第6話 麗子の告白
その出来事があったのは、そう、今からちょうど一月前の事だった。
その日、私は資料の忘れものをしたことに気付いて、集っていた友人と別れるとひとり大学に戻った。その日の内に下書きを終える予定の論文にどうしても欠かせない資料だったのだ。
最初はクラブの部室のロッカーに置き忘れたのだと思った。大学時代アーチェリークラブに属していた私は院に行ってからも部から許可を得て時折、アーチェリークラブに顔を出すことがあった。でも、部室のロッカーの中に資料を入れたバッグはなかった。
そうだ、私は右の拳で左の掌を叩いた。クラブのあと教授室に寄った時にそこに置き忘れたのだ。
私は一瞬躊躇った。教授室は北5棟の三階にある。そこまで登って行っても、たぶんもう教授は帰宅しているだろう。教授室には鍵がかかっているに違いない。
「でも、もしかしたら・・・」
呟くと、私は意を決して暗い階段を登っていった。なぜそうしたのだろう?と問われても私には良くわからない。
廊下と階段の電気はついていたが、秋の日はとっくに落ちていて、階段の踊り場を通るたびに窓から満月が見えた。人っ子一人いない大学は陰鬱で、さすがに少し怖かった。それでも足音を押し殺すようにして辿り着いた教授室のドアの隙間からは細い灯りが漏れ、覗き穴からオレンジ色の光が灯っていた。
「あ、先生まだいらっしゃるんだ」
私は嬉しくなって、ノブに手を掛けようとしたが、その時聞きなれない音が部屋から漏れてきて、伸ばした手をそのまま止めた。少しドアに耳を寄せて息を止めると、その音は確かにドアの内側からしてくるものだった。まるで傷ついた獣が痛みに耐えかねてあげるような、悲し気な音・・・。私はドアを開ける代わりにそっと穴から中を覗いた。覗き穴のレンズが外れて外からも中の様子が見えることを私たち学生は院生を含めてみんな知っていた。
覗き穴から見た中は特に普段と変わった様子はなかった。教授は背を向けてデスクの前に座っている。他に誰かいる様子はない。私は首を傾げた。空耳だったのだろうか?
しかし、そう思った時再び不気味な音が聞こえてきた。確かに、扉の向こうから。私は静かに穴からもう一度中を覗いた。教授の背中は微かに震えているように見えた。あの音は・・・きっと教授の嗚咽なのだ。
私はしばらく躊躇った。一番妥当なのは、そのまま去っていくことだった。大の大人が、私みたいなひよっこに泣いているのを悟られるのは耐えられないことであろう。ましてその相手が自分の教え子であるなら、いっそう・・・。
だが、何かがそれを押しとどめた。それが何だったのか、今でも私は分からない。敢えて言うなら予感・・・それも良くない方の予感。
私は息を整えると、ドアをノックした。
「教授、いらっしゃいますか。松尾です。忘れ物を取りに来たんですけど、入ってもよろしいでしょうか?」
精一杯明るい声を出して私は尋ねた。返答は・・・ なかった。
「すいません。いらっしゃいますよね。開けます」
そう言って私は扉を勢いよく開けた。鍵はかかっていなかった。中で教授が素早く何かを隠すのが見えたけど私は知らんぷりをして中へと入っていった。
「君か・・・忘れ物があるなら早く探して帰り給え」
背を向けてそう言った教授の声は微かに震えを帯びていた。私は教授室にある古ぼけたソファの横に置き忘れた資料を手に取ると、つかつかと教授の背後へと進んでいった。
「先生、何をお隠しになったのです?」
事務的な口調で私は教授がデスクの下に隠したものを取り上げた。近くの金物屋のロゴの入った長い袋には出刃包丁の入った箱が隠されていた。
「女房に・・・頼まれたのだ」
顔を伏せたまま教授は弱々しく呟いた。
「奥様に?」
