【序章 ずっと続くと思ってたから】3
「これが……」
求め続けた《ササノウカビ》の姿を見上げ、十三歳になったシキ=カガリヤは思わず感動の声を上げた。軽やかな帆、流線形の、美しい船体──。
ササノウカビ。それは帝国が秘密裏に造り上げていた、最新鋭の船だった。
「最高にカッコいいだろ、シキ。船ってやつは!」
興奮を抑えきれない様子で、傍らの青年が肩を叩く。肩まで伸びた黒髪を、背中で束ねた線の細い青年だ。彼の言葉に、シキは素直に頷いた。
「……はじめて見たけど、すごくカッコいい! でも、まだ地面の上なんだね」
「はじめから海上で造るのは、すごく大変だから。こうやって地上で造って、あとから周りに水を入れて浮かせるんだ……たぶんね」
そう言って軽く笑うと青年は、船と海とを隔てている巨大な門を指差した。なるほど、あの門を開放することで、海水が流れ込んで船が浮かぶ仕組みなのだろう。
つくづく感心してしまう。なにせ《ササノウカビ》の設計図は、もともと彼──アオイ=ユリヤが、趣味で作ったものなのだ。
「アオイさんは、ほんとにすごい。こんなもの、たった一人で……」
物心付いた頃から、青年は船旅を夢見ていた。帝国法で禁止されていると知りながら、独学で造船を学び、自分だけの船を夢想し、設計図まで書き上げたのはそのためだ。
そんな密やかな楽しみは、しかし唐突に終わりを迎えることになる。
設計図の存在が、どこからか帝国政府に漏れたのだ。青年は設計図を奪われ、数年におよぶ獄中生活を余儀なくされた。彼がまだ、十代半ばの日のことである。
「設計図を奪われたときは凹んだけど……まさか、勝手に造られてたなんてなあ……ずいぶん立派になったもんだよ、本当に」
感慨深げに目を細め、青年はゆっくりと船に近づいてゆく。かと思えば突然こちらを振り返り、両手を広げて笑うのだ。
「さあ出港だ! シキ、ソラ! 二人とも、準備はいいかい?」
アオイ=ユリヤ。子供のような無邪気さと、尊敬すべき博識さを併せ持ったこの青年と出会ったのは、今からちょうど一年前のことになる。
初めて出会った頃、彼は不治の病に伏していた。顔は青ざめ頬はこけ、今にも消えてしまいそうなほどの状況だった。
帝都で「不治の病」とされていたアオイの病に、ソラの血液から抽出した成分が奏功したのは……偶然か、それとも必然か。
とにかく怖いほど順調に、シキはアオイの治療法を開発した。それからはトントン拍子で、かつて彼が夢想していた
──結論から言おう。ノルの言葉は完璧だったのだ。
「……シキ。あの日、会いに来てくれてありがとう」
「えー、突然なに? なんだか改まって、恥ずかしいよ」
「ちゃんと伝えておきたいんだ。今こうして僕が生きているのも、長年の夢が叶うのも……全部、シキとソラのおかげだ。ありがとう。僕にはね……愛して止まないものが三つあって、その一つが、君たちみたいな──」
「やめてよ、照れちゃうから! お礼なら、この文字をくれた〝ノル”に言ってよ!」
手をぶんぶん振って謙遜するが、本当は心の底から誇らしかった。
「……それじゃあシキ、君が一番乗りだ。ほら、ソラもおいで!」
振り返って、アオイがソラに手招きをする。
「えー、まって! ぼく、もっと宝さがしして行きたいよ!」
しかし海岸線を歩くソラは、船よりも貝殻集めに夢中だった。三年前と少しも変わらぬマイペースさに、シキとアオイは、顔を見合わせ少し笑った。
三年前──故郷を出る決意を伝えたとき、母は少しも怒らなかった。きっと寂しいに違いないのに、優しく微笑んでくれたのだ。
