は雨と風の中で身を捩るような炎に包まれ、思いもかけず早くめりめりと音を立てて倒れました。雨に打たれ煙を吐き出す幹の姿に私は慄き、自分のやったことの罪にせかされる様に逃げ出しました。そのまま私は雨に打たれ、びしょびしょに濡れて家へと辿り着いたのです。


私の目が血走っていたのでしょうか。麗子は私を見て、驚いたように目を見開きました。

「あなた・・・」

そう言ったまま竦んで立っている麗子を少し手荒く押しのけました。

上がり框に座り込んだ私がびしょびしょに濡れているのを見て麗子はバスタオルを持ってきました。息を切らしている私の髪の毛に麗子は手を伸ばし、あ、さくら、と呟きました。散った花びらが私の髪についたままになっていたのです。麗子はその桜の花びらをつまみ、私がどこに行っていたのか悟ったようです。

「春子さんのところに行ったのね」

「春子はもういない」

荒々しくそう言って、私は麗子の細く白い手首を掴みました。春子を永遠に失った悲しみと、火を見た興奮と、何に対するものか定かでない欲情が私を捕らえ、その様々な感情を麗子の体で鎮めようと考えたのです。ですが麗子はその手を振りほどき、まっすぐ私を見て、言いました。

「橘君、私、子供ができちゃったよ」

麗子が私をその名で呼んだのは久しぶりの事でした。きっと彼女はもう一度、昔に立ち戻ることを覚悟して、その名を私にぶつけたのでしょう。私は唖然として彼女の顔を見詰めました。その顔にはその時の私以上の様々な感情が浮かんでいるように思えました。


20年以上も前の話です。その後麗子との間に生まれた娘は、去年結婚しました。橘桜子、と二つ続きで花の名前がおかしいと昔は文句を言っていました。でも桜子とつけたのは私ではないのです。妻でした。あの夜、私の髪にあった花びらを見て突然桜子という名を思いついたそうです。

娘は文句をさんざん言った癖に、嫁ぎ先は藤という姓で、あえてその名前の男に嫁ぐ娘の方がよほどおかしい話です。

不思議な話ですが、桜子が生まれた時、彼女のお尻に二つの痣があったのです。一つは桜の花びら一枚の色をした鮮やかな痣、もう一つは・・・私が桜の幹に彫ったあのハートの形です。最初は桜子が春子の生まれ変わりではないのか、と私は怪しみました。ですが、桜子は春子とは余り似ておらず、健康そうなまるまるとした娘に育ち、三歳になるころにはその痣も消えてなくなりました。

麗子は少し太りました。先生が言っていた通りいい妻です。退官される日先生の家を訪れた時麗子は先生の奥様から、イアリングの片方を貰ったそうです。先生が夫人に結婚前に贈ったものだそうです。奥様は何も理由を説明せずに、

「これを取っておいて」

と麗子に渡したそうです。その時、麗子は奥様がすべての経緯を知っているのだと思ったそうです。

結婚式に先生ご夫妻をお呼びしたかったのですが、あてどもなく旅を続け、時折葉書を送ってくださるだけの先生たちの所在がつかめず、そうできなかったのは残念な事でした。結婚して三月ほど経って、奥様の名前で葉書を受け取りました。先生は北海道の小樽の病院で最期を迎えられたとのことでした。

もう、麗子の裸を見た男は私一人きりです。

 

つい最近私はあの神社に参りました。最後に訪れてから、もうだいぶ経っていたのですが、神社の様子は全く変わっていませんでした、神社と言うものは。昔は良く遷座などしたものらしいですが、近頃はそんな事もないようで、昔あった場所に昔あったままにあるのは、神社とか寺だけです。それが神社や寺のいいところです。


春の良い天気の日でした。昔の通りエドヒガンはありました。枝振りは少し変わっていたような気がしますが。昔はあんなに幅広な枝振りではなかったような気はします。ああ、裏の桜の跡にも行きました。桜の木は株の後だけが、黒く炭化して残っていました。そこで暫くぼんやりしていると、神社の管理人でしょうか、私に話しかけて来ました。

「ここに桜の木があった事をご存知ですか」

私は頷きました。

「奇麗な桜でした。焼けてしまいましたが、残念なことです」

「そうでしたか」

私は素知らぬ風に答えましたが男は懐かしむような口調で言葉を続けました。

「三百年も前からの桜でしてね。この神社が移ってくる前からあった樹と言い伝えられていましてね。最後の年にそれはもう見事に咲きました。寿命を知っておったのですかな」

「寿命、ですか」

私は尋ねました。

「ああ、あんなことをされんでも、あの桜はもう寿命で切らねばならなかったのです。うろがひどくて風が強ければ倒れかねんでしたから。それでもあの最後の年はなんだか機嫌が良くなって、豪く花を付けました。まるで盛りのような花でしたな。前の年によほど良い思いを遂げたのでしょう。あの年はひと時より樹勢が良くなりましたからな」

私は黙っていました。

「あなたもあの桜を知っておるなら良い事を教えて差し上げましょう。そこのちょっと坂になっておるところ、道はないようなものですがな、その下にあの桜の子桜があるのです。去年はだいぶ花をつけていたから、今年ももう咲いているでしょう」

「そうですか、ぜひ見ていきましょう」

「坂になっておりますから、お気をつけていきなさい。本当は私が勧めてはいけないのでしょうが」

ははは、と笑いながら、管理人が示したあたりを、草木を分けながら私は下っていきました。ああ、と私は思いました。これは春子の家のあったところではないか。草に覆われた坂はあの春子と手を繋いでおりた坂に違いありません。私の背より少し高い桜の木がその坂の下にひっそりと花をつけていました。

春子、私は呼びかけました。春子は黙って私を迎えました。私が火をつけたことを怒っているのでしょうか。

近寄って、花の中に隠れていた蕾を見つけました。桜とは思えぬ濃い緋色の蕾でした。私はその蕾にそっと舌を近づけ、ねぶりました。春子の乳頭と同じ味がし、まだ枝ほどの太さしかない桜の木がほんの少し、身を捩るようにして揺れました。



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