第7話 教授の独白

ハンカチに包んだ「それ」を私は書斎で暫く眺めていた。白いハンカチの中には一本の縮れた短く黒い健康そうな体毛が灯したランプの光を受けて、煌めいていた。


余命を告げられ絶望に心を苛まれ、近くの金物屋で買った包丁を手に研究室で死ぬことを考えたあの夜、偶然訪れた教え子の女子学生が見せた思わぬ行為に私は呆然となりながら身を任せたのだった。

彼女は忘れ物を取りに来たと告げ部屋に入ってきた。だが、私の様子を尋常なものではないとすぐに悟ったのだろう。私が隠した包丁を取り上げると、すぐに私の死のうとした理由を悟ったようだった。そしていきなり衣服を脱ぎ裸になると私の体を包み込んだ。彼女の体は温かく生命に満ちていた。しばらくして私たちが体を離した時、迫っていた死の恐怖は、まだ残ってはいた。だが、私を圧倒するような死への恐怖の波は穏やかな波へと変わっていた。ひたひたと押し寄せては来るが、それは私を溺れさせるほどの高さや勢いを失っていた。たぶん、彼女の突飛な行動と、その温かな体が私の思考を正常な形に戻してくれたのだろう。

暫くして私がそれを告げると彼女はまた、明日と告げ私にも同じ言葉を言うように強要した。私は従った。彼女は包丁を、治部煮を作るからと言って持ち帰った。治部煮という妙に具体的な料理の名が、私を現実の世界へと更に引き戻したような気がした。

彼女が去っていったあと、私のズボンの上に一本の黒い若々しい陰毛が一本、灯りに反射して虹のような輝きを孕んで残っていた。それが・・・あの行為が夢でなかったことを証明していた。私はそれをそっと摘み上げるとハンカチに仕舞った。彼女は魅力的な女性だったが、それを性的な対象にするには私は些か年を取り過ぎていた。それに、彼女の行為は性的と言うより宗教的なもののように思えた。或いは医療行為だったのかもしれない。

彼女の裸が私を引き戻してくれたのだろうか?そうかもしれないし、それは単なる幻想かもしれない。

だが、死んではいけない、という彼女の切羽詰まったメッセージが、恥ずかし気に身を捩るようにして佇んでいるエロチックな陰毛に込められているような気がして私は到底それを棄てる気にはなれず、書斎のデスクの引出にしまっておいたのだった。


そして、今日再び麗子君というその女性と私は同じことをした。それはもう私にとって必要のない行為だったのかもしれない。でも、どちらからともなく私たちはそれを儀式のように行った。いや・・・正直言えば私はそれを望んでいた。死を避けることはできなくとも生きる残りの日々、私が生きることを望んで献身してくれる存在は神々しいものとさえ思えた。

しかし、その行為の代償として我々はその姿を見られてしまった。彼女の言が正しいとしたら、それを見たのは私の指導を受けているもう一人の学生だった。

橘君という学生はその目の付け所に見どころはあるのだが、どこか覇気の乏しい学生であった。その意味で麗子君とは対照的であった。しかし、私を現世に引き戻してくれた彼女が実は橘君のことを気にしているのではないかと予てから私は思っていた。だから・・・彼女にとって橘君にあのの姿を見られたという事は大きな衝撃だったに違いない・・・しかしならばなぜあの時彼女はまるで性交をしているかのように挑発したのだろうか?

まあ、いい。どちらにしても同じことだ。私たちはその姿を見られてしまった。彼が告発すれば私は免職されるだろうし、彼女は大学から放逐される。まもなくこの世を去る私の事は良いが、彼女には辛い先行きがある。しかし彼女は橘君は決して我々の事を漏らさないだろうと言った。確信があるかのようだった。本当なのかは分からないが彼のことは取り敢えず彼女に委ねることに私は決めた。もう決して彼女とはあのような行為をすまい。彼女は私に十分な勇気をくれた。

それに、私には全てを語らなければならない相手がいる。私は書斎の扉を開けて妻の名を呼んだ

「さちこ、話がある」

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