第4話

大学での生活において、私が懼れていたような変化はありませんでした。

いらいらした時に机を指で叩くという教授の癖を、時折聞かざるを得ないという状況は変わりませんでしたが、取り立てて彼の不機嫌が続くようなこともありませんでした。教授の痛烈な批判を受けつつも、次第に論文の骨子は固まっていきました。

教授を軽蔑する気には不思議になりませんでした。あの麗子が自分の意思に反して教授の思いのままになるとは思えなかったのです。もしも強要されるようなことがあれば、麗子は教授と刺し違えても自分の意思を通す、そんな女でした。である以上、あの情景は麗子の意思の結果であるとしか思えません。

麗子に関していえば、少し私に対する愛想のなさが増したようにも思えましたが、あんなあられもない姿を見てしまった麗子と二人きりで話すことに怯んでいた私には却ってありがたいことでした。麗子があの時、扉の外から自分たちのしている行為を見られたことに気付いたのはその時は間違いないと確信していたのですが、いつの間にかその確信はあやふやなものになっていきました。いったいそのような情景を一目に晒して人は平然としていられるものでしょうか?

そのうちに、私はあの日に見た情景そのものさえが錯覚であったような気持ちになっていました。

そもそも教授が麗子とあのような関係になるという事は考えにくいことでした。頭が固すぎるほど真面目だというのが彼に対する一般的な人物評でしたし、教授の家を訪れる機会が何度かありましたが、夫人と一緒にいる教授は仲睦ましい家庭人にしか見えませんでした。

あの日以降、教授室を時折アポイントなしに訪れることはあったのですが、どきどきしながらノックをして入っていても教授はいつもコーヒーを飲みながら、

「入りたまえ」

と振り向きもせずに答えました。私は春子との恋愛と情事に夢中で、それに論文の仕上げと言う厄介な、それでいて必ず必要な作業があって教授と麗子の情事などに構っている心の余裕はなかったのです。


それから一月ほど経ったある日、始まったばかりの梅雨の合間にある晴れ間の日だったと記憶しています。いつも通り私は春子の家で性交をした後、春子の髪を撫でながら、たまには外に出ないかと聞きました。ふつう、女性は買い物とかそういう外出をしたがるものです。なのに春子は外出に消極的な女でした。その日も春子はかぶりを振って、私の提案に抗いました。

「でもこんなにいい天気ですよ。これからは雨ばかりだ。せっかくだから」

そう言って、私は部屋にかかっていたカーテンをもう少し開け、外を眺めました。古い木の塀が大学生活とこの家での密やかな秘め事を区切るように頼りなげに家を囲んでいました。春子は私の隣に立つと私と指を絡めました。春子の乳頭が硝子に触れ、

「冷たい」

 と春子は微笑みました。その横顔を私は眺め、外に出ることを諦めました。かわりに彼女にキスを仕掛け、彼女はそれに応じました。

「いつまでもこうしていたいわ」

春子は唇を離すとそっと言いました。

「僕も、です。春子さん、一緒に住みませんか?」

長い間、温めていた思いを私は彼女に問いかけました。春子は胸に腕を交差して私を見詰め、

「そうできればいいのですけれど」

ぽつんと呟くように答えました。

「できますよ」

私は春子と一緒に住むために見つけていた近くの小さなアパートの事を話しました。春子は熱心に私の話を聞いていました。しかし、聞き終わると

「嬉しいですわ。それに・・・そんなことを考えるって、とっても楽しい。でも、私はこの家を離れるわけにはいかないのです」

春子は、小さな声でしたが、はっきりとそう言いました。

「ここからとても近いのですよ」

そう私が言っても、それからの春子は小さく首を振るばかりでした。

「では、僕がここに住むのはどうでしょう。家賃も払います」

驚いたように春子は私を見つめ、

「それはできません。ここは知り合いから借りている家ですけれど、男の人と一緒に暮らしていることが知られたら、追い出されてしまいます」

そう言うと春子は

「寒いわ」

と呟きました。裸でいたためか、私も小さなくしゃみをして春子の体を両手で抱きました。

こくんこくんという心臓の音が春子の胸から聞こえました。その鼓動を聞きながら、私はけしてこの女を離さないと強く思いました。

「温かい」

今度は、そう呟いた春子をソファーに横たえ、私は再び春子のワギナにペニスを当てました。春子の乳頭が緩やかに揺れ、二度の性交で開いた春子のワギナは私をすぐに受け入れます。ゆっくりと深く私は春子の体に押し入りました。春子の小鼻が艶かしく息を弾ませ、押し殺すような喘ぎ声を春子が上げ始めました。その時春子の目尻が少し滲んでいたような記憶があります。