そんな筈はない。教授の家に何度か行って食事を手伝ったことがある私はその台所に一揃えの高価な包丁セットがあることを知っている。手料理に凝る夫人は包丁にもこだわっている。買うなら調理器具などに疎い教授に頼むはずがない、自分で買いに行く筈だ。私の声の調子に混じる疑念の響きに教授もその事に思い至ったのだろう、言い訳をするように顔を上げた。隠そうとしていたが、涙の跡と赤く血管の浮いた眼は誤魔化しようがなかった。
「どうされたのです・・・先生?」
私は声を和らげた。いや、和らげた積りだったけれど、その声は尋問調のように響いたかもしれない。
「この包丁を何に使おうとされていたのです?」
「・・・気の迷いだ。見なかったことにしてくれ」
教授の声はいつもの指導の時との自信ありげな声とは打って変わって、哀願するような響きを帯びていた。
「何かあったのですね?」
「・・・」
教授は答えようとしなかった。その時、私は思い出した。三週間ほど前、教授は健康診断に行くと言って一日講義を休んだ。その時は気軽に、
「もう僕も年だからね、健康には気を遣わねばならない」
と気軽そうに言って休みを取ったのだが・・・。
「病気ですか?」
教授は顔を俯けた。
「癌・・・だ。膵臓・・・。余命宣告を受けた」
切れ切れに教授は喉から言葉を押し出した。教授は今年六十三歳。まだ死に備える歳ではない。
「どのくらい・・・?」
「半年・・・」
「だから死のうとなされたのですか?」
教授はがくりと首を落とした。
「先生、私に何ができますか?」
私は尋ねた。教授は首を横に振った。
「何も・・・このことを黙ってていてくれればいい」
少し考えた。そして、手にした資料と包丁を使っているバッグの横に置くと私はスーツを脱いだ。そして、スカートとブラウスを外した。教授は目を丸くして私の事を見ていた。
「何をしているんだね」
漸く驚きから覚めたように教授は喉につっかえたような声を出した。
「何でもいいから生きる希望のようなものを私があげるとしたら、今持ち合わせているのはこれしかないんです」
背中でブラジャーのホックを外すと私は教授の前に立った。
「私では不足かもしれませんけど」
そう言うと、私は教授の上に覆いかぶさるように腰かけた。胸が教授の頬に触れた。最初は呆然となすがままにされていた教授はこわごわと言うように私の背中に手を回した。私たちはそのまま半時間ほど動かずに抱き合っていた。夜の帳に私たちは静かに沈み、世界は閉じていくようだった。やがて、
「ありがとう、もう大丈夫だ」
静かにそう言うと、教授は私の背中を軽く叩いた。
「寒いだろう、さあ、もう着なさい」
「先生の体、温かったです。それが生きているってことです」
私は体を離すと教授の顔を見詰めた。
「そう・・・そうだね」
教授は目が覚めたような表情で私の目を見詰めたが、さっと頬を染めると、
「さあ、もう服を着なさい。目のやり場に困る」
と言って目を逸らせた。私は何も言わずに下着をつけ、スカートをはいた。ブラウスのボタンを留め、髪を掻き揚げるとテーブルの上に置いてあった包丁を指して、
「先生、これを戴いていっていいですか。私の包丁、切れなくなったんでちょうどいいです」
「ああ・・・」
教授は頷いた。
「良かった。これで私、治部煮を作ります。故郷の料理なんです」
「治部煮か・・・君は金沢の出身だったな」
「ええ」
「それが良い。それが正しい包丁の使い方だ」
「・・・いつでも、苦しくなったら言ってください」
教授は一瞬呆けたような目で私を見詰めたが、
「ああ、ありがとう」
と言った。私は荷物を手にすると、もう一度教授の顔を見た。教授は頷いた。
「もう・・・大丈夫だ。僕もすぐ出る」
「じゃあ、また・・・あした」
「うむ」
「じゃあ、またあした、って言ってください」
「ああ・・・そうだな。じゃあ、またあした」
私は微笑むと教授室を後にした。