よかった、と母は言った。やりたいことが見つかって良かったと。不自由させてごめんね、これからは迷わずに、自分の道を歩むんだよ……ソラをよろしく、元気でね。
温かな言葉が、記憶の中で反響する。
「……お母さん、行ってきます」
一足先にササノウカビへと乗り込んで、シキは深く息を吸い込んだ。それと同時、門から大量の海水が流れ込む。ぷかりと船が浮かぶ感覚に、シキはわっと声を上げた。
──その時だ。
ほんの僅かに、地鳴りのような音が聞こえたのは。不思議に思い、シキは船から身を乗り出す。アオイは少し首を傾げて「地震かな」と呟いた。
「……たとえば、僕の仮説では」
そう前置きして、涼しい顔でアオイは続ける。彼は、地面の亀裂を指差していた。
「海水が、地中深くに流れ込んで……その影響で地底圧力が変化し、地震を誘発した」
「そんなことがあり得るの?」
「可能性は低いが、ゼロじゃない。自然の神秘ってやつだよ。例えば他にも──」
……しかしアオイの言葉は、激しい爆発音によって掻き消されることになる。
帝国中央にそびえる霊峰──ミカゲヤマ。その頂上付近から、轟音は聞こえた。見上げればもうもうと煙があがっている。くすんだ赤茶色の、不気味な煙だ。
瞬間、アオイの顔が強張った。
「アオイさん……?」
アオイ=ユリヤはいつでも不思議な余裕があって、どんな時でも優しい笑みを絶やさない。そんな彼が顔面蒼白になっている。
直感した。何か……とてもまずいことが起きている。
次の瞬間、アオイが叫んだ。
「シキッ! 今すぐにソラを連れて来て! 一刻も早く! 船に乗り込むんだッ!」
「何……? ねえ、何が起きてるのアオイさん!」
「火山湖の爆発だ! 湖底に溜まった毒ガスが流出する! ここにいたら死ぬぞッ!!」
「…………ッ!!」
──思考するより、身体が動く方が早かった。
ソラ、ソラ、ソラ!! ──弟の名を繰り返し、気付けばササノウカビを飛び降りていた。何度も何度も呼びながら、永遠にも思える海岸線の、砂の上を必死に走った。
しかし、ようやく触れた少年の身体は──。
「ソゥちゃん……?」
ゾッとするほど、冷たくて。
「嘘、そんな……そんなこと……」
──どんなに嘆いても、もう遅い。
壊れた運命の歯車が、狂ったように回転する。
少年は、仰向けになって倒れていた。大きな目は無感情に見開かれ、瞬きを失い、白濁していた。弾けるような生命力に満たされていた、かつての面影はどこにもない。
ガクガクと引き攣れるように、筋肉が無秩序な収縮と弛緩を繰り返す。そのうち両脚が奇妙な方向に湾曲し、絡み合い、巨大な蔦のように捻じれて、伸びて──。
「……ア……アァ……」
動物じみた呻きを上げながら、少年は自らの肉体を掻き毟る。
すると皮膚が、腐った樹皮のようにべろりと剥げた。奥から現れたのは、異質な白の肉体だ。その「白」は、死者へと手向ける
やがて全身の皮膚が剥がれ落ち、衣服までもが灰となり、少年は色彩を失って。
「…………ッ!?」
そこであることに気付き、シキはギョッと目を見開いた。
剥がれた皮膚の内側に、びっしりと奇妙な文字が刻まれている。
反射的に拾い上げ、シキはそれを凝視した。
……忘れもしない。それは自分をここまで導いた、全知全能の神・ノルの筆跡。しかしソラに刻まれたそれは、シキの物とは決定的に異なっていた。
──悲劇の火蓋は切られた。
愚かなる「願い」に酔わされて──《
やがて帝国は侵される。《
さあ悲劇を止めたくば、全ての始まり──《
さもなくば帝国は破滅を迎え、君は永遠の苦しみを負うことになるだろう。
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