ふと目が覚めると春子は私の横で眠っていました。空の陽は翳り始めていて私たちはずいぶんと長く眠っていたようです。春子はよほど深く眠っているようで、私が起きても気が付きませんでした。悪戯心を起こして私は趣味のスケッチ用にいつも携えているクレヨンを出し、赤いクレヨンで春子の白い尻にハートのマークを書き入れました。その中に真人・春子と書くと、まるで小学校の時のいたずら書きのようになりました。そこに軽くキスをして毛布で隠すと私の毛布を重ねて春子に掛け、家をそっと抜け出しました。落ちかかっている陽は赤く燃えていました。それは今でも鮮やかに覚えています。

翌日、私はひどく体がだるく、熱を測ると38度ありました。アパートの小さな部屋で午前中、ずっと私は臥せっていました。春子は家に電話を引いておらず、会う以外に連絡を取ることはできません。もちろん携帯電話もまだ出回り始めたばかりで私たち学生には縁遠いものでした。

仕方なしに痛む喉をぬるいお湯で潤し、晩秋用のジャケットを羽織るといつもより早く家を出て、私は神社に向かいました。その日はさすがに逢ってすぐ帰るつもりでした。一人暮らしの春子に風邪をうつすわけにはいきません。できれば春子に電話を引いて貰うことも頼もうとも考えました。神社の石段を上るのも辛いくらいでしたが、上りきると清冽な空気が満ちていました。時間が少し早かったので、枝垂桜を見に行こうとふと思い立ちました。なぜ、そんなことを考えたのか今でも良くわかりません。でも、そう思い立つとなぜかそれは義務のように思え、私は春子と最初に出会ったベンチから立ち上がったのです。

枝垂桜の木の花もすべて散って、葉が黒い幹を覆っていました。ちょうど、春子の触っていたあたりの幹を触ると、風に枝が揺れ私は少し弱っていたせいか、よろめきました。その時、ふと目の端に鮮やかな赤いものが映りました。座って見ると赤いハートのマークとその中に書かれた文字が桜の幹に書かれています。目を凝らし、それが、自分が春子の尻に書いた真人・春子という字であると気づいたとき、急に目の前が黄色く点滅したように感じ、私は桜の根元に倒れました。倒れるときに頬に黒く冷たい土が触れ、春子の声を聞いたような気がしました。湿った土の強い匂いが最後の記憶でした。


私の顔を二つの眼が覗いていました。春子か、と一瞬思いましたが春子の漆黒の眸と色が違いました。

 「大丈夫?気が付いたの?」

 ああ、この薄い色の眼は麗子だと気づき、私は目を閉じました。

頬に冷たく雫が落ち、それが麗子の目から零れた涙であると気が付いたのは暫く経ってからです。

 「松尾さん」

麗子を名字で、私は呼びました。麗子は私の手を握りました。温かな手でした。私は

 「ここはどこ?」

 と、尋ねました。

 「病院よ」

確かに病院の薬くさい臭いがあたりに漂っていました。

 「僕はどうしていたんだろう」

 「神社に倒れていたの。気が付いた神社の人が救急車を呼んでくれたの。すごい熱だったのですって」

腕に刺さったリンガー液のチューブを見やり、ぼんやりと麗子を見ました。

 「なぜ、泣いているの?」

 麗子は私を見て、

 「悲しかったから」

麗子はそう答えました。私は訝しげな目をしたのでしょう。麗子は

 「そうよ。悲しかったから。橘君が死んでしまうかもしれないと思ったら、悲しかったから」

 「有難う。心配をかけた」

 「先生も気にしていたわ。ずっと付き添ってやれとおっしゃたわ」

 「ああ、そう」

 そう言って私は目を閉じました。教授と麗子の、あの性交の情景がまざまざと思い出されたのです。

 「春子さんというのね。あなたの恋人。ずっと譫言で春子さんと言っていたのよ。連絡を取りましょうか?」

私は目を瞑ったまま、顔を横に振りました。

 「いや・・・いい。いいんだ」

 そう、と麗子は呟いて、私の頬に手をあてました。すべすべとした柔らかい手でした。すぐに私は再びの眠りに落ち込んで行きました。

 


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