それからもう一度、私は同じことをした。教授がそれを直接求めたわけではない。でも私はその教授の様子をそれとなく、注意して見張っていた。そして次の満月の頃に私は教授に、
「今日・・・」
とだけ囁いた。教授は拒まなかった。彼もそれを期待していたのかもしれない。満月というのが彼の憂鬱に影響を与えているのか、私自身が影響を受けているのか良くわからなかった。
「せんせい・・・」
私は教授の耳元に囁いた。
「本当はしたいですか?」
教授は小さく首を振った。
「僕は・・・もう・・・。これで十分だ」
「そうですか」
私は頷いた。裸で彼に跨っても彼のあれが反応しないことで私はそれを予感していた。それでも彼は幸せそうに見えた。それで十分だった。
でも、、、だからと言って私が教授の事を愛していたかと言うとそうではない。彼は傷ついた獣のようだった。傷ついた獣を私は見捨てることができなかっただけだ。私は密かに別の一人の男を愛していた。でも、彼に対してそれを私はうまく表現することはできなかった。昔からそうだ。愛している人ほど素っ気なくしてしまう。それは私の愛の
「奥さんにはおっしゃったんですか、病気の事?」
私はその男の事を心から締め出すと教授に囁いた。
「いや・・・まだ」
ならば、本人と医者以外に私は教授の病気を知っている唯一の人間なのだ。それはなぜか私の心に暗い喜びのような物を与えた。
「でも、言った方がよろしいんでは?」
「うむ、医者にもそう言われている。言われているというより命令されている」
「じゃあ・・・」
「もう少しだけ、待ってくれと医者には言っているが、もう言わねばならないだろう」
「そうですか・・・」
そう答えた時だった。こちらに向かってくる微かな足音を私は聞いたような気がして、私は耳を澄ました。
「どうしたんだね?」
教授は囁いた。急に体を竦めた私を不審に思ったのだろう。
「いえ・・・」
私は全身の感覚を扉の向こう側に向けた。彼がそこにいる。私は確信した。あの覗き穴の向こうから、誰かが私たちを見ている。そしてそれが誰であるかを私は悟った。
私は体を上下に揺すった。まるで背中を向けた男と性交をしているかのように。扉の向こう側で息を呑む声が聞こえた気がした。
やがて・・・扉の向こうの気配は静かに消えた。私は・・・体を動かすのを止めた。
「・・・?」
「人がいたかもしれません」
教授は驚いたように扉へ振り返った。
「ほんとか?」
「でも・・・多分大丈夫です」
「なぜ?」
「この部屋に・・・誰が来ますか?」
「それは・・・ほとんどの場合君たち学生だが。しかしこの時間となると・・・」
「多分、橘君です」
「え?それはまずいな」
教授は少し焦ったような声を出した。それがなぜなのか、私にはわからなかったけど。橘君であろうと、他の学生であろうと彼にとって「まずい」ことには変わりはないのではないだろうか?
「でも・・・橘君は言いふらしたりしません」
「しかし・・・」
「どうします?」
「どうしますって・・・?」
「もう少しこのままでいますか」
教授は私を見、それから私の胸を見た。人に誇れるほどの大して立派な胸ではないが。
「いや・・・ほんとうにありがとう。おかげで僕もそろそろ病気と闘う覚悟ができたよ。いい機会だ。妻にも打ち明けようと思う。職も辞さねばならん」
「そうですか・・・」
私は体を離すと、それから教授の額に軽く触れた。
「そうですか。先生は正しい道を見つけたんだと思います」
「しかし、僕は・・・万一のことがあっても破廉恥行為をしたと非難を浴びる覚悟があるが、そんなことになっては君に済まない。橘君を何とか説得しないとな」
「その必要はありません」
私は下着を付けながらそう言った。
「その必要はありませんよ、先生」